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川端康成の『古都』と岩下志麻の『古都』

先日、調べ物があり図書館に赴いた時、司書の方に資料の印刷を頼みそれを待つ間、棚をなんとはなしに見ていると、『表象の京都 日本映画史における観光都市のイメージ』なる本が目に付き、手に取る。

私が気になったのは、川端康成の『古都』に関する論考である。
これを、1963年公開の岩下志麻主演の映画と並べて論じているわけだが、私は腕を組み、この論考を読み耽っていた。

総天然色って言葉大好きなんだよ。『平成狸合戦ちんぽこ』、いや、『平成狸合戦ぽんぽこ』は総天然色漫画映画だったね。まぁ、あれもたぬきのちんぽこの映画だったけどね。

『古都』は新聞小説であり、YASUNARIが薬中(睡眠薬中毒)になって書いていた作品であり、京都の泉川亭(谷崎の潺湲亭のすぐ近く、下鴨神社糺の森裏)で書いた作品である。
YASUNARI的には、京都弁の修正が相当にウザかったらしく、書こうと思っていた『源氏物語』も修正の嵐になるのでやめたのではないかと、私は見ている。土台、YASUNARIは短距離ランナーであり、長距離は走りきれない。『竹取物語』とか『とりかへばや物語』とかは翻訳しているが、まぁ、『源氏物語は』おそらく無理なのである。

然し、『古都』はウルトラに美しい作品であり、なんというか、可愛い、本当に可愛らしい少女の作った折鶴みたいに、ちょんと窓辺に置いておきたい気分の作品である。
作中、唐突に、主人公の乗り合わせたバスの中に護送中の罪人がいて(おおらかすぎじゃね?)、ぐへへ、お嬢さん、かわいいねぇ(そんな事は言っていないが)的な感じ喋りかけて、コラ!やめんか!と警官に怒られる、そんなちょっと気持ち悪いシーンがあるのだが、今思えば、あの罪人はYASUNARI自身ではあるまいか。

YASUNARIは、『虹いくたび』という、比較的無名だが、内容は上位レベルの作品においても、乗り合わせの行きずりの美を書いているし、それをもっと表に出したのが『みづうみ』であり、ここでは、偶然美しい女性と乗り合わせたりした時、声も交わすこと無く関わりもなく終わることの悲しみを言葉にしている。『雪国』の葉子も主人公の島村にとっては冒頭の汽車では乗り合わせの美の極地として登場する。


まぁ、つまりは、関わりのない、すれ違うだけの美しい女性に対しての思いが強すぎるYASUNARIであるが、全ての男性はすれ違いの女性とすれ違いの刹那において、彼女たちの貞操を脳内では奪っている。この恐ろしい男性の宿痾は、ツェリードニヒの言うところの『刹那の十秒』なのである。

まぁ、そんなことはどうでもよくて、問題はこの本がとても奥深いものであり、観光都市である京都と映画作品の舞台として登場する京都を比較して、面白い読み物として読者を誘ってくれたお陰で、私は京都に住んでいるのに、京都について何も識らなかったのだと、そう思わせてくれたからである。
私はガキの時分から30年以上京都に住んでいるが、既に京都タワーは存在していた。然し、この岩下志麻の『古都』には京都タワーは存在しない。
京都タワーの反対運動盛んな最後の頃に撮られた作品であり、YASUNARIが東山魁夷に言ったという、「今のうちに京都を描いておきんしゃいだー。」というのも、まさに私の識らない京都が二人の脳中には存在しており、つまりは、『古都』を読んだところで、私の中の『古都』は『古都』ではなく、真の『古都』は遠い時代の生きていた文人たちがその目で見た『古都』なのである。コトコトうるせーよと思いながら、私は、岩下志麻の『古都』を観ようかと思いつつ、然し、ネットにある僅かな動画だけで済ませようという、怠慢グセが顔を出す。調べると、どうやらU-NEXTで観られるようで、今なら31日間無料トライアルが可能だ。決して、私はU-NEXTの回し者ではない。


こんな光景、夢でもみたことないだよ。

まぁ、美しい古都の風景が、変わりつつあってもその残り香漂う風景がカメラに収められているのならば、それは、今であっても、撮ることの一つの意味なのだろうと改めて思った次第。22世紀になれば、ここもまたその時代の人には古都。

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