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1-7

 ドアをノックする音が聞こえて、どうぞと恵が応えると、茜が顔を出した。茜は、外の寒さをそのまま連れてきたようにほほを赤らめて、計たちを見た。その目は、二人の間に何があったのかを探るように警戒の色を帯びていた。しかし、如才ないからだろうか、計と目が合うと、すぐさまにその武装を解いて、満面の笑みを作り、食事が出来たから呼びに来たと明るい声で言った。ほんとうに明るい声で、恵とはまるで違う、声質が違うのは、その人格に影響するのだろうかと、そのような問いが頭をぐるぐると回った。
「すぐに降りるわ。」
恵の少し低い声音が、計の耳にいつまでも谺した。そうして、二人の娘の声が、一色に交じりあいながら、階段を下りていく様が、心に置き場所もなく、耳だけを撫でていく。
 
 その日は、川端の付き添いで、光悦寺で行われる、現代美術と中国美術の融合に関する展覧会を見に行くことになっていた。その催しは、プロジェクションマッピングを使ったもので、夕刻の5時から始まるから、それまでの間、時間をつぶしてきても良いと、川端は書斎にこもった。美術誌の仕事があるらしい。茜は、高島屋まで買い物に行きたいといい、恵もそれに付き従うことになると、二人は着ていく洋服選びと、化粧に夢中になった。
 計は一人手持ち無沙汰で、屋敷の庭に咲いた寒椿を見つめていた。冷たい空気の中に命は花開いて、白と赤のそれぞれが、見事な美しさだった。凛としていて、かすかに霜が花びらに降りているのだろうか、霜で化粧したように見えて、花の色気が活きた。そうして、その冷たい色香に、またしてもあの娘の裸身や冷たい目が及ぶと、計は、自分がどうしてこれほどまでに心惹かれるのかわからなかった。
「寒椿だね。」
振り向くと、川端が煙草を銜えて、庭を見ていた。その目はやはり遠くを見るようであったが、何か、あの画廊で見たときと同様の、暗がりを思わせた。何かが川端の中に萌していて、あのような危うい目の炎だろうか。計は、川端の審美眼、加えて、そのものを的確に表現するその筆の力にも、感銘を受けていた。川端は、古今東西の美術品に興味を抱いていて、はじめて彼に会ったとき、画廊に置かれていたのは、さまざまな土偶の類、埴輪や、アフガニスタンの仏像、それらの土塊をテーマにしたものだった。その、アフガニスタンで出土されたという仏像は、川端の言うところの、土塊から、仏師がその存在を取りだしたもので、さまざまな顔料で作られた宝石を纏っているのだが、その宝石の一つ一つは照り輝いていて、本物の燦めきだった。そうして、その光に包まれた仏像は、それらの鉱石よりも遥かに匂いやかで、乾いた香りがした。眩いその光、香しい匂いに、目も心も奪われて、その仏像と見つめ合っているときに、声を掛けられたのだった。奇しくも、人形に囚われていた時である。
「あなたの論文を読ませて頂きましたよ。」
柔和な声だなと感じたのを覚えているが、同時に、猛禽のような目をしているとも思えた。そして、その猛禽のような目と、その爪のような筆で、この世界を渡ってきたのであろう、川端は、計が書いたスーチンと霊華との相互の歴史的影響に関しての論文の良い点をつらつらと述べた後、持論をまくし立てた。スーチンも、霊華も、どちらも所有している人間の言葉に叶うはずもなかろうと、彼の画廊の二階に上がったときに、感じたものだった。本物を手にしたときに、ほんとうの美がわかると、川端は常々言っていた。持てるのであれば、持った方がいいと。それが、彼に高い代償を支払わせる言葉に繋がったわけだが、しかし、川端は、さまざまな美術に触れる機会を彼に与えて、そうして、彼の爪もまた研ぎ澄まされるように、導いてくれたものだが、今の彼は、計が感じる美しいものとは違う、遠い別のものを見ているようにすら思える。ウィーンの幻想派画家たちの作品に囲まれていてもそれは顕著で、彼だけが浮いてみえる。地獄か魔界かの絵ですら、彼の内面には交じりあうことがないようだ。
「白と赤がきれいですね。シンプルで美しい。」
計の言葉に、川端は何も言わずに頷いて、
「僕の部屋に来てくれるか。」
そう問われて、計は立ち上がると、そのまま彼の背を追って、道中、寒椿の冷たい匂いが鼻を掠めると、振り仰いでみる。寒椿は寒風に揺られて、しかし、その葉が何よりもみずみずしいのは、先程で彼女たちに降りていた霜が見せる幻想に思える。
 川端の足取りは、重心がどこにあるのか定かではなく、何度も揺らめいて、そこここを行き来するかのようだで、計はその後ろ姿を見ているうちに、妙な酩酊感に囚われる。そうして、川端は自室につくと、ソファに深々と腰を下ろして、計にもそれを促した。硝子のテーブルに置かれた煙草を手に取り火をつけると、それを咥えて、しばしば計を見つめる。煙が部屋に充満していくにつれて、計の目に涙が堪る。
「折角のお宝が、煙でお釈迦でしょう。すごいですね。まるで博物館ですね。」
巨大な本棚が部屋の両脇に鎮座していて、そこを埋め尽くすように本が刺さっている。革装の、高価だと見える本ばかりである。それらは、その背表紙に様々な異邦人の言葉が綴られている。そうして、彼を取り巻く本の他には、ベルメールや四谷シモンの球体関節人形ががらくたのように積まれていて、異様な塵捨て場かと思えた。計には、その捨てようが、何か生理を破壊するものに見えた。壁に掛けられた絵は、幾人もの顔が描き込まれたものだった。その全てが画一的に見えたが、しかし、目や、口、鼻や耳など、全てが違う。見ているうちに、やわらかな表情に思えてきて、そうして次第に、それが女たちだとわかる。
「猪熊弦一郎ですね。こうして見ていると、あの顔たちに、何か取り憑かれそうな、いや、取り込まれそうですね。」
「君の顔もあるかもしれないね。僕の顔も。恵も、茜も。」
そうして二人で顔がずらりと並べられた絵を観ている。いくつもの目が、二人を監視しているように見えた。
「先生は、この中から会いたい顔を探しているんですか?」
「そうだね。あんなに単純に、目鼻立ちだけをしっかりと描き分けているけれど、それだけであそこまで表情が変わるんだから、絵というのは不思議なものだね。見ているうちに、全てが人格を持って、僕に話しかけるようだけれど。探しているという君の見方は、僕という作品を見る上で、間違っていないように思うよ。」
「先生は作品ですか。」
「傲慢な考え方かな。」
計はかぶりを振った。しかし、芸術家や美術家の類は、本人自身が芸術のようなものだろうかと、彼には思える。川端がそのような幻想に掴まるのも、無理もないことだろう。
「BOYARDSという煙草があります。フランスの廃番になった煙草です。僕の友人がそれをコレクションしています。先生が吸われる銘柄は知りませんけど、吸っている姿を見て、その友人を思い出しました。煙草狂いです。そいつは集めることも好きだけど、吸うことも好きなんですよ。身体に悪いだけでしょう。吸う場所も減ってきている。」
「BOYARDSは知っているよ。僕はフランスの煙草はジタンしか吸ったことはないけれどね……。世の中にあるものは、全て芸術品でしょうね。その中に、優劣があるだけかな。」
「優劣はありますか。」
「あるよ。僕は今、自分を芸術と見立てたけれども、僕が明らかに格下の芸術だよ。それよりも、幾何かも美しいのは、やはり女だろう。だから、古今東西の芸術家は、女を描こうと必死なんだよ。」
川端は煙草の火を灰皿でつぶすと、計を見つめた。デジャ・ヴュのようである。硝子玉のような目がきらきらと光り、また猛禽を思わせた。鷹か鷲か、巨躯の鳥に睨まれているかのようだった。
「それは先生の願望でもあるからでしょう。男を描くのに苦心しているのもいれば、御仏を描くのに血を滲ませているのもいますよ。」
「そうだね。たしかに、それは僕の偏見かもしれないね。」
川端はそう言って、もう一本煙草を取り出すと、フィルターを噛みながら、目を細めた。
「僕の偏見でもあるけどね、だけれど、あの娘二人は美しいと思わないか。」
「もちろん美しいとは思いますけれど……。」
「けれど?」
「あの娘たちは人間です。だから、芸術作品と一緒くたにはならないでしょう。」
「茜はともかく、恵は人形だよ。生きているけれど、人形に過ぎない。」
冷気を纏った声だった。計は、自らの魂を握られて、その掌の中で転がされているような寒々しさを感じた。そうして、川端は眉一つ動かすこともなく、自分の言葉に疑いを持つような素振りも見せない。ただただ、あの二人を美しいと見ている評者の目で、そのまま計をも見つめていた。
「あなたの姪っ子でしょう。それはあまりにも冷たい言葉なんじゃないですか?」
「そうだね。だから、僕も恐ろしいことだとは思うわけだよ。あの娘二人は、幼い頃からこの両腕に抱えてね、存分に可愛がったものだよ。手足も、指先も、小さく赤かった。」
川端は、どこか思い出を遊ぶように、目を閉じて、言葉を綴った。それは夢遊病者が喋る如くに、時折開かれた眼には、何も点じていないように映る。遠い遠い場所を見ている。
「どちらも小さく、甘い匂いがしたものだが、そこから落ちてきたはずの今の恵には、驚かされるばかりだね。美しいのは人形のようだ。陶磁器のようだ。ビスク・ドールのようだ。それなのに、どこにも匂いがないんだ。もちろん、生きているのだから、彼女は何かしら臭いを放ってはいるが、生きている匂いがしない。そうして、ただただ、昔の記憶、彼女のものでもない記憶を探り当てて、それを元に話すわけだよ。私も、茜も、二人とも今の恵を受け入れているわけだけど、しかし、どうも妙な心地だよ。あれはほんとうに私の姪なのか?僕は、そうであって欲しくないと、妙なことを思った。だってそうだろう?そうでなければ、間違いなく美しい芸術だろうよ。」
ひと息にそう言うと、川端はため息をついて、ソファの背にもたれ掛かると、そのまま後ろに掛けられた多くの顔たちに紛れ込むように、自らの顔を消した。顔が、山ほどの顔が、計の目を見つめている。
 ノックが聞こえてきて、計が振り向くと、恵と茜が立っていた。どこまでを聞いていたのか、それとも何も聞いていないのだろうか。互いに、揃いの白と黄色のワンピースで着飾って、もう春の装いだった。
「ずいぶん寒そうな格好をしているな。」
「大丈夫ですわ。厚手のコートを羽織っていきますから……。」
そう言うと、茜は見せびらかすように、ひらひらと、薄手の生地と一体になったかのような自身の手先を回してみせる。茜は恵の方に手を差し出して見せて、恵もそれにつられたかのように彼女を手を取ると、その手先の動きが伝染したかのように、自らも手を踊らせてみせた。服と身体とがひとところに巡り会って、バレエを舞うかのようだった。小さい頃からバレエを舞ってきた二人の舞姫が、ここに来てまた手を取り合い踊り合うのは、計にはもちろん初めての光景だったのであろうが、川端にはあざやかな過去がそのまま大人になったかに思えたのだろう、計は目端に映る彼の目に、きらびやかな火花を見つけた。二人はくるくると、延々と、踊り続けて、計は酒も手にしていないのに、これはいかなる事だろうと不思議な酩酊感に苛まされて、目頭を揉んだ。目を開けてもそれは白昼夢のごときに続いていて、しばらくその様を眺め続ける後、次第にこの川端の部屋にいる顔たちの全てが、この演目の観客のようにはしゃぎたてるのが、耳鳴りのように聞こえてくる。さらさらと流れる潺の音は、恵が踊り出すとその熱情に晒されたのか遠く聞こえなくなるのは、彼女の小さな心臓が自分の奏でる音色をくるんでしまうほどの情熱を発して、それがあの細やかな音を掻き消してしまうのだろうかと考えた。そうして、聴衆の声は段々に大きくなっていく。計は、このままでは狂うかと思われて、思わず自身の耳を潰し目を抉り取ろうかという衝動に駆られた。しかし、川端は依然として恍惚を隠すこともなく彼女たちに見惚れている。小さなバレリーナが立派に成長した姿を見る目差しは所詮は愛玩動物を慈しむほどのものだと思うと、計には索寞があった。そうして、二人の踊りはそのまま計を包んでしまい、幻想絵画を担う両翼のように手を羽ばたかせていくと、彼は見たことも聞いたこともないウィーンのバレエ劇場に落とし込まれた感覚に包まれていく。茜は、計の手を取ると、そのまま計を引き上げて、そのまま三人は数珠つなぎに、彼女たちの寝室に連れて行かれる。それは、いつかの幻想で見た三人が手を繋ぎ並ぶ光景であるが、そのときに自身の手に感じた触覚、恵の手をそのまま砕いた感触がまざまざと蘇り、計は陶然とさせられたが、しかし、計の手は既に茜の服を引き裂いて、恵は自らの裸身を二人の前に晒していた。それがいかなる事か計にはおどろおどろしい思いだったが、並んだ四つの乳房はそれぞれ形が違えど、この世にある美しいものの君のようで、計は自身の感覚が麻痺する中、それぞれに脣を這わせていくと、呻く二つの声が一つに交じり合い、そうして恵と茜の顔がそれぞれに変容して重なり合って、猪熊弦一郎の描く絵画めいていく。それぞれの顔が交錯しては、吐く息はひとつで、恵か茜かそれともどちらのものでもあるのかけうとい声が計の耳に鳴り顰める。仏界入り易し、魔界入り難し、という言葉を計は心に浮かんでくるのを感じていた。それは川端の口癖であって、恐ろしい業である。互いに一つ宮で並び育まれた娘をひとところに扱うことに計は自分の中に許されようのない冷たいものが忍んでくるのを感じた。そうして、目端に映るワンピースの白色に血が滲むにつれて、そうか、どちらもまだ心は生娘であって、それを自分に奪われたのだという奇怪な実感があった。
 気付くと車は河原町であった。流れていく街の灯にちらちらと細雪が降り注いで、車の後部座席でそれぞれに窓外を見つめる双生児は、
「やっぱり、まだこのワンピースじゃ寒かったね。」
さきほど聞いた交じり合う一つの声を耳にして、計は瞬間目ぶたを強く閉じると、暗闇の中に浮かぶ女たちの姿が浮かんでは消えた。それは光の絹を纏っていて、それが女たちを白く見せているのだろうか。計がそのように考えているうちに車は高島屋に入り、そのまま館内に足を運ぶと、人々が能面のように虚ろな表情で買い物をしている姿が目に飛び込んできた。
 茜は婦人服売り場で、マネキンに着せられた人形を、楽しげに見つめていた。それを、恵も倣っていたが、どこか計には奇怪だった。その奇怪な様が心に深く染みいってきて、急に怖気が全身に行き渡る感覚に、計は二人と距離を取ろうと、休憩スペースのソファに腰掛けた。そうして、コートのポケットに手を入れると、角張った硬い物に手が触れた。取り出してみると、BOYARDSの煙草のパッケージである。どこでこれを手に入れたのか、計にはさっぱり記憶がないが、望田に渡されたのだろうか。計は、そのどこから手に入れたのか、汚れたパッケージを手の中でころころと遊び触れているうちに、ふと、望田は今また新しい部品を作っているのだろうかと考えてみた。彼が作る、美しい指先や、身体のパーツをつなぎ合わせると、恵が出来上がる。しかし、それはまだ神経が通っていない、人形のままだと望田は言っていた。人間に成りきれていない、まだ人形の身体……。そのようなことを考えながら、パッケージから一本取り出すと、それを見つめた。計は煙草を吸わないが、これをもし彼女が吸ったのならば、あの吐く息にもまた色がつくのであろうか。しかし、それは計に不潔なことに思えた。生まれたままの、人形のままの、純潔のままの匂いであることが好ましく思え、計は、一層のこと、恵がまだ意識のない、おろし立ての頃ならば、どのように美しいのだろうかと、これもまた奇怪な思いの中に沈んでいった。
 買い物を済ませると、帰る前にコーヒーを飲みたいと茜が言った。計は外の喫茶店に行こうかと二人を促して、そのまま高島屋の外に出ると、いよいよ雪は本降りになっている。人々が傘をさしはじめると、さまざまな色で街が溢れた。その色の洪水の中に、二人の娘のほのぼのと温かな火を差したほほは、火の色なのにも関わらず、触れると雪のごとく溶けてしまうのではないかと思えた。三人で手を繋ぐような幻想はもう現れずに、計はコートに手を突っ込んで、そのまま二人の前を歩いて行く。
「あそこで休憩しましょう。」
茜がはしゃいだ声で二人に呼びかけると、計は頷いた。恵の感触がなくて振り向くと、恵は高島屋の前のウィンドウに立ち並ぶさまざまなマネキンを見つめている。黒玉のように磨かれたマネキンが、こちらももう春の装いで、少し気の早いものだと思え、硝子に映る降り続く雪がそれに拍車をかける。寒々しい佇まいのまま、その娘らの温度を感じないその黒い素肌を見ているうちに、計は隣に佇む恵の目ぶたにも冷たい色が灯っているのを見た。
「俺は人形を愛しているのか。」
独り言が聞こえてきて、しかし、それに動じない恵の横顔を見ていると、今のは心の声であろうか。そうして、人形か人間か曖昧な娘が、水底から抱き上げられた瞬間に、再び目に灯る火に照らされたのか俺の顔だったのだろうか。
 恵は、計を見上げると、かすかに息を吐いた。その目は、初めての人という声が彫り込まれた氷だった。月の冷たさだった。計の耳に、冷たい潺の音が帰ってきて、それがサイレンに混じり合うのが聞こえた。
「遠くを見ていらっしゃるのね。」
恵が呟いた。計は何も言わずに、また目頭を揉んだ。目を開くと、硝子にも、マネキンにも、雪にも等しい幽けく漂う花の匂いを、また嗅いだ気がした。


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