二〇〇〇年前のわたし
男性には女性を描ききることは出来ない。
女性には男性を描ききることは出来ない。
それぞれには、異性から見た異性を書くことしか出来ない。
それは当然そうで、寧ろ、女心をわかっているのであれば、女に近づこうとしないだろうし、男心がわかっていれば、男を捨てるはずだろう。
だから、どうしても異性を書く時には空想と幻想、そして希望と厭世とが入り交じり、美しい者が生まれてしまうが、そのような人物は存在しない。
男には生理の際の感情を書くことは出来ないし、女には勃起のどうしようもなさを書くことは不可能である。
それを空想することによって、文学作品が発展していて、たまさか互いの感情が交差する作品が産まれる。
私は先日、洗濯物を畳みながら、この世界というものは、やはりあまりにも不自然だと思われた。
と、いうのも、地球の存在を奇蹟として扱う考え方は至極一般的だが、然し、地球は奇蹟にしても、あまりにも出来すぎている。
巨大な天の川銀河の中にある太陽系、その中の太陽と地球と月の相関から始まり、汎ゆる環境の状態、生物の進化、そして、人間の誕生に至るまで。この世界を構成する全て、動植物に至るまでの配置。
どのような藝術よりも藝術そのものである。その巧緻に編み上げられた藝術のパーツの一つである人間は、教えられないでも愛し合い、男の女、刀と鞘との秘密の約束事が組み込まれていて、その先に、新しい子供が産まれるように出来ている。
幼少期の思い出は光輝き、何時しか満ちる日暮れ頃、思い出しては咽び泣く。
この世界には予め組み込まれている約束事が多く、それはどのようなものかを、有機物無機物に関わらず、皆が身体が覚えていて、識っている。
最終的には50億年後には太陽により地球は灼かれて消滅するそうだが、ならば、今生きている意味は何なのだろうか。
その度に思い起こされるのは、稲垣足穂の言葉、『地上とは思い出ならずや』の言葉である。
『時の旅人』という西田敏行の歌があって、武田鉄矢の作詞だが、これはドラえもんの『のび太の日本誕生』の主題歌である。
ドラえもん映画には素晴らしい主題歌が毎回ついているが、『時の旅人』は中でも屈指の名曲だろう。過去に思いを馳せるサビの詩が良い。三回、それぞれの時を歌う。
陽が照っていた 1億年前も
今日と同じような 青い空だった
誰かがすわってた 1万年前も
おまえと同じように 白い浜辺に
雨が降っていた 2千年前も
誰かがぬれていた 私のように 誰かがぬれていた 私のように
例えば、今日は雪が降っていた。私は雪を手のひらで受け止めたが、それはこの長い地球の歴史の中で、幾度となく繰り返されてきたことである。私自身、幾度となく、その仕草を懐かしく繰り返している。時折、まぶたの裏に浮かぶ。
そして、今朝の雪のあの冷たい感触は、今タイプを打つ中で、既に思い出になっている。
不思議な感覚である。あれほど遠いと思っていた遠足をいよいよ明日に迎えるその夜は、今はもう、思い出なのである。
2千年前の人が、雨に濡れていた。その人もまた、もう遠い思い出の人であるが、然し、私もまた、いつかの誰かにとって、2千年前に、雪を手のひらに受け止めていた人なのである。
この飛躍は、2千年という途方も無い時間ですら、そのときになれば一瞬の刹那であったことを教えてくれる。
デジャ・ヴ。
2千年前に、雨に打たれていたのは私であったかもしれない。ただ、もう思い出になってしまっただけである。
この世には実は思い出しかない。未来も現在も、考えた瞬間流れて霧散する。この二つは、思いを巡らせた瞬間、過去つまり思い出に変わるものであるから。
地上とは、思い出でしかない。それは50億年後には消滅する思い出であり、その50億年の先もまた、明日のようにその時がくれば思い出になっていく。
いつかは消えてしまうのに、男性と女性には、どうして、こうも美しい秘密の約束事が贈られているのだろうか。
そして、この秘密を解く鍵は、一生涯、互いに手に入れる事ができない。
だからだろうか、狂おしいほどに、恋しくなる。
私達は、思い出の恋を紡ぎ続けている。
恋を歌う、ドラえもんの歌で美しいのはもう一つ、白鳥英美子の歌う、『夢のゆくえ』。日本語の歌詞で、このように魔法的に美しい歌詞、過去も未来も内包した歌詞はあるだろうか。
たった一つ、言葉一つ、紡がれたそれを耳にするだけで、人は宇宙にまで飛べる。