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雨の獣③


 不思議なまでに私の頭の中は冷静であり、何をするべきなのかを心得ていた。妻は血相を変えて私の元へとやってきた。何事かをがなり立て、私の顔に唾を吐いた。私は動じていなかった。娘の心臓を取り替える。そうしなければ、健全な魂が宿る美雪の脳が死んでしまうから。確か、そう喋ったと思うのだが、正確には思い出せない。ただ、こうすることが娘を救う唯一の手立てだと、確信犯として、私は動いていた。妻の姿がいつの間にか消え、私は娘を研究室の寝台に寝かせた。まだ彼女が生まれる前から此処で様々な研究を施してきた。自分の娘がその研究の対象になるとは己の人生はなんというアイロニカルなものなのだろうかと自嘲した。不意に、耳を劈くけたたましい音が聞こえ、私の鼓膜はその能力を一時的に失った。硝煙の匂いが立ちこめ、煙が部屋の中に充満した。扉の前に妻が私の猟銃を持ち立っていた。私を止める為ならば殺すことをも辞さない瞳が鋭く猛禽類の如くに鈍色に光っていた。彼女は一筋の泪を零しながら私の頬を張った。微かに取り戻しつつある聴力が、近づいてくるサイレンの音を拾っていた。美雪はやってきた救急車に運ばれ、近くの総合病院へと運ばれた。気がつけば、私は病院の廊下で一人中空を見つめていた。目に映る光景全てに紗がかかり、まるで鉛筆画のように乱れた斜線がそこかしこに描かれていた。次第にその景色全てが水の底に沈んでいく。私は泪を拭き、自分の運命を呪った。美雪の手術中、私はただその結果を待つことしか赦されていなかった。妻は疲れ切った顔で壁に靠れ掛かっていた。決定的に何かが崩れた事だけは理解出来た。私自身、私の中の、研究という大義名分を盾に私欲を貪ろうという獣が体内に潜んでいる事実を今日新鮮なほどに自覚した。実の娘が死の淵にいる最中、その娘を使い己の研究の成果を試そうとしていた。悪魔が私の中に棲んでいた。妻はそれを知っていたのか、私が最悪の一歩を踏み出す手前でそれを阻止した。本来なら感謝して然るべきなのであろうが、仄かな憎しみの香りが自身の中から漂うのを感じていた。それは、暴力性すらも伴う。そしてその臭いに気付いた同時に、私は戦慄を覚えながら、その恐怖に蓋をした。
医者がやって来て、美雪の容態を私に告げた。ただ、脳死という一言だけが私の耳朶の奧にこびり付き、反芻されるかのように何度も何度も耳から心臓まで滑り落ちてはまた這い上がってくる。吐き気が無限に続いている。恐るべき言葉がリフレインされる。その言葉が心臓に触れる度、背筋に震えが走った。眼の前の医者の顔を見つめても、その表情が能面にしか見えず、能面は延々と訳の解らない、理解出来ない言葉を吐き続けていた。永久とも思える時間が過ぎた。私は大量のチューブに繋がれ、髪を剃られながらも眠る六歳の娘と相対した。先程までの青い唇はうっすらと桜色を宿し、頬の血色も戻っていた。恢復は絶望的だと、医者はそう云っていた。私にはその言葉が信じられなかった。今にも夢から目覚めそうではないかと思える程に、娘は生気を宿した色合いでベッドに横たわっていた。
それから何日間も、私はそこで美雪が起き上がるのを待ち続けた。理性では起きるはずがないと理解していながらも、幽かな望みに私は賭けていた。彼女がふいにその小さな瞳をぱちりと開けて、ゆっくりと起き上がる。身体中、暫く使っていなかったからだろう、腕や足の筋肉が痺れて動かない。美雪はゆっくりと伸びをして、徐々に身体の使い方を思い出していく。その様を見守る私と眼が合い、小さな唇を開いて、パパ、と一言私に声をかける。焦らなくていいぞと、私は静かに頷いてみせる。瞳を開けると、相変わらず美雪は眠り続けていた。起き上がる素振りも気配もない。永遠にこの地獄が続くのかと思うと、途端に気が狂いそうになる。この病院にいる私を含む全ての人間の命を糞溜に捧げても構わない。美雪を再び蘇らせてくれと、神を冒涜する研究を行う身で願った。無論、何も起こる訳がなかった。四年が経った。妻は私の元を去った。時折美雪のお見舞いに訪れるだけで、私と病室で鉢合わせしても口を開くことも、眼を合わせる事もしなかった。私も、妻に対する興味等はとうの昔に失せていた。もはや、美雪の母であり、遺伝的に繋がりのある女性としてしか認識しておらず、二人の愛は完全に潰えていた。私は東京の邸宅を売り払い、彼女を生かすための資金としてその全てを注ぎ込んでいた。六畳一間のアパートに借家暮らしながら、眠る彼女の微かな成長を見届けるのだけが、人生の楽しみにと化していた。
自分の中の悪魔を突きつけられたあの日から、私は自分を偽って生きてきた。欲望と愛情を失い、ただ娘が死ぬその日までを無為に生きる。私は疲れ切っていた。金銭的困窮にあっても、私は軽井沢の別荘と、あの猟銃は手放さなかった。何故かはわからない。前者は思い出を生かす為だろうか。後者は恐らく自殺する為に必要だからだろう。あの日、あの猟銃で撃たれていたら、私はこれほどの絶望と相対することなくその人生を終えていたのだろうか。もはや、あの猟銃に込められた弾丸が私の肉を爆ぜさせ、その血を撒き散らすその日が近づいている事は疑いようもなかった。ただ、それでも私は美雪が十六を向かえるまで、美しい花嫁になる資格を得られるその日までは、生きていなければならなかった。いや、それも十八になるようだと、どこかの新聞の片隅で眼にした。小さな変化とはいえ、彼女の身体は微かに、健やかに大きくなっていた。いつかは私の背丈と変わらない美しい女性へと変貌するのだろう。その日が待ち遠しくて溜まらなかった。ベッドで横たわる彼女を見つめながら、あの日、妻の制止を振り切り、あの猟銃で妻の頭を撃ち抜いてでも、私の決断を遂行していたのならば、どんな未来を向かえたのだろうと、思案しない日は一日たりとて無かった。私は、悪魔に打ち勝ってしまった。勝ってはいけなかったのだ。私は欲望に負けるべきだった。差し出された悪魔の手を掴むべきだったのだ。視界が黒く覆われていく気がした。私の中の何かが小さく爆ぜた。眠っていたのだろうか、病院の窓硝子を叩く雨音で眼を覚ます。美雪が眠るベッドは柔らかく、寝心地が良さそうだ。いったい、彼女はこのベッドの上でどのような夢を見ているのだろうか。チューブに繋がれた彼女の顔はいつものように仄白く、人形のように私の瞳に映った。ふいに、部屋の隅に影が見えたのに気付き、視線を向けると、そこにはスーツを着た男が二人、パイプ椅子に座りながら私を見つめていた。一人は鼠色、もう一人は微かに紺と藍色のストライプのスーツを着ており、その四つの双眸はキラキラと瞬く星屑のように私の瞳には映った。ストライプのスーツを着た男が立ち上がり、私の方に近づいてきた。背の高い男だった。この世ならざる空気感、威圧感を纏っていて、舶来の御伽噺の世界から抜け出たかのような相貌だった。彼らは、私と美雪を睥睨した後、ある提案を持ちかけてきた。ストライプの男が差し出した名刺は、薄く英国旗をあしらった刺繍が施されていて、その誂えから男の美意識の高さが伺われた。男は私の肩に手をかけて、静かに耳許で囁いた。それは私の中に潜む悪魔を引きずり出す囁きだった。男達が部屋から去り、取り残された私は濃霧に満たされた紫の空を見つめ、彼らの口から放たれた言葉の意味を寸借し、欲望と愛情とを秤にかけた。それは何度考えようが、私の中では等価であり、彼らからの誘いを断る理由など勿論無かったし、今のこの現状を変えようという意思に関して、今更あの女(妻)が口を挟み込んでくる等とは、思えなかった。私は覚悟を固め、翌日に病室に見舞いに来た二人が差し出す誓約書に自分の名前を記した。ただ、私は彼らの美雪に対する行為に対して、一つだけ条件を提示した。それは私が美雪の手術に関してその指揮を執ることであり、乃至は最低でも同席することで、私の事を調べ尽くしている二人にとって、それは別段に想定外の自体とは言えないようで、彼らは私に二つ返事でそれを了承した。

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