『ザ・バットマン』を観た
ので感想を書こうと思う。(ネタバレも途中から書きます)
傑作である。
上映時間は2時間55分。驚くべき長さであるが、丁寧な仕事人、マット・リーヴス監督ならば細部まで演出したくなるのであろう。
私の最も愛する『ブレードランナー2049』も2時間43分と長尺だが、『ザ・バットマン』は停滞する場面が少ない上でこの長さであるから大変に濃密である。
難を言えば、長々と観ていたくなる美しいシーンが少なく、もう少し刈り込んで2時間15分ほどに収めれば相当の名作になったと思われる。
主演はロバート・パティンソンであり、最近は『TENET』や『ライトハウス』などの話題作でも活躍目覚ましい役者さんだが、何よりも『FFⅦ』を愛しており、心の中にエアリスとティファがいる男、というだけで信頼に足るではないか。そう、今回のバットマンはエアリスとティファに萌えた男でもあるのだ。
ヴィランであるリドラーはポール・ダノが演じているが、安定のポール・ダノであり、やはり実写版のび太はこの男しか演じることは出来ない。『ハリー・ポッター』シリーズもダニエル・ラドクリフの代わりにポール・ダノがいつの間にかハリーを演じていたとしても、まじで気づかない観客もいるだろう(この二人は『スイス・アーミー・マン』で共演している)。
また、アルフレッド役はまさかのアンディ・サーキスであり、ゴラムである。マット・リーヴス監督の『猿の惑星』シリーズで培った信頼でついに人間の役でも極めて重要な役割を演じることになったのは感慨深い。アンディ・サーキスは『ヴェノム・レット・ゼア・ビー・カーネイジ』でも監督を努めているので、アメコミ畑とも縁が深い(そもそも、人外ばかり演じているのだが)。
それからキャットウーマンのセリーナはゾーイ・クラヴィッツである。ゾーイ・クラビッツは『マッド・マックス/怒りのデスロード』で美しい5人の花嫁の1人を演じていたが、相変わらず美しい人である。
何よりも一番はペンギン役を演じたコリン・ファレルだが、コリン・ファレルは2002年頃、ブラッド・ピットがインタビューで誰に注目している聞かれたとき、「それはやっぱりコリン・ファレルだね。」と言わしめたダブリンの種馬である。種馬が行き過ぎて、一時失敗をしてしまったが、最近は絶好調に思える。ちなみに、マイベストコリン・ファレルは、『マイノリティ・リポート』である。このときのコリン・ファレルは、今思えば少し成田凌に似ているように思えてきた。
何よりも、2003年にはベン・アフレック版『デアデビル』において、ブルズアイを演じているわけだ。まぁ、ブルズアイは『幽遊白書』における、スナイパー刃霧要のアメコミ版だと思って頂ければ問題ない。
その時もイケイケで額に的なんかメイクしてノッていたが、今回の怪演ぶりは素晴らしい。ああいう、容姿をぶっ壊せる役は役者冥利に尽きるのだろう。
まぁ、そんなこんなでここからはネタバレ全開で書くが、今作は基本的に、「復讐者が導く者」に変るという、本当のヒーローになるための物語である。バットマンことブルース・ウェインは今作ではヒーロー活動2年目で、若く、両親を殺した犯人を追い、そして悪を叩きのめすという、復讐に駆られた男である。
彼が今作で対峙するのは、復讐者に塗れた都市そのものであって、それをあざ笑うかのように劇場型犯罪をくり返すリドラーもまた、同様に復讐と自己愛という歪んだ思想を抱いている。
今作は、明らかに『セブン』や『ゾディアック』などのデヴィッド・フィンチャーの描くスリラーを世界観、演出の根底に置いており、不気味な世界観が生み出されている。然し、そこはゴッサムシティという幻想のニューヨーク・シティで包むことにより、アート性が醸し出されており、ところどころ、ニコラス・ウィンディング・レフン監督の『ドライヴ』のような異様な画面作りがなされていた。
ティム・バートン版はペンキや絵の具で作り込まれたオブジェ的世界、ジョエル・シューマッカー版はゴテゴテした同性愛的でアメリカのお菓子的世界、ザック・スナイダー版はCGとメカメカしい機械的な世界であるとしたら、クリストファー・ノーラン版はドライな世界である。
そして、マット・リーブス版はどこまでもウェットを持ってきた。
ノーランに対抗するのには、同様の乾いた画面、世界では勝てないのである。だから、湿り気を持ってきている。これは、ドゥニ・ヴィルヌーヴが『ブレードランナー』の雨に対して(監督のリドリー・スコットは雨の国英国の男である)、自身の原点であるカナダの雪を持ってきて、見事な続編を作ったことに似ている。
『ブレードランナー』の亜流で終わる作品は雨やネオンを大々的に持ってくる。本質を見ていないのである。
今作のバットマンはリドラーの謎解きを追ううちに、自身の問題にぶち当たり、自分の大切な人を失う恐怖を改めて識り、いよいよ最後には、リドラーとの対話において、いや、お前はサイコパスやけど、俺はちゃうで!俺は全うなんや!と、少し自分もやばかったことを、同じ復讐者の自己愛野郎に気付かされることで、危険な岐路をなんとか道を踏み外すことなく進んでいく(初期は完全に危険なプチジョーカー状態であるが)。
復讐者が闘ううちに人とふれあい、いつしか人を守り導く存在に変る、という意味では『ベルセルク』が思い出される。
バットマンはフォルムはグリフィスだが、心はガッツであり、狂戦士の甲冑を着てマントをなびかせるガッツは、今作のバットマンとも重なる。また、ヒロインであるセリーナは、すごくキャスカに似ていて、私は実写版の『ベルセルク』を見ている気持ちになった。
今作は中盤、凄まじいカーチェイスシーンがある。画面がカチャカチャしすぎて何が何だか、とはなるのだが、このシークエンスの最後に、あまりにも美しい炎の中に立つ黒い影を逆さに映すシーンがあり、恍惚とした。映画は空想力は奪われ、限定される藝術だが、その限定され突きつけられるビジョンがあまりも素晴らしい場合、ため息しか出ない。
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