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雨の獣⑤


 彼らは、去る前に私が書いた誓約書を眼の前にちらつかせた。それには美雪の変化に対して得られる情報全ての開示であるだとか、美雪の所有権に関する些細な事柄であるだとかが記されており、私がそれを反故にして彼らの前から姿を消すのであれば、それは私達どころか妻もまた死に晒されることになるのだと云いたいようではあったが、私にとっては妻の命など今はどうでもいい、それこそ些末な事だったのである。私は静かに頷き、再び視線を美雪へと戻した。彼らが置いていった何枚もの清潔な白いバスタオルを使って、血で濡れた髪を拭いてやり、真新しいシーツをベッドに敷いてやった。それから頬杖をつきながら、美雪の顔を観察した。瞳は相変わらずきらきらと輝いたままで、瞳孔の中に輝く星々は時折大きく揺れ動き、美雪の命を感じさせた。彼女の小さな口であるだとか、耳であるだとか、右目の端と右鼻の端の丁度対角線上に位置する小さな黒子などを見つめている内に、彼女が脳死してからの間、その顔の仔細をじっくりと見てやる事などなかったと思い、如何に見ているようで、何も見ていなかったかを彼女自身から突きつけられる思いがした。
気が付くと私は眠りこけていたようで、眼を覚ますと本当の白衣を着た医者と看護師が、私を見て驚いたような顔をしていた。一晩中寝ていたのですかと問われ、私が頷くと、医者達は私がさも立派な父親であるかのように、感心したかのように何度も頷いていた。美雪へ眼をやると、シーツも、彼女の髪の毛も、そして来ている病衣も、何か降ろしたてであるかのように、汚れが一つもなく、私は、あの二人の仕事の行き届きっぷりに、心から関心してしまった。医者達が美雪は今日も変わらず可愛らしいと彼女の容姿を褒めると、私は心の底からその言葉に同意した。それは、眼の前にいる医者には視えないだろうが、今日が彼女の聖誕祭であり、何か新しい物へと脱皮と云うべきか転生と云うべきか、とにかく、新しい彼女へと変わった事を、私自身が理解していたからだ。再び、きらきらと瞬く美雪の双眸を見ようと、彼女の方を振り向くと、彼女は瞳を閉じて普段通りの姿のまま、横たわり、眠りについていた。夢でも視ていたのか。そのような考えが頭に浮かび上がる。幻想の中を歩いていたのではないかと、不意に不安が過る。間違いなく、私は、私の掌を濡らした血の温もりも香りも全てを事細かく覚えている。けれども、彼女は私の昨夜の記憶の延長とは違い、美しい双眸を閉じ、眠りについてからの四年間、一度として変わる事のない表情で柔らかなシーツの上に横たわっていた。ふいに鼻の奥からこみ上げる強烈な痛みに、私は眼を細めた。医者達は、私の表情の変化など気にもとめず、ただ微笑をその顔に貼り付けたまま、病室を後にした。誰も彼もが去り、一人部屋に取り残された私は、ただ昨晩もそうしていたように、美雪の手を握り続けていた。柔らかいその掌には、いくつもの皺が刻み込まれていたが、赤ん坊のように押し返してくる弾力のあるその肉は、彼女が生きているのだと、何よりも雄弁に私に物語った。暫くの間、私は美雪の病室で彼女を見続け、正午を過ぎた頃に流石に腹が減り、一度家に戻ったのだった。美雪の容態に変化があったのは、その日の夜の事だった。私は、あの夜の奇怪な手術が嘘や幻想ではなかったことを、時間が経つにつれて確信し、何か高揚感のようなものがこみ上げて来るのと同時に、美雪に会いたい一心で再び病院へと舞い戻ったのだった。暗くなり始めていた病室の静寂に、幽かに聞こえる私を呼ぶ声を、幻聴とは思えずに足早に彼女の病室へと向かう。病室へと入ると、美雪は半身を起こした状態で、布団の中から私を見詰めており、その双眸は、あの夜に暗い天井を見つめていた綺羅星の如く輝いており、やはりあの夜が幻想ではなく、紛う事なき彼女の誕生日であったことを知った。感激に震える私の眼の前で、ただ沈黙を守り続けていた美雪の腕が、微かに動く様を見て、私は目頭を揉んだ。今の光景が、自分が見ているただの幻想であるのならば、夢から醒めないで欲しかったが、ゆっくりと弛緩していく私の脳内の光景と反して、美雪の五本の指が軽やかに動き始める。あれは、ショパンだろうか。妻に嫌々習っていたピアノを弾く時の動きが、ベッドの上で眠る美雪の指先で再生される。あれほど嫌がっていたピアノの練習を、一曲のテーマが変えさせた。『宇宙飛行士のマーチ』という曲は、ピアノに習いたての子供が弾く練習用の簡易な曲であったが、美雪は喜んでそれを弾いていた。都内のマンションの七階だったが、防音設備は完璧な物件だった。妻もピアノを弾き、娘も習うからと、半ば強引にそのマンションを契約させられた。案の定、妻はピアノを弾くことなどなく、美雪もそれを引き継ぐとばかり、私は思っていた。『宇宙飛行士のマーチ』を習ってから、美雪は百八十度変わったかのように、毎日ピアノの練習を行った。美雪が軽やかな指使いで弾くマーチは段々と私自身もどこかで聴いたことのある、有名な作曲家達が創った偉大なメロディーへと転じていった。天才と称される音楽家達の創った曲の何処が素晴らしいのか、音楽に疎い私には気付く筈もなかったが、美雪を媒介としてそれらの曲が私の耳朶に届く度に、彼らの天才性に、私は改めて気付かされたのである。それと同時に、あまりにも早熟にピアノを覚えていくものだからか、私は美雪が音楽の才を受けて生まれてきたのだと、錯覚する程であった。軽井沢の別荘にもヤマハのピアノを置いて、研究の合間合間に流れてくる彼女の奏でる音楽に、私は一人酩酊にも似た陶酔感覚を味わっていた。その時の音楽が、ベッドの上で彼女が指を動かす度に、私の内耳の中に蘇り、一種のトランス状態を味わう。美雪の掌全体が開いたり閉じたりと軽やかな動きを繰り返し、それは右手から左手へと連奏していく。何か檻の中の動物を見るかのような、美術品を見つめるかのような心持ちで、私はその動きの仔細を見詰めていた。暫くすると、手の動きが止まり、美雪は何度かの瞬きをして見せた。背筋に悪寒が走ったのがわかった。美雪が両肘をシーツに押しつけ、ゆっくりと上半身を起こそうとしていた。手伝えばいいものを、ただ美雪の動きを見ていることしか出来なかった。彼女に手を差し伸べるのが、何かとても怖い事のように思えたのである。彼女は、自らの力でのみ起き上がろうとしている、それを私が崩すことは、何かあり得ないことのような、禁忌に触れるようなことなのではないかと思えたのだ。数分間、私は待ち続けた。身体中を蠕動させながら、少しずつ少しずつ、美雪はその身を起こしていく。ついに上半身全てを起こした美雪は、私の方へゆっくりと顔を向けた。この間、私は呼吸をすることを忘れていた。何か、蛹が蝶蝶へと転身する様を見るかの如く、息を潜めて、美雪を刺激することなく、私はただ見守り続けていたのである。美雪の瞼が開き、綺羅星のような瞳が私を見詰めた。思わず息を呑んだ。潤んでいるかのような瞳の中に、私が映っていた。その顔は、彼女の瞳同様に潤んでおり、潰れた果実のように醜いものだった。パパ、何で泣いてるのと、彼女の口から言葉が零れた。私は何も応える事が出来ず、ただ声にもならない呻き声を上げながら、何度も頷くしかなかった。ふいに、廊下から甲高い靴音が聞こえ、それがどうやら此方に近づいているようだと気付くと、私は慌ててその身を隠そうと、部屋中を見回したが、生憎何処も私の身体を受け入れてくれはなさそうで、私は彼女のベッドの下に残された僅かのすき間に身を潜めた。靴音は確実に大きくなり、私の元まで近づいて来る。両手で口を防ぎ、視界に映る微かな景色を見詰め続けた。明るいクリーム色の光沢を放つ床の上を、白いハイヒールがコツコツと音を立てながら近づいて来るにつれ、いよいよ私の心臓は早鐘を打つかのように鼓動が大きくなった。私の体内で鳴り続ける巨大な心臓音、これがあの白いハイヒールの主に聴こえない方が可笑しいという思いで、半ば見つけられる事を観念したかのような心持ちだった。何か、この部屋の変化というものに白いハイヒールの主は気付き、行進を止めると、直ぐに部屋中に響きそうな金切り声を上げ、次いで、何度も何度も、初めは恐る恐る、次第にそれは驚きを帯びた声色に変化し、私の娘の名前を丁度五回呼んでみせた。時折挟まれる、嘘、という言葉は、彼女にとっては信じられない奇蹟を目の当たりにしている心の叫びであると同時に、私にとっては先程までの無限とも云える夢の中の出来事を現に変える、他者からの初めての宣告でもあったのである。白いハイヒールの持ち主は直ぐさま病室を抜け出て行き、私はまた部屋に美雪と二人取り残された。私はベッドの下からのそのそと這い出ると、立ち上がって誰もいない事を確認し、そうして美雪をまた見詰めたのだった。美雪は何も識らない、純真そのものの表情をしており、彼女の中に残る少女性を、私に突きつけた。私は美雪の頭を覆う繃帯から微かに覗く額に口づけをして、また戻ると約束して病室を後にした。途中、何度も振り返ろうと後ろ髪を引かれたが、振り返り、彼女の顔を見てしまうと、この現実が砂の城のように崩れ落ちていくのではないかと思え、怖くてそれが出来なかった。(⑥に続く)

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