私的上手い文章論
よく、うまい文章は、誰にでも分かる言葉、伝わる言葉で書くことだと言われる。
私はクソみたいな理論だと思っていて(失礼)、誰にでもわかる言葉を書くのは、報告書とメールだけで充分なのだと考えている。
誰にでも伝わる易しい言葉を選び書くことは、汎ゆる読者を想定していることに繋がるが、読者などは十名で充分だ。
十名の同意者、或いは興味を持ってくれる人間にだけ書けばよいのだ。
なぜならば、汎ゆる人間に理解されるということは、それだけ貴方を孤独にさせるからだ。
文章とは感覚であり、思想、或いは詩想であるからして、どうしてもチューニングの合わない人間、或いは楽器に弾き方すらわからない人間に読まれることもある。
支離滅裂な文章がいいと言っているわけではない。
支離滅裂と難しい文章とは全く意味が異なる。
要は、一筋縄でいかない文章こそ、上手い文章である。
歯が立たない文章、解けない文章こそが、上手い文章である。
書き手は、読み手の百倍は考えて書いている。それは逆も然りだが、ほとんどはそうではないだろう。
難しい文章に出会った時は、まだ自分がそのレベルに達していないと謙虚さを持つべきだろう。
難しい文章は、読書量を増やしていくと、ある日ピントが合う日が来る。
そして、ああ、この人すごいなぁと、見える地平が変わってくる(丸川大臣風に言うと)。
そして、賛同者の少ない文章も、極めていくと貴方の文体に変化する。
エンターテイメントならば、そこはカスタマーファーストで、大衆がよむわけだから、わかりやすい、ある種、報告書が求められる。
楽しい報告書で、オチもある。普段は本を読まない上司が喜ぶだろう。そして、明日には忘れている。
けれども、上手い文章は全く、丁寧さも美しさも関係のない、ただ驚嘆を与えるべき文章だと、私は思っている。
驚嘆に値する文章こそが、真に上手い文章で、それは真に芸術である。
文学賞を獲ることがすごいわけではない。それでは何れは消えていく。
然し、驚嘆すべき文章は、未来の誰かが必ず発掘する。
誰が書いたかもしれぬその文章に、感動する。それは、未来の賛同者で、真の貴方の読者なのだ。
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