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雨の獣⑥


 明くる日、私は美雪が入院している病院前の花屋で彼女の恢復祝いの花束を買い込み、病室へと向かった。昨晩、携帯が鳴り、担当医師が驚きを隠しきれない声で、娘の恢復に関しての仔細を説明した。私は驚いたふりをして、あたかも今初めてこの話しを聞いたかのように振る舞ってみせた。自宅に戻ってからも、私はまだ夢の中を漂っているかのような思いに包まれていたし、不安の全てを塗りつぶせた訳ではなかったから、この医師からの電話は、まさにそれが夢うつつではないことの最大の証左として私の心に機能してみせたのだ。私は病室の前に立つと、急な動悸に襲われて、その発作が治まるまでの間、少しばかり其処に立ち尽くしていた。後ろから声をかけられて振り向くと、看護師が私を不審げな目で見つめていて、それから直ぐに美雪の父親であることに気付いたのか、急に笑顔を見せて私を病室へと案内した。看護師に連れられて部屋に入るその瞬間、この瞬間こそが私にとっては、ある種、何もかもを変える瞬間であった。昨夜までのある種の妄執とは違い、現実の美雪が其処に佇んでいる筈なのだから。美雪はベッドの上で身体を半分起こして私を見詰めていた。静かに、まるでお人形のように私に微笑みを投げかけた。ゆっくりと彼女に近づいていく最中、音という音が全て霧散していく感覚を覚えた。美雪がゆっくりと私に手を差し出し、私はその手を優しく包み込んでやった。冷たい陶器のようだった美雪の手は柔らかな兎の腹のようであり、私はその手に握り返されただけで、心臓が活動を停止するかの如き感動を覚えていた。間違いなく美雪は生きていて、そうして意識がある。私という存在、そして、世界という存在そのものを美雪はその心でもってして理解している。美雪は昨夜までとは違い、幾分か血色も良くなっており、眠っていた時よりも心なしか成長しているように思えた。身体は明らかに少女性を失う間際に来ており、女へと転身を図る直前に思えた。まだ六歳であったはずの美雪が昏睡状態に陥り、そして四年の月日が流れた。成長を停止していた美雪はその遅れを取り戻すかのように、今この時も身体の中で細胞分裂を起こし、身体が眠りこけていた数年間がまるでヴィデオの十六倍速で再生されるかのように、成長し続けていた。美雪は心は六歳のままであった。だが、身体は大人へと急激に成長していく。その様を私は見惚れるように隣で観察し続けた。彼女が目覚めた時から、再び研究者の性というものが目を覚まし、美雪を恐ろしい瞳で見るように私の内面が変容していった。その性と父性が鬩ぎ合い、私の心を掻き乱したが、同時に美雪と二人で生活していく日々の中で奇妙な安らぎも私の心の中に常としてあった。彼女が病室の皆から祝福されて退院した時、誰もが彼女の肉体の変化というものに戸惑いを隠せはしなかった。だが、退院後、私の家で起きた彼女の成長に比べればそれはせいぜい芋虫が微かに大きくなった程の変化であり、蛹が蝶になるような生命の神秘に触れるような体験ではなかった。だから、知り合いの研究者にせよ、美雪のいた病院の医師達にせよ、この変容に対しては興味があるようではあったけれど、直接問いかける等のような野暮な事はしなかった。眠り姫が目覚めた程度の驚きでそれは幕を閉じようとしていたのだ。だからこそ、こうして私の前に座る美雪の姿は、あの場にいた誰もが私の姪、それともラボの研究生かと思っただろう。美雪は退院後、僅か半年程度で十七八の美しい娘へと成長した。本来ならば、十のはずが、何故、彼女は斯様なまでに、急速な成長を遂げるのであろうか。私にも、理解は追いついてはいなかった。丸い人形のようにふくよかであった足や腕はすらりと伸びて、男を欲情させる肉感的な身体へと衣替えをした。長い黒髪の毛は腰まで伸び、大きく零れそうな瞳はきりりと釣り上がり、猫科の四足獣を思わせる。常に何か、獲物を狙っているのかのような瞳。その顔立ちはあの妻の面影をようよう宿しており、私は美雪と眼が合う度に、彼女の中に妻を視たのだ。妻の持っていた魔性ーそれに加えて彼女を形成する自我と、何よりも自らをまた動かす機動力になっている、様々なDNA。それら全てが相まってか、美雪という存在は私の思う以上に巨大かつ異質な存在に成り果てていた。私の識る限りの所謂年頃の娘ーそういった物とは根底から違う、何か別の生き物のような色を瞳に宿していた。それは、瞳の色だけではなく、この半年間で変わった、それとも眠り続けた年月を経て、そのように成長し続けてきたのか、それはどちらが正しいのかはわからないのだが、彼女は酷く驕慢な所を見せるようになっていた。我が儘なのではなく、驕慢なのである。確かに成長した彼女は人形のように美しかったし、その美貌であれば、自身の価値と云うものを過大に評価するのも無理からぬことのように思えた。自らの美しさを理解している女の恐怖、というものがこれほどだとは思わなかった。

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