落語家漫画のどうらく息子
私の大好きな漫画の一つに、尾瀬あきら先生の『どうらく息子』という作品がある。
これは全18巻のコミック作品で、落語を題材にした人情漫画である。
『どうらく息子』の主人公である翔太は保育士をしているが、落語家の惜春亭銅楽の高座に魅せられて、彼に弟子入りを志願する。
どうらく息子とは、銅楽師匠の弟子たちのことで、惜春亭一門には真打ちの兄弟子小銀と志ん銅、二つ目の錫楽、前座の姉弟子の銅ら美がいて、翔太は銅ら壱という名前を頂いて、高座に上がる日を目指して前座修業を始める。
弟子入り志願から困難であり、さらに弟子として入門してからは、更に厳しい教えの数々が銅ら壱に降りかかる。落語家の前座の大変さ、そして芸の道の厳しさがユーモアも交えて語られる。
作中には様々な落語が登場し、それは、物語の人物たちの心情やその時の状況を代弁するかのように語られて、人情あふれる帰結へと導かれていく。
噺屋は言葉で商売してるんだから、いくら気を配っても配りすぎるということはない。
という台詞が出てくるが、これは文章を書く人全てに当てはまることである。私もテニヲハをよく間違える。あまり推敲しないせいでもあるけれども、これは読む人に対して失礼に当たるため、気をつけたいと思っている。
私は、この作品は若い人にこそ読んでほしい。どの業界でも、若い人は自尊心が強いので、少々のことでへこたれてしまうが、周りの説教というのは、基本的には大抵の人が思っている共通認識であり、反対に優しさである。大事な局面で恥をかかないように、指導してくれている節もあるのだ。説教や注意など、誰しも出来れば言いたくないし、ストレスにもなりえるものだ。説教はムカつくが、然し、大切なことを教えてくれてもいるのである。
そうして、作中の銅ら壱もまた、段々と仕事が熟れてきて、周りも彼に対して段々と柔らかくなってくる。一人前になってきたと、そうなると、周りは自然と説教をしなくなってくる。対等だと認め始める。
然し、そうして少し隙が出来ると、大ぽかをやらかしてしまう。これは、重要なことである。話は『バガボンド』に飛ぶが、武蔵が一乗寺下り松での吉岡一門70余名との決闘の中、初めは死を意識して乗り込んだ闘いに対して、残り十名を切った頃に、生きて帰れるかもと、先を見てしまう。この瞬間、武蔵は油断を突かれて刀を叩き落されてしまうのだが、私はこのシーンは汎ゆることで言えると思う。油断は、終わりを迎えるその前にやってくる。完遂するまで、気を抜いてはいけないのである。
『どうらく息子』は銅ら壱という噺家を目指した青年の物語であり、銅ら美を筆頭にした女性噺家の物語であり、更には売れない落語家錫楽が這い上がる物語でもあり、他にも様々な落語家たちの人情味溢れる物語でもある。
特に、中盤から登場する不良落語家で真打ちの走馬灯夢六はこの物語の推進力になっていて、ほぼ重要な話は彼に降りかかる。
落語も様々な話が誌上に再現されるが、今作で重要な作品は廓噺の『紺屋高尾』と『文七元結』であり、それは物語と主人公の落語家としての成長を見事に交差させていて、美しいカタルシスを生んでいる。
非常に読みやすく、落語の世界にも親しみを持てる作品で、オススメでございます。
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