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ダンディズムのブレードランナー2049

ダンディというと、ジェームズ・ボンドとか、或いは『LEON』なんかに出てくる渋いオジサマが連想される。
が、ダンディというのは本来はそのような意味だけではない。

特に、シャルル・ボードレールの提唱したダンディズムは、もはや宗教的とも呼べる美学の域に達している。
ダンディとは、迎合者や社会的な価値観に則ったものに当て嵌められる存在ではなく、また、既成の権力に対しても反抗すべき、比類なき反骨が必要とされるべきものなのである。
ファッションや趣味に凝る、流儀としてのダンディズムはあるにはあるが、本来は、世間一般から隔てた存在であり、信念である。

つまり、ダンディは予め敗けが定められている。勝つ者、幅を利かす者は、結託し、利益を貪り、地獄を他人に強要し、それに無頓着である。主流派、成功者、それらは皆が、最終は自己愛に生きている。自己愛に生きるものは、ダンディではないのである。
華々しい灯りに彩られた人……。そのような人間は、ダンディの対岸である。ここに大いなる人生の誤謬が潜んでいる。
要は、誰からも認められる人間、大衆に受けた人間は、美しさの対極にあり、本来は、憧れるべき存在ではないのである。

『ブレードランナー』、そして、『ブレードランナー2049』はダンディズムの映画であり、ニセ貴種流離譚である。ここからは、ネタバレで書く。
奇しくも、ドゥニ・ヴィルヌーヴの新作『DUNE』は貴種流離譚のスペースオペラであるが、彼の前作の『ブレードランナー2049』もまた、貴種流離譚なのである。そして、それは主人公のKの思い込みの砂の城である。
貴種流離譚とは、やんごとなき人が、市井に放り出され、最終的には偉大になって王や主として還ってくる物語だが、世界中の汎ゆる神話、汎ゆる物語のベースである。
ルーク・スカイウォーカーも、うずまきナルトも、モンキー・D・ルフィも、ハリー・ポッターも、皆偉大な何かを兼ね備えている(それに大小はあっても)。

『ブレードランナー2049』のKは、フランツ・カフカの『城』の名前を持って生まれてきて、レプリカントとして、人間の奴隷として、逃げた同胞の処刑人として生きてきた。そこにセックスはなく、愛情はない。友愛も、親愛もない。ただ、侮蔑だけがある。
レプリカントは人造のチューブ、『ベルセルク』で言うところの『魔子宮』を通して、産まれてくる。

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彼らは自分たちでは子供は作れない。然し、ある日、Kはレプリカントの妊娠の事実を知り、その妊娠した奇蹟の子供が、自分ではないかという符号に気づき、愕然とする。
そして、父であると思しき、前作の主人公のデッカードに会いに行く。
彼は自分が高貴な存在で、産まれてきた、選ばれた子供であることに確信を深めていくが、脆くもその事実は瓦解する。

前作のヒロイン、レイチェルは神の子とも呼べる娘を宿して、それは聖母マリアのようだが、キリストはKではなかった。

さて、ダンディの極地とは、誰か。ボードレールは、イエズス・キリストこそが、ダンディの極地だと言っている。
キリストは、敗北し、死んだ。
然し、死の象徴である死刑台の十字架を、人類救済の印へと変えてしまったのは、キリストをおいて他にいないのだと、そう言うのだ。

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Kは、物語の最後、自分の父親だと思った人を、最愛の娘に会わせようと、命を賭ける。それは、人間になりたいと願ったKの最後の行動だが、彼は、誰からも顧みられず、そして、愛されずに、ただ人の幸福を手伝った。
これは、Kという聖人、いや、ダンディの物語である。
それは、前作のレプリカント、ロイ・バッティにも言えることである。
彼も、叶わぬ延命の糸が絶たれ、その四年の短い生涯を終える時、自分を殺そうと思った人間の命を救った。
彼はキリストとは違い、時の狭間に落ちた小さな存在だが、然し、ダンディである。

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この二本の作品は、本当の高貴を描いた作品である。
高貴とは、生まれや、成功、富とかけ離れたところにある。
優しさ、人への、真心である。
それは、誰にでも、本当には存在している。



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