ベルベットの恋③
盆が迫って、暑さは益々盛りだった。この暑さも、もうあと十日過ぎれば、少しは涼しくなるだろうか。秋の匂いはまだしなかったが、郷愁が、二郎の胸をくすぐった。美佐子をモデルにした写真展が、三条の商店街のギャラリーでひらかれると、恵からから誘われたのだった。
その事が、二郎に不思議だった。恵という少女の美しさにこころをひかれて会いに行った二郎だったが、少女の警戒があると思えて、あのとき以来、会いに行くのは憚られていた。ホテルオークラのロビーで待ち合わせたのだったが、入ってくる宿泊客の浴衣が、二郎の目に涼しかった。いつの間にこれだけ外国人が増えたのか、ロビーで聞こえる声は、英語だけではなく、中国語や韓国語、それと、二郎にはわからない言葉ばかりで、日本語が追いやられている感じだった。ここは外国ではないかという思いが湧いて、ロビーに敷かれた緋色のビロードが、あの岡崎の小劇場を思い出せて、まぼろしの中にいるかのようだった。喫茶店から外を見ていると、夏の暑さの中から涼しい目をして、恵が表れた。蜜柑色のワンピースで、夏色だった。頭に、麦わら帽子を被っている。二郎を見つけて手を振って、二郎は挨拶代わりに煙草の火を消した。喫茶店に入ってくると、帽子を取って会釈をした。
「お久しぶりですわ。」
「日まわりみたいだね。」
「まぁ。先生は、今日は水色ですわね。この暑いのに、スーツですの?」
「失礼がないように。本当はアロハシャツでも着てこようかと思ったんだ。」
「アロハシャツなんて、失礼じゃないんですの?」
「アロハはハワイでは正装だよ。結婚式でも着るしね。」
「そうなんですか。私、アロハシャツなんて海辺で着るものだとばかり思ってましたわ。」
「女性はムームーだろう。ハワイは暑いからね。空気は爽やかで、風がいいんだけどね。」
「京都は蒸しますわ。」
恵は、手で胸元を仰いだ。変わらず白い肌だが、微かに、十六の娘らしく、黒く焼け始めている。自然の焼けかたで、白よりも艶やかだった。
「ここまでは歩いてきたの?」
「バスで来ました。岡崎から、一本で来られるんですのよ。この暑さで外を歩いていたら、熱中症で倒れてしまいます。」
そう言って、恵は笑った。つられて二郎もほほえんだ。
「写真を見に行く前に、氷でも食べるか。」
「奢ってくれるんですか?」
二郎は頷いて、そのまま立ち上がった。恵は麦わら帽子を被って二郎を見上げた。甘い匂いがして、日まわりの花だった。
市役所の裏手にある、氷屋へと、二人で向かった。一階は和菓子屋で、二階が喫茶店になっている。前に二組ほど並んでいたが、メニューを渡されて、それを見ながら待った。暫くして名前を呼ばれて、二階に通されると、注文をした。二郎は宇治金時で、恵は蜜柑のシロップをかけた氷を注文した。やわらかい氷が目の前に運ばれると、恵の顔が晴れやかになった。蜜柑色が重なって、黄色が彼女のしるしのようだった。
氷を食べてから、すぐに写真展へと向かう。写真展には、先客が数名いて、一階に飾ってあるものは、全てモノクロ写真だった。白黒の写真のそれぞれには、下着姿のものもあり、その肌の色までが、そこから浮き上がるようだった。特に、これらの写真の中で、脣は白黒なのに、朱色が内から迫るようである。この前に会った、美佐子の印象が、二郎の中に残っているせいなのかもしれなかった。二階に上がると、美佐子がいた。その横に濃い髭を生やした男が立っている。髪をオールバックでまとめていて、いかにも、カメラマン然とした出で立ちだった。美佐子は二郎を認めると、ほほえんで、歯を見せた。その脣の色は、さきほど二郎が幻視したものと変わらない朱だった。
「先生、来てくれたのね。ありがとうございますわ。」
「相変わらずお美しいですね。一階にあるいくつかの写真も見せて頂きました。これはあなたが?」
オールバックの髭男は、頷いて、微かにほほえんだ。しかし、その瞳は深い黒色で、心根では笑っていないようだった。
「この人は松岡健介さん。カメラマンで、私の専属なのよ。いつもはグラフ誌の写真撮影のお仕事をされているの。」
「とても綺麗な写真ばかりでおどろきました。白色から、色が浮かび上がるようで。」
「そう言って頂けると嬉しいですね。」
「モノクロの写真の方が、より色が深く感じます。」
「被写体のおかげでもありますよ。美佐子さんは、普通以上に、色を浮かび上がらせるんですよ。」
松岡の言葉に、美佐子がほほえんだ。麦わら帽子が近づいてきて、それを認めた美佐子の顔が華やいだ。
「メグちゃん、いらっしゃい。」
「美佐子さん、お久しぶりです。お誘い頂いて、ありがとうございます。」
恵は小さくお辞儀をした。美佐子は、そのお辞儀に応えるかのように、来ていた黒のワンピースの裾を両手で持ち上げた。背が高いから、どこか男のようにも思えて奇怪だった。持ち上げた裾のせいで開けた足下の、くるぶしが光っているのが、二郎に印象的だった。
「かわいい妖精みたいね。」
「美佐子さん、本当に綺麗な写真ばかりですわ。」
「良かったら何枚か、気に入ったものをあげる。後で松岡さんから買い取りますから。」
美佐子は目を細めてほほえんだ。美佐子の笑みを見ていると、二郎は妙な胸のざわめきをおぼえた。それは、美佐子という女の、こころの中が読めないからかもしれなかった。
「二階も、全部モノクロ?」
「ええ。基本的には。ただ、二階はとてもきわどいものが多いんですよ。」
「きわどい?」
二郎は興味をそそられた。きわどい写真というのは、ヌードの類だろうか。果たしてその通りだった。壁に架けられた写真に近づくと、裸の美佐子が二郎を見つめていた。また脣や、乳房の色味が、白黒の中から浮かび上がるようで、二郎は息を呑んだ。となりで見ている恵は、どのような思いでこの写真を見ているのだろうかと、二郎に妙な疑問が浮かんだ。美佐子は、背の高い割に肉がついていて、乳房の張りもすばらしい。しかし、二郎はその乳房の芸術を、となりの写真にすぐと破かれてしまった。奇怪な写真で、悪夢だった。その写真は、男の扮装した美佐子が、女を抱いている様だった。二人は繋がっていて、これは安手のポルノグラフィだった。
「奇抜ですね。」
「刺激的でしょう?」
「芸術的でもある。あなたの願望?」
「どうかしら?メグちゃんには、まだ早いわよね。」
恵は頬を赤らめて、目を伏せていた。二郎がいなければ、違う反応だったかもしれないと、目の前の過激な写真を見つめながら、二郎は思った。しかし、美佐子は乳房がなければ本当の男かと見まごうほど、端正な顔立ちで、凛々しく映っていた。その目で射貫かれれば、男も女もへだてなく、彼女の虜になるかもしれない。ふと、写真に映る美佐子の背景に、見覚えのあるカーテンが目についた。それは、あの岡崎の小劇場で見た緋色のビロードだった。あの小劇場で、このような写真を撮っていることに、二郎はおぞましいものを感じたが、あの悪魔めいた空間は、確かにお誂え向きの場所かもしれなかった。
「これはあの劇場で撮ったの?」
「そうよ。よくおわかりになったわね。」
「やっぱり。見覚えがあったから、言ってみただけですけどね。これはまさにポルノだな。」
二郎の言葉に、美佐子の眉間が険しくなった。二郎はしまったと思ったが、無視を決め込んだ。
「女同士の交わりは芸術的じゃない?」
「いえ、少し扇情的すぎると感じたんですよ。恵ちゃんには見せられないなと思ってね。」
「あら。メグちゃんはもう十六でしょう。もう問題のない年頃よ。」
美佐子は、恵の後ろに回ると、そっと両手で抱きしめて、頬をよせた。その様に、二郎はまた、あの劇場で二人をはじめた見たときのまぼろしを思い出した。そのまぼろしが目ぶたの裏にちらついて、二郎はそっと二人から目を逸らした。恵からそっと離れると、手だけを優しく握って、美佐子はそのまま二郎に背を向けた。二郎は、その横に並ぶ、ポルノ紛いの写真のいくつかを見つめた。中には、男装の美佐子が、男と繋がるものもあって、二郎はあてられたような思いになった。ふいに、二郎に松岡の視線が刺さった。松岡の目は、二郎を敵対視するようなものがあった。
階段を下りていくと、新しい客たちが会場に増えていて、二郎は会話に囲まれた。階段を見上げると、恵と美佐子が、手を繋いだまま談笑していた。 二郎は外に出て、暑い空気を吸った。外は燃えるようだったが、清浄な匂いだった。美佐子は、アンダーグラウンドの毒に取り込まれていて、その女王のようだった。二郎は、見世物文化を愛しているが、何故これほどに、吐き気を催すのか、謎だった。しかし、一人市役所の方へと歩を進める内に、恵を残していることに気付き、その原因に行き当たった。
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