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稚児桜①


 飯盛山に置かれたる円通三匝堂からの眺め、誠に芳しきことなりき。寛政八年、飯盛山正宗寺郁堂和尚の計にてこの堂は建てられた。井深数馬は、幼子の手を引いて、この螺旋状に作られた伽羅倶梨の如き堂を上がっていった。春過ぎて、明け方からの雪である。道中、麻布の袋に、雪を入れてやった。毎年この雪に悩まされながらも、幼児にはその労苦など解り得る筈もなし。雪を食べるのだと言って聞かない。
 円通三匝堂は世にも不可思議な建物で、外観は栄螺に似ていることから、人々からは栄螺堂と呼ばれている。この螺旋は上がる者降りる者互いに相見えることもなく進める建物で、数馬もまた、幾度も足を運びながらも、どのような仕掛になっているのかは判然としない。化かされている気さえする。螺旋状の階段を上がる中、並んだ西国三十三観音像が二人を見つめている。
「どこにゆかれるのですか?」
小さく、直次君は呟いて、
「一度、見せてやろうと思うてな。」
丁度、頂上付近まで上がると、堂の木窓から、東雲が差している。風が拭いて、雪が舞った。木窓を掴む直次の小さな指の頭の一つ一つ、血が巡って桜色になっている。無意識の力だった。そうして、東雲は直次の頭を染めて、その仄かに紅く染まる旋毛へと数馬は顔をうずめて、君はお日様の匂いだった。直次の目には、東雲に染め抜かれたる雪化粧を花びらのごとく纏った会津の町が見える。
「遊びに精を出しなさい。」
数馬の言葉に、君はただしっかりと頷いた。それをこそが、人の子たる大事だと、幼子は知っていた。
 
 その壱『遊びの什(じゅう)』

 遊びの什とは、会津藩の武家子息たちが六歳から九歳までの間、所属する友人知遇の集まりのことである。その集いは、一番の年長者、歳が同じであれば、先に生まれた者を什長として、年功序列の制度が敷かれる。さて、直次君は幼名で、今は父である数馬から離れて、石山弥右衛門を養父としていた。名を虎之助という。九つになって、この什の座長である。
「年長者の言うことに背いてはなりませぬ、年長者にはお辞儀をせねばなりませぬ、嘘を言うてはなりませぬ、卑怯な振舞をしてはなりませぬ、弱い者をいじめてはなりませぬ、戸外でものを食べてはなりませぬ、戸外で婦人と言葉を交わしてはなりませぬ。」
千載之松の下に、鷹が一羽留まっている、ように、虎之助の目に映る。然し、どうやら見間違いで、虎之助様と呼ばれて、うんと、答えた。
「どうされましたか?」
「ううん、いいや。では、ならぬことは、ならぬものです。」
皆がそれを唱和して、そうして御辞儀をした。君は、先程に見た鷹のまぼろしを、まぶたの裏に映じた。どこか言葉も朧だった。
「虎之助様。」
「ああ、うん。兵庫。どうしたの?」
「九郎左衛門です。」
「九郎がどうしたのです。」
「御屋敷の前で、女の方とお話されておりました。」
そうして、君は九郎左衛門を見ると、彼を目を逸した。続けざまに、
「歳の離れた、綺麗なお方でございました。」
「本当なの?」
虎之助が覗き込みながら尋ねると、九郎左衛門は、
「姉上にござります。」
「嘘だ。九郎左衛門には姉君はおりませんぬ。」
「兵庫、少し黙っていてください。九郎、君に姉君はいないだろう。」
「おりまする。姉君です。」
九郎左衛門は真剣な目差だった。眦が紅く、潤んでいた。君は、以前話を聞いた例を思い出していた。以前も、同様に戸外で娘と話をしていて、咎められた男児がいたが、彼の場合は、見物人もいないことから、判断を任せようと年長者に尋ねたところ、それしきのことで咎めるのは酷だろうと、許しを得たが、念の為、念の為と、その年長者が更に年長者に尋ねると、そのようなことは言語道断であるから、無念であると、皆に申し立てなさいと、ひどく怒られたことがあった。斯様に、同藩の人間でもそれぞれに見解が異なる事は往々にしてあるわけだから、強情を張らずに素直に謝ることが肝要であると君には思われたが、然し、君にも経験があるけれども、父兄に叱られるよりも、武家の子息たちの前で無念でありましたと謝ることこそが、一番の無念であり、恥である。君は頷いて、
「兵庫。九郎左衛門には姉君がおるそうだよ。嘘はついていない目をしている。」
「私は知りませぬ。九郎はよく嘘をつきまする。」
九郎左衛門の目はますます赤くなった。君は兵庫を見て、
「それならば、派切るか?」
君の眦は上がっていた。その面相に、兵庫は頭を垂れた。
「年長者の言うことに背いてはなりませぬ。」
兵庫は唇を尖らせたが、然し、黙った。君はそのまま今度は九郎左衛門へと視線を向けて、
「嘘を言うてはなりませぬ。」
九郎左衛門は、目を赤々とさせたまま、頷いた。
「うん。じゃあ、他にあるかい?」
「ありませぬ。」
一同が口を揃えて言うと、
「それでは、戸外へ行きましょうか。」
皆が立ち上がり、勢いよく駆けていく。『お話の什』が終わると、『遊びの什』と言って、戸外で日暮れまで遊び暮らす。君の組では、今は根ッ子打ちという、木杭を交互に地面に打ち付ける遊びが流行っていた。君が外に出ると、もう兵庫は先程までの鬱憤など忘れたかのように、他の子等と遊戯に興じていた。ただ、九郎左衛門はどこか輪の中に入りきれない様子。君は、もう一度、千載之松へと視線を向けた。すると、鷹が一羽、君を物言わずに見つめていた。先程の鷹である。白く、雪のようである。君はその鷹と数刻、見つめ合うようだった。見事な鷹である。然し、虎之助様、という誰かの声に、鷹は飛び立った。
「虎之助様?」
二つ下の、直信である。君は、直信を見て、
「神鳥かもしれない。」
そう独りごちた。雪をまとった鳥のように思えた。それは、君に、吉兆の神託に思えた。
 その思い出を、同じ毛詩塾の石田和助に話すと、和助は、
「うん。俺の所も、そんなことはあった。」
「君もか。」
「うん。そういうことは、よくある。」
和助は酒を飲みながら、そう答えた。君は、脇差に触れながら、
「どのようなことを?」
「戸外で、人様の屋敷の栗の木に礫を投げて、落として食ったやつがいた。それを告げ口したんだよ。」
「で、どうなった?」
「どうもそれが投げた奴の屋敷でね。要は、自分の屋敷の木に礫を投げて、落とした栗を食ったちゅう話だよ。だから、年長者同士でも意見が割れた。結局、罰は受けねばならないと、手炙りだ。」
「意見が割れた時、真相がわからないとき、どうするべきだと思うね。」
「うん。難しい、厳しい問題だね。どちらにも、嘘偽りも、真実もある……。」
そう言い、和助は目の前に置かれた鳥籠に手を伸ばした。
「綺麗な鳥だね。」
ルリビタキである。水のように青く、美しい鳥だと、弥右衛門が商人から買い上げた。ちょうど、山桜の枝に留まっていて、それを見た件の商人が、青い桜の花びらだと思い、捕まえたのだという。
「うん。然し、君の言葉の通り、誰の言葉にも真実がある。」
「そう。だから、それを心積するのが、什長の役目なわけだ。」
「もし、今、この什で意見が割れたら、君ならどうする?誰かが告発して、告発した誰かが、嘘か真かわからぬ事を言う……。」
「ふぅん、御前ならどうする?」
逆に問われて、君は考え込むようだった。脇差の鞘を指でなぞりながら、紅くなった指の腹を見つめた。和助の目に、君は逞しく、雪のように白い少年の頬に、火が流れている。
「昔と、同じようなことをするだろうね。」
和助は頷いて、茶碗に口をつけた。和助は、まだ昼日中なのに、酒を嗜む。何がうまいのか、君にはわからなかった。
「その、神鳥のことも気になるな。」
和助の言葉に、ふっと、君はあの白い鷹を思い出した。あれは、御仏の化身ではあるまいか。それほどに、世を隔てた美しさがあった。東雲に濡れて、新雪の紅さだった。若しくは、君を罰しに来たのだろうか。君の家系、石山弥右衛門の家系は、追鳥狩の名手であり、寛政五年九月に行われた追鳥狩で、君の祖である安興が一番鳥を成して、銀銭を賜ったこともある。その狩り、その他にもあった幾多もの狩りで潰えた数多の鳥の魂が、何時しか君へと降りかかる劫罰を告げに来たのやもしれぬが、然し、それは君には夢幻であって、考えても詮無きことである。
 思えば、あの『お話の什』の折より、どこか靄がかかるのが続くようである。要は、初めは松の枝の見間違いである。いや、それ自体がそもそもの検討違いだろうか。それは、まるで先程も考えたどちらに真があるのかという談義に通じるようで、所詮は藪の中であるが、然し、君は物語を愛していた。頑是ない頃から、君は昔話を祖父母の膝の上で聞かされるのを好んでいて、その物語、古の英雄豪傑たちへの愛着が、自身の中にも斯様な物語を拵えたのかもしれなかった。
「神の鳥。御仏の鳥。か。」
君は脇差を抜いて、その刃を見つめた。君は十五だった。

キャラクターイラストレーション しんいし 智歩

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