シン・仮面ライダーに関して思うこと
庵野秀明監督の最新監督作『シン・仮面ライダー』を鑑賞した。
シン、と言えば、庵野秀明が関わる『シンシリーズ』で、
2016年の『シン・ゴジラ』
2021年の『シン・エヴァンゲリオン』
2022年の『シン・ウルトラマン』
であり、私は『シン・ウルトラマン』は観ていないが、こちらは樋口真嗣監督作品である。今回の『シン・仮面ライダー』は庵野秀明監督作品。
まず、私は『シン・エヴァンゲリオン』否定派であり、旧世紀に創られた
『新世紀エヴァンゲリオン』を推す者である。
『シン・エヴァンゲリオン』は興行収入は100億円を超えて社会現象になった。
2007年に新エヴァとして『序』が公開されたときは20億円くらいで、
このときはまぁ、オタク界隈で大変な話題になり、そこから2年後の『破』が40億円を超えて、さらに3年後に『Q』で50億円の大台を超えたわけだが、年々売上を増していったシリーズである。
確変的な売上UPを例えば、『ワンピース』なら『ストロングワールド』、乃至は昨年の『RED』などで更新しており、『名探偵コナン』は忘れたが、これは確か15年くらい前は30億円〜40億円くらいのシリーズだったのだが、最近は100億円に迫る売上になっている。
『エヴァ』はさらに10年近い月日が経ち、『シン』で100億円を超えたのだが、エヴァンゲリオンが誕生してから既に四半世紀経ち、お金を産む土壌、エヴァンゲリオンというコンテンツの浸透度は国民レベルに到達したわけだ。
『新世紀エヴァンゲリオン』はエポックメイキングかつワンダーな作品で数多フォロワーを生み出して、私も依然記事に書いたのだが、ものすごい研究家をこれまた数多生み出してしまったわけである。
然し、『シン・エヴァンゲリオン』は、その四半世紀に渡る視聴者と創り手の物語こそがメインに置かれてしまって、完結することが目標となり、そのために非常に雑な筋運びで種明かしを自ら行い、そこには思春の頃のドス黒さ、新世紀を迎える前夜のカタストロフの予兆と不信の念が全て散逸して、『ハリー・ポッターと死の秘宝』におけるハリーの瞳に恋するリリーの目を見ているスネイプ先生よろしく、碇ゲンドウもまたそんな安易なことをシンジの中に見つけるという、しかもそれがセラピー的告白を経てだからゲンナリする展開で、何もなかったかもしれない箱の中身の蓋を開けるという、暴挙に出たため、本当に何もないことが露呈し、最早出涸らしとなってしまった。
まぁ、エヴァはどうでも良いのだが、今作もまた、非常に感想が書き難い作品である。
今作は仮面ライダー1号と2号の物語であり、私はリアルタイムでは観ていないし、幼い頃、春休みとかに午前中に再放送を流していたのを部分部分で観たことがあるくらいで、仮面ライダーの良いファンとは言えない。ライダー図鑑などで内容を把握しているが、細かい筋は識らないから、偉そうなことは言えない。
『仮面ライダーBLACK』や続編の『仮面ライダーBLACK RX』などは観ていたし、『ZO』などは好きだが、それ以降の作品ではライダーは全く観ていない。
なので、そもそも『仮面ライダー』というジャンルにおいて私は門外漢といえるが、その門外漢から観ても、いや、門外漢だからこそ、今作の目的がイマイチわからない。
つまり、本作が今作られる意味や、本作の目指した地平のことである。
冒頭から改造人間にされた本郷猛が緑川ルリ子をバイクの後ろに乗せて疾走している。
後ろからは逃げた二人を追うトラックが二台、カーチェイスシーンである。
そこから戦闘員と本郷猛の殺し合いが始まって、始めはウルトラ暴力で先決が飛び散る。改造人間となった
本郷猛の殺戮ショーである。この冒頭10分くらいの勢いは『マッド・マックス/怒りのデスロード』ばりの勢いでなかなか面白い。
そしてタイトルが出て、物語が進んでいくが、今作は効果音や特撮、セットはあえて当時物の雰囲気を出しており、それはまさに紙芝居的なものである。アヴァンギャルド紙芝居、と言っても良い。
つまり、あえての安っぽさなのか、本当に安っぽいのか、その境界線が曖昧であるが、この美術センスは全編を覆うわけではなく、要所要所で急に出てくる。
つまり、今様の落ち着いたクリアな映像と、チープで粗い映像とが脈絡なく入り乱れて、それは漫画的アニメ的な実写『キューティーハニー』をさらに真面目にしたような感じで、巧く噛み合っていない。
予算の問題もあるだろうが、
然し、この映画は場面場面では素晴らしいショットもあるし、見ごたえのある役者の表情などもあるのだが、最大の問題は物語の筋運びの点で、ものすごく雑な作りであり、丁寧に物事や話を推進していくという配慮が一切感じられない。要素を詰め込みすぎであり、怪人は6体ほど登場するが、それぞれの話が丁寧に編集され、丁寧に心情を描いているとは言い難く、それが『風立ちぬ』(誤解してほしくないのだが、私はこの映画を5本の指に入るほど愛している)の二郎さんよろしく、今作も全員が演技が棒であり、主要三名は完全に棒であることを相まって、書割に見えるのだ。この書割感もまた、特撮らしさ、と言えば聞こえはいいが、そういう意味で言えば、池松壮亮も浜辺美波も柄本佑も皆さん素晴らしい存在感を醸し出す役者さんなので、その魅力がスポイルされている気がする。
私は今作を観ていて、仮面ライダー1号の自己犠牲、精神性に『ブレードランナー2049』のKを視たが、私的にはもう少し静謐に、それこそ『2049』くらいのドライな空気感の仮面ライダーも観たかった。まぁ、あの映画は制作費160億円なのだが……。
私は庵野秀明監督に関していい視聴者ではないので、彼の資質というものもそれほどわからない。強いて言えば、あの棒演技が好きであり、二郎さんは皆ディスっているが、宮崎駿映画の声優の中で一番キャラクターに合致した最高の配役であることは疑いようがない。
とにかく、庵野秀明という存在があまりにも大きいため、いや、それは押井守の作品同様、実写映画では虚像でしかないのだが(アニメーションと実写映画の才覚は結局は小説と詩ほどもかけ離れているこということだろう)、彼の存在を観客は無視できない、彼の存在が作品の裏側、ライダーの仮面の裏側にまで入り込み、先入観を与えてしまう。
フェアに観ることを許さない宿命を背負っているのだ。
まぁ、今作は実際には仮面ライダー1号と2号のラブストーリーであり、ヒロインは本郷猛こと池松壮亮である。
そして、今作に限っては長澤まさみは仕事選びを失敗したのでは……という念が拭えない。