単葉機の夢
遠くから、汽笛の音が聞こえます。その音に、栗生(クリオ)は目を覚ましました。窓から、五月の風が吹き込んで、栗生の髪を撫でました。先生は、教科書の例文を読み上げています。栗生以外、誰もが真面目に授業を受けています。つまんないな、と、栗生はまた視線を窓外へと向けました。不意に、お腹が痛い、そう思い、手を上げて、具合が悪いので保健室に行きますと先生に告げると、先生は仏語を読み続けて、行ってよろしいとだけ目配せをしました。栗生が立ち上がると、皆がくすくすと囁き合います。栗生はそれを無視して、御手洗いへと駆け込みました。
「生理か?」
誰の声でしょうか、栗生は何も言わずに、そのまま御手洗いへと駆け込むと、鏡に映る自分を見つめました。青い目に、白い肌、日本人ですが、少しばかり御伽めく栗生の容姿は、美少女めく美少年でした。髪を伸ばして女子用のセーラーのスカートを履いたのならば、それはもう女の子でしょう。ただ、最近、それももう終わりなのだと、そのように思えます。幼い頃から、周りからも女の子みたいねと言われて育ったせいで、その仕草もまた、女の子めいています。御伽劇の役割を決める折には我の強い同級生の女子を差し置いて、お姫様を演じるのです。栗生は、それは嫌ではありませんでしたが、けれど、時折は男の役もやってみたいと思えるのです。それなのに、周りが面白がって、そのようにさせてくれません。
また汽笛が聞こえました。校舎から出て、中庭を散策します。百合の花、白薔薇が展いていて、それを栗生は手折ると、いつもの癖で、髪に挿しました。栗生を可愛がりたいという上級生の男子は何人もいます。それは、中等部にも、高等部にもいるようで、栗生の耳にもその噂は届いていて、進級が恐ろしいと思えることもあります。
中庭に咲くように立つマリア様の像を超えてそのまま進んでいくと、何かを叩く音が聞こえてきました。耳を欹てて、栗生はその音のする方へ導かれるように進んでいきました。校舎の裏手、誰もいない林の中を進んでいくと、幾つかの倉庫が立ち並んでいます。ネモフィラの花々が咲き、青い絨毯のようになっていて、佳い香りがします。その香りの最中、油の臭いが交じっていて、栗生はそのまま臭いの方へと進みました。音と臭いは、一つの倉庫から流れていて、そおっと覗き込むと、そこには、翼の折れた残骸だけが折り重なって詰め込まれていました。それは、雑誌のグラビアで見たような、複葉機のようでした。栗生は怖くなって、その場から逃げ出そうとしました。
「ここで何してるんだ?」
咎められたようで、栗生は驚き、振り返りました。クラスメイトの都南(トナン)がいました。都南はじっと、栗生を見つめて、あまりにもその目が真っ直ぐなものでしたから、栗生は頬を赤らめて、顔を背けました。その態度に、都南は何も言わずに、そのまま残骸の方へと向かうと、それらを物色し始めました。
「ここで何をしてるの?」
都南は振り返り、じっと栗生を見つめました。栗生は、都南の目は少女よりも美しいのに気づきました。それから、肌も白く、ただ栗生よりはいくらか骨ばっていて、然し、眦の鋭いのが、涼しい印象でした。きれいな男の子で、少女で化粧したような面立ちです。お月さまのようだと思いました。
「飛行機を作ってる。」
「模型?」
「いや、本当に飛べるやつ。」
「へぇ。すごいな。」
栗生は驚いて、都南の横にしゃがみ込むと、彼が手にする様々な残骸、それは、竹ひごのようなものや、絹のような白布、透明のアクリルなど、様々でした。それらを器用に選別しながら、都南は自分の欲しい物を抱えては、仕分けして、倉庫の外に置いてある荷車に運びました。
「僕も手伝うよ。」
そう言われて、都南は頷きました。都南に言われるままに、必要かどうか彼にはわからないガラクタを抱えては、荷車に積んでいきました。積み終わると、都南を先頭に、荷車をそこから先、ネモフィラの続く倉庫の並び、最後尾の茅葺きの屋根の小屋まで運ぶと、そこには草葉の色のような単葉機が置かれていました。
「これは君が一人で作ったの?」
「うん。まだ途中だけど。」
都南の言葉通り、単葉機の翼や胴体は、まだ継ぎ接ぎ途中なのか、針金などが飛び出ている箇所がありました。
「飛べるの?」
「理論上は。もうすぐ完成する。そしたら、テスト飛行だよ。」
「どこを飛ぶの?」
「海に向けて。」
「いきなり海?」
「ああ。うちの学校、校舎側が海になってるだろう。ちょうど、高台で、そこから街が見える。そのまま行けば、二つ向かい合ったビルがある。あそこを抜けて、お月さまをめがけて、海へ出る。」
都南が指差した方角には、海があります。その海へ向けて、この単葉機を飛ばそうと言うのです。海、という言葉に波音がしました。ニスの臭いが、栗生の鼻をつきました。
「僕も乗りたいな。」
栗生が呟くと、都南は、
「いいよ。その代わり、僕の仕事を手伝ってくれたまえ。」
都南は、そう言いながら、単葉機の操縦桿を握りました。何か、調整をしているようでした。栗生は嬉しくなって、白薔薇の簪を髪から抜き取ると、複葉機の翼の隙間にそっと挿してやりました。その様を見て、
「ああ。綺麗だね。その白薔薇は枯れてしまうだろうから、君は翼に絵を描いてくれたまえ。」
栗生は頷いて、そうして、その日から、栗生は都南と一緒に、単葉機の制作に励みました。栗生の仕事は、ペンキで白薔薇を塗ることに、また、昇降舵を取り付ける作業などで、それを逐一、都南が見てくれるのです。
都南は、時折ハーモニカを吹いていて、不思議な少年でした。聞くと、同い年で、御父様は外国にいらっしゃるそうです。
「このハーモニカは父がくれたんだ。」
そうやって単葉機の操縦席の端に腰掛けてハーモニカを吹く都南は美しい少年で、娘よりも愛らしい指先でした。
「吹いてみるかい。」
ハーモニカを渡されて、唇が触れ合うよりも火が散るような恥じらいが、栗生の胸中に忍んできましたが、然し、何食わぬ顔でそれに息を吹き込みました。上手くメロディが操れずに、ハーモニカを持つ指先が震えてしまい、都南はその様を見て笑いましたが、ひょいと栗生からハーモニカを奪うと、美しいメロディを奏でました。うっとりと、栗生は手を伸ばして、都南の真白な片手を握りました。果たして、自分の中の少女が少年に恋しているのか、それとも、少年として少年に恋をしているのか、定かではありませんが、それは都南も同じかもしれません。都南は、ハーモニカを吹き続けました。そうして、栗生は目を閉じて、その調べに耳を澄ませました。
「御父様のことが好きなんだね。」
「いや、僕が御父様なのかもしれない。」
「君が?君はまだ子供だよ。僕と同じ。」
「うん。だから、僕は御父様の理想。」
そう聞いて、栗生は、それならば、自分もまた、自分の御父様の理想なのかしらと、そう考えました。そのような考えをしているうちに、段々と眠りへと落ちていきました。
夏至の前夜、梅雨の谷間、単葉機は完成しました。美しい白薔薇が、きらきらとその妖精の翅を彩っていて、まだペンキの匂いが残っています。
「明日飛ばす?」
「うん。お月さまに向けて。」
そうして、夏至の夕方には、二人は制服の水兵服に、黒い半ズボンを履いて、制帽をかぶると、校舎裏のもう露草に変じたネモフィラの跡のすぐその横にある長い長い道の前に立ちました。これを滑走路に見立てて、飛び上がり、校舎を旋回し、そのまま街に出て、ビルを抜けて、お月さまへ向けて空へと向かう作戦でした。テスト飛行ですから、少しばかり飛べばよいのです。
「上手くいくかな?」
「おそらくはね。」
単葉機に乗り込んで、二人は都会の空へと向かって飛び立つよう、エンジンが上手く機能するように祈りました。
夏至の夕方、お陽さまはもう溶けてしまって、お月さまが浮かんでいますが、木々はフィルターを通して見るように透き通っていて、空は西洋人の瞳の青さを一面に広げています。
vrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr……。
プロペラが回転し、単葉機は走り出しました。そうして、花々を散らしながら、二人の少年を乗せて、そのまま、天へ向けて滑走をはじめました。操縦桿を握りながら、都南はやわらかく笑いました。桿を左に切って、そのまま、進んでいくと、ちょうど大きな楡の木の手前、単葉機は重力から逃げて、浮かび上がりました。栗生は、初めて、身体の中に弾けるような快感を感じて、そうして、都南の背中を見つめました。都南は恐ろしくはないのでしょうか、勇猛に、目の前だけを見ています。すぐに、風がやってきて、帽子が飛ばされそうでしたが、寸での所で手で押さえると、栗生はその先に、ビルの谷間に浮かぶ銀色の月を見ました。青々とした透明のビルの谷間、菫がかった空に向かって、単葉機はだんだん上昇していきます。そうして、上がっていくにつれて、だんだんと、栗生に、墜落の夢が甘美な匂いを伴って、その目に映じました。二人して童貞様のまま、きれいなままに死ぬのであれば、そうすれば、きっと、もう、なにもない、ただ二人だけの空の思い出で、この恋に終わりが告げられるのかもしれません。墜落は身体の刺し貫かれる感覚を、きっと与えてくれそうだと、時折下降する度、栗生に思われます。天使だけの感覚でしょうか。単葉機が青と銀の流星となってビルの谷間の火薬庫に落ちていく幻。
ああ、仏語が聞こえてきます。夢ならば、覚めないで欲しい。単葉機の墜落の夢を、海が見えるこの教室から、両性具有のままに、見せていて欲しい。耳には、幽かにハーモニカの音色、それからプロペラの回転音がしていて、栗生が寝ぼけ眼で制帽に触れると、甘く芳しい、父のような、息子のような、天使のような彼の匂いがしました。