ヘルマフロディートスの夜
サクソフォンの音色、匂い。薄闇に紛れて、マーロンの耳を擽る。その日も、彼は淡く、期待を抱いていた。音色を奏でる吟遊詩人。ああ、今日もいると、マーロンはコートの襟を立て、何気のない素振りで、その高架下を通る。幾人かの人々は足を止め、その演奏に魅入る。マーロンは、その群衆の後ろから、興味のない顔立ちを作り、彼を見つめた。金髪に、海のように青い目。美しい黒人のサクソフォン奏者。演奏に夢中で、汗を吹いた頬が紅潮している。マーロンは、その美しい色を、一目見たときから心に留めていた。恋人の死の、二日後である。自死だった。黒人の青年は、時折ちらりと顔を上げて、その視線がマーロンとぶつかる。マーロンはそれを受け止めて、黙って彼の演奏を眺めていた。
演奏が終わり、群衆が去ると、それに紛れてマーロンも流れていく。疎らな拍手があるだけで、振り返り、彼を見返すこともない。コックスが死を選んでから四日。未だに、マーロンにその死の理由がわからない。彼が遊びで鋳造した手製の銀の指輪が、小指に輝いていた。ざらついた、歪な指輪。自分のことのようだと、マーロンには思えた。愛した彼。コックス。美しい人。水のような人。マーロンに、初めて男を教えてくれた人。何人もの、何十人もの女、それこそ、初な娘や人の妻、誰とでも寝ていたマーロンの心にいた人。今、彼のアパートメントに、死に化粧を施され、花々に囲まれて眠るコックス。もうじきにその身体は崩れ落ちて、ゾンビと化してしまう。その前に、炎でその肉体も召されなければならない。
「神よ。地獄へ堕ちてくれ。地獄へと、堕ちてくれ。」
マーロンは呟きながら、黒の天蓋が降りた町を歩いていた。風は冷たく、彼はコートを抱き寄せるように身を縮めた。闇が増えていくにつれて、街灯と、家々の窓が、それとは対象的に灯りだして、ランタンが連なるようである。併し、人気はない。寒々しい街を行くと、小さな露店があった。占星術と看板が出ている。不意に、マーロンに怒りが湧いてきた。占い師なぞ、弱みにつけ込んだ詐欺師以外の何者でもない。そのように、さも神の如く振る舞い、弱り、困り果てた人間につけ込むという悪徳を、糾弾してやろうと彼に思えた。露店は、天鵞絨のカーテンで周囲から中は隠されていて、それらにはラメのように細かい装飾が施されていた。中に入ると、そこにはもう占い師と向かい合うだけのスペースしかなく、想像以上に狭い。
「邪魔するよ。」
そう言って、椅子に腰掛けて、目の前の占い師を見ると、黒のマスクをしていて、目だけは爛々と輝いていた。スラブ系を思わせた。併し、白人である。目の力が強い、思っていたよりも遥かに若い女だった。
「いらっしゃいませ。」
占い師はそう言って、瞬きもせずにマーロンを見つめた。マーロンは頷いて、
「神はいるか?」
尋ねると、占い師は怪訝そうに眉をしかめたが、併し、
「それは、その問いはつまり、宗教上の神のことでしょうか?それとも、本当の、本来の意味での神?」
「いずれにせよ。」
「いますわ。少なくとも、幾人かの方々の中には。」
「あんたの中には?」
「私?もちろん、私の中にも、いらっしゃいます。」
狭い店内をぐるりと見渡すと、昔トルコやイランで見たような装飾品がいくつも飾られていた。また、占い師の後ろの壁に貼りつけられたカーテンには緑や青、赤や黄色、様々な原色の宝石が取り付けられていて、その光景はパリやウィーンで見た露店を思い出させた。
「残念ながら、俺は神はいないと思っている。」
「どうして?」
「いるのなら、この世界はここまで腐ることはないだろう。」
「生と死のサイクルこそ、美しいものでしょう。腐るものがあるから、産まれるものが美しく、瑞々しい。」
「いや、仮に神がいたとしよう。俺は奴に地獄に堕ちて欲しいと願ってやまない。」
「何かお辛いことがあったのね。」
「つまらない感傷だよ。」
「どんな感傷?」
占い師は目を開いて、尋ねて来た。マーロンは、その目色に吸い込まれそうになった。灰色。灰色の狼を聯想した。
「あんた、名前は?」
「シルヴィア。」
「森か。」
「ラテン語?ええ。お客さんは?」
マーロンは苦笑した。そうして、
「俺は同性愛者だ。」
「へぇ。」
「世間様が嫌う。嗤う。以前よりは幾分かマシにはなったがね。けれど、所詮は変わらん。同じだ。根底ではね。その、同性の恋人の、その、彼の考えていることがわからない。」
「人の心はわかりません。男女問わず。それが思い人なら尚更。」
「あんたにも、わからないことはある?占い師なのに?」
「占いは読心術とは違いますから。だから、人は占いに頼るのでしょうね。私のは看板にもあったとおり、占星術。星の流れで、運命を読み解くんです。」
「運命は決まっている?」
「そういうときもあれば、そうじゃないときも。」
マーロンはまた頷いた。
「シルヴィア。きれいな名前だ。きれいな音だ。」
マーロンが独りごちるようにそう言うと、シルヴィアはほほ笑んで、頷いた。
「いつもここにいるのか?」
「時折。街の方々を、転々と。」
「ジプシーめいている。」
「そのようなものです。」
シルヴィアはマスク越しにほほ笑んで見せた。眦が揺るんで、美しい稜線になった。
「部屋に帰れば、彼がいる。」
「その彼とは喧嘩中?」
「断絶だ。もう、交わることはない。」
「お話してみるといいことです。延延と、本当の気持ちを。話すこと、それは占いよりも遥かに効力がある。占い師が言う言葉じゃないけれども。」
マーロンは頷いて、もう一度店内を見渡した。きらきらと、カーテンに蒔かれた星屑が瞬いている。マーロンは財布から一万円札を取り出すと、シルヴィアに手渡した。そのまま中腰になり、カーテンを捲り店を後にしようとすると、
「お客さま。私も同性愛者です。」
マーロンは振り返り、シルヴィアを見つめた。
「いいえ、女性に恋することが多いですけれど、男性にも時折。ですから、両性愛者です。」
マーロンがアパートメントに戻ると、コックスは、天に召されたときのままの安らかな顔立ちで、彼を出迎えた。紫の紫陽花に埋もれて、肌色は天使だった。マーロンはその傍らのソファに腰を下ろし、じっと彼を見つめた。
「今日、辺鄙な場所で占い師に会ったよ。」
マーロンが話しかけても、コックスは少しも表情を変えることはない。マーロンの主観でも、そうだった。
「変わった装飾に囲まれていた。不思議な場所だ。異国めいていてね。その占い師も、異邦人のようだったな。彼女は、同性愛者だそうだ。僕らと同じだと……。いや、両性愛者だと言っていた。どちらでもいけるそうだ。まぁ、そういう意味なら、僕らと何ら変わることはないかな。なぁ、コックス。彼女が言うには、神はいる人間にはいるそうだ。信じている人間には、神はいるらしい。死ぬ者があるから、生きる者は美しいんだそうだ。そう言っていた。彼女の言葉が正しいなら、それなら、君は腐敗した命か。俺が美しいのか?生きているから?くだらん、ばかげた話だ。いずれにせよ、君はあと三日後に灼かれる。そうして、この世から完全に消えるわけだ。肉体も、天に召されるわけだ。完全なさよならだ。なぁ、コックス。コックス。何故、死んだ?」
紫陽花の匂いが噎せ返るようだった。この花々も、コックスとともに朽ちて腐っていく。今際の際の美しさだった。マーロンは、唖し黙った。無論、コックスも、唖し黙ったままである。
翌朝、マーロンは当て所なく散歩していた。部屋にいることに、耐えられない苦痛があった。仕事は休んでいる。もう、仕事をするつもりもない。それでだろうか、相対的に、朝の町々は、人々が忙しなく立ち働いているように思えた。喧噪もまた苦痛で、彼は広場から離れた。歩いていくと、昨晩も散歩で通った高架下を通りかかった。朝靄は晴れてきていて、ダークな匂いが消えている。ふと、サクソフォンが耳朶を擽った。顔を上げると、マーロンの視界に、あの黒人の青年がいた。彼が、朝陽を受けて、サクソフォンを奏でていた。チューニングだろうか。音程を変えて、何度も何度も同じ音を出している。青年は、ふいに指を止めて、マーロンに気付いた。小さく会釈をして、マーロンもそれにつられた。そうして、自然と足は彼の元へと向かった。
「昨晩、お客さんの中に……。」
「ああ。いい演奏だったから。」
「ありがとうございます。」
青年がほほ笑んだ。寒々しい朝に、汗の玉が輝いている。ふいに、マーロンは勝手に口が動いて、
「名前は?」
「僕?僕ですか?ガトーです。」
「ガトー。」
ガトーは頷いた。
「ええ。あなたは?」
「マーロン。」
「マーロン。」
ガトーはほほ笑んだ。マーロンは心を貫かれたかのようだった。
「君はこれで生計を立てているの?」
「いいえ。趣味のようなものです。もちろん、何時かはプロになれたらと、そう思っていますが。なかなかチャンスはないものです。」
彼は刈り上げた短髪を撫でながら、マーロンを見つめた。
「どんな仕事を?」
「客商売です。」
ガトーはそう言うと、目を伏せた。マーロンは何度か頷いて見せて、そのまま、彼に演奏を促した。ガトーは頷いて、マウスピースを咥えた。彼が吹き始めると、ざらついた音が高架下に響いた。時折、電車が通り過ぎて、その度、彼の音色とセッションを奏でた。マーロンは、彼の脣と指先を見て、彼の言う客商売を理解した。そうして、彼の出すそのざらついた音は、つかみ所無く高音まで上がっていった。目を瞑り音を感じていると、それはクラリネットの音色にも似ているように思えて、彼に不思議だった。耳を浸す音色は、マーロンをどこか遠くへと誘うようである。演奏が終わると、彼の頬から顎へと、汗が滑り落ちた。マーロンは数回、乾いた拍手をすると、
「クラリネットの感じがした。不思議だけど。」
「あなた、音楽評論家?音大で、クラリネットを吹いていました。ジャズ畑に来てから、サックスに鞍替えしました。」
サックス、という言葉がセックス、と聞こえて、ふいに、自分の幼い心が恥ずべきもののように思えた。そして、それが加虐心へと変じていく。
「なんとなく。音楽はよく聴く。楽器はやらないけどね。ああ、ハーモニカは吹いていた。」
「ハーモニカ。今も吹ける?」
ガトーが歯を見せてほほ笑んだ。真っ白な歯に、マーロンは見惚れていた。彼の歯も、美しい楽器の一部だった。彼の身体の全てが、美しい楽器そのものであろうか。穴の数も、それと同じである。朝の喧噪は、高架下では全て無きもののように思われた。それは、高架を走る電車に一切合切が吸い込まれるからかもしれない。マーロンは、暫くガトーを見つめた後、思い出したように、
「もちろん、吹ける。下手の横好きにしか聞こえないかもしれないが。」
「僕のサックスも同様です。」
ガトーはまたほほ笑んだ。愛らしく、山猫のように笑う。
「いくつだ?」
「二十四。」
「若いな。」
「あなたは?」
「四十七。」
「見えません。」
「世辞はいい。」
そう言うと、ガトーは苦笑した。その顔に、朝陽が差し込んで、神々しい彫刻が産まれた。マーロンはその顔に見とれて、ゆっくりと手を伸ばした。マーロンの手先が、ガトーの頬を撫でた。息子の頬を撫でるかのようだった。それだけ、世代の隔世がある。
「まだ朝だから。」
「俺は客だ。文句はあるのか?」
ガトーは困ったようにほほ笑んだが、やがて自分の頬に触れるマーロンの手をそっと包むと、そのまま彼を見つめ返した。
ガトーが楽器を片付け始めると、マーロンはそれを後ろからじっと見つめていた。そうして、ガトーの背中を包んだシャツを濡らした模様が、彼を現実に繋ぎ止めていた。
アパートメントに戻れば、コックスが眠っているのだった。マーロンとガトーは一定の距離を保ち、尾行する側とされる側に分かれたように、会話もなく歩いていく。マーロンに付き従うガトーは、サクソフォンを入れたケースを片手に、幽鬼のように揺らめいていた。マーロンは適当な安宿を見つけるとそこに飛び込んで、部屋を取った。マーロンの後に、ガトーが入ってくる。狭いベッドとソファしかない八畳間。今、コックスの眠る部屋のような、八畳間。違いは、花が咲いているかいないかだけ。花を思い出して、マーロンはすぐに戻ると言って、安宿の近くの花屋で小さな薔薇の花束を求めると、それを片手に部屋へと戻った。部屋を開けると、ガトーが振り向いた。シャワーを浴びていたのか、全裸だった。マーロンはその黒く美しい身体に、目を奪われた。コックスは、このような肉体ではなかった。コックスは、なよなよとした、文系の男で、背もマーロンよりも低い。ただ、声だけがマーロンよりも凛々しく、マーロンは反対に、爬虫類めいた声をしている。マーロンは、何も言わずにガトーを呼び寄せると、口づけた。普段、サクソフォンの奏でるために使うその舌が、マーロンの舌を愛撫して、マーロンは堪らない切なさに襲われた。俺も、一種の楽器のようなものだ、機械のようなものだ。なぜなら、俺はもう反応していて、それをガトーは咥えている。俺は、犯罪者のようなものだ。黒人のサクソフォン吹きの男娼を買って、寂しさを紛らわせている。恋心を忘れようとしている。マーロンは、薔薇の花束を引き寄せると、自分のものをしゃぶっているガトーを立ち上がらせて、今度は彼のペニスを掴んだ。ガトーは顔をしかめた。黒いヴァイオリンのような光沢が、マーロンの目に映った。シンプルに美しいと思えた。マーロンは薔薇の花びらを一枚引きちぎると、それでガトーの頬を化粧させた。そうして、もう一度、ガトーに口づけた。
二人とも果てた後、マーロンはうつ伏せで横たわるガトーの尻を見つめていた。背中が静かに隆起している。それは、ギリシャ彫刻のヘルマフロディトスを思わせた。昔、コックスに教えてもらった彫刻だった。その大理石の彫刻は、まるで僕たちのようだと、彼は言ったものだ。なぜ、それを今思い出すのか。マーロンは、じっとその身体を見つめた。美しい稜線。美しい円み。マーロンは、その尻に触れずに、その尻に指先を這わせるように撫でた。
「お前は女とも寝るのか?」
マーロンの言葉に、ガトーは顔を上げて、彼を見返した。
「女とはプライベートで。仕事ではほとんど寝ないよ。」
「ゲイじゃない?」
「どちらとも言えない。どちらかというと、女が好きだ。恋人は、ほとんどが女。女の身体が好きなんだ。一度、男に本気で惚れたことも。」
「そうか。」
自分に似ていると思えたが、併し、サクソフォンを吹いていたガトーの美しさは、セックスをしているときの彼とは比べものにならない。だからこそ、マーロンはガトーに惹かれたのだ。彼が、魂の共鳴者に、直感的に、いや、霊感的に思えたのだ。併し、ベッドで寝ているときの彼は、身体の稜線こそ身を瞠るものだが、それが美しいのは、彼がプレイする音楽のために鍛え抜かれたものが、そこに横たわっているからに過ぎない。ならば、あの音楽の奏でるガトーの美しさ、人間の身体性以上のものは、どこから来るのだろうか。官能を耳で、目で、そして第六感で、マーロンに感じさせたこの青年は、男娼に衣替えすれば、それは肉体の悪魔でしかなくなっていた。幽かに、ギリシャの神の香りをさせて。
「その、本当に惚れた男とは?まさか、今も付き合ってる?」
ガトーは横たわったまま、訥々と、小さな声で、
「いや、もう何年も前に。僕が組んでいたジャズバンドのメンバー。同郷のハイム。初めは、ただのクラブメンバーだったんです。彼はピアニストだった。彼は天才肌で、所謂カリスマってやつかな。初めて演奏を聴いたとき、それは僕が十二の頃で、サックスにも、クラリネットにも、どちらにも触れたことのない、まだ幼い頃だっただけど、それでも、僕には彼の音楽の神聖がわかった。わかりますか?音楽に触れたことのない人間を、心から感動させるんです。彼は紛れもなく神童で、美しいメロディーを奏でました。モーツァルトの演奏を間近で見ることの出来た、当時のオーストリアの人々の心持ちがわかるようでした。サリエリの嫉妬もね。彼と組んだバンドは、僕の性的な夢想、性的な妄想、それを実現させたが為に瓦解したんです。」
「彼とは寝たのか?」
「何度も。彼は女性が好きだった。だから、僕のことをおかしなやつだと思っていたみたいです。好奇心、それだけです。だから、僕がそういう趣味があると聞くと、俄然乗ってきた。彼の童貞を、処女を奪ったのは僕です。それが、僕の一番の自慢かもしれません。下らないけれど。ただ、僕のことを好きにはならなかった。彼は、ただの好色家だったんです。」
「音楽家、芸術家で好色じゃないやつはいない。」
「往々にして。けれど、やはり色恋が絡むと集団は壊れるんです。彼は僕を疎ましく思い始めた。」
「恋に落ちた?」
「同じバンドのドラマーです。そいつは女で、眼の細い、厭なアジア女でした。日本か、韓国か、中国か、どこか忘れましたけど。僕たちのバンドには多様性があった。あくまでも、人種的な。ただ、性的マイノリティにはいるべき場所がなかったんです。」
うつらうつら、眠気を孕んだ声で、ガトーは訥々と呟いていた。それは、彼のサックスとはまるで正反対である。マーロンは、時折頷きながら、静かに彼の言葉を呑み込んでいた。聞いているうちに、コックスの顔が目ぶたの裏に浮かんだ。美しいサクソフォン奏者は、唐突にその尻の割れ目から屁をすると、部屋にガスの匂いが充満した。併し、マーロンに、その匂いは気にならなかった。寧ろ、命の香りがした。マーロンは、残された薔薇の花びらをちぎると、それをガトーの尻の上にはらはらと落とした。
アパートメントに戻る道すがら、マーロンは、ガトーとのことは白昼夢だったのではないかと、ふいに足下が崩れるようだった。遠目に見ていた彼と、セックスで繋がった彼には、明らかな差異が見えた。歩いているうち、唐突にシルヴィアのことを思い出した。あの、美しい占いの娘に、話を聞いてもらいたかった。ガトーとは、セックスをして、彼の話を聞くだけに留まった。言葉を吐き出したかった。
昨晩と同じ場所、果たして、シルヴィアの占いの露店はそこにあった。静かに揺らめくように、風が吹く度に、装飾がしゃらしゃらと音を立てている。カーテンを開けると、濃厚に香った。昨日と同じように、黒のマスク姿のシルヴィアがそこにいて、マーロンの顔を見ると、眦を緩めた。マーロンは椅子に腰掛けて、シルヴィアを見つめた。
「今日こそ占いを?」
「いや、君に会いに来た。」
シルヴィアは顔を上げて、マーロンを見つめた。
「君を抱きたい。」
「娼婦じゃないわ。」
「知っている。いや、俺は君を知らない。だから、君を知りたいと思って、ここに来たんだ。」
「あなた、恋人がいるって言ってたじゃない。」
「つまらない男だ。」
「私もつまらない女ですよ。それに、私はレズビアン。あなたはゲイでしょう。」
「君は両性愛者だと言っていただろう。俺もだ。俺も、女は数多抱いてきた。」
シルヴィアは目を細めた。そうして、ため息をついて、吐息をついて、マスクを外した。真っ赤な紅に染められた脣が姿を顕した。マーロンはその色に見惚れた。
「ブランチ・デュボア。」
「『欲望という名の電車』。」
「知っているのか?」
「ヴィヴィアン・リーの役名ね。舞台版はジェシカ・タンディ。」
「フランス語で、白い森、という意味だそうだ。君はシルヴィアだろう。ラテン語で森。フランス人?」
「オランダ。」
「きれいな目だな。」
「口説いている?」
「ああ。口説いてる。」
シルヴィアは大きくため息をついて、マーロンを見つめた。
「手を出して。」
マーロンは頷いて、手を差し出した。その手を、シルヴィアが包んだ。ガトーを思い出した。シルヴィアはマーロンの手相をしばらく眺めると、
「厭世家。あなたは厭世家ね。だから、恐らく、恋人との断絶を、肉欲で埋めようとしている。それだけ。あなたが私に声を掛けるのは、それだけのこと。捨て鉢になっているから。」
「占星術以外にも出来るのか?」
「占いにまつわる、大抵のことは。ねぇ、セックスの相手は出来るけれど、それ以上のことは私にはできない。それは、刹那的なものでしょう。」
「俺が快楽に逃げていると?」
「話は聞いてあげられるけど、おあいにく様。セックスの相手は他を探して。」
「女同士ではどんな風に思いを遂げるんだ?」
「調べてみて。プライベートは話さない。ねぇ、出ていって。」
シルヴィアはまた眦を緩めた。美しい森。マーロンはその森を後にして、そのままうろうろと、あの高架下へ向かった。サクソフォンの音色。その音色がまた耳を擽った。ガトーが、演奏をしている姿が見えた。遠目で、彼を見ていた。その脣が嬲るマウスピースを見つめていた。銀色の光が、雨粒を受けた星々のように彼の目に映る。
アパートメントに戻ると、紫陽花が匂った。それはもう、コックスの匂いだった。マーロンはベッドの脇のソファに腰を下ろした。そうして、コックスは相も変わらず眠り姫である。マーロンは彼を睥睨し、そうして、暫くその寝顔を見ていた。夜の帳は降りていた。ランプに火を灯すと、煌々と白い肌が瞬いた。
「今日、またあの占い師にあったよ。寝ないかと誘った。でも、乗ってこなかった。もう一人、サックス吹きが一人。彼とは寝た。彼と寝たんだ。彼は、異性愛者だと言っていた。でも、男と寝るんだ。音色がね、きれいだった。抜群に上手いんだ。それから……、ああ、それから、彼と寝た。彼のペニス、黒いペニス。ああ、彼は黒人だ。金髪の黒人。美しい青い目。海よりも青い目。それを、俺はずっと見ていた。セックスの最中、彼は俺に貫かれているときも、その目を逸らすことなく、俺を見ていた。俺はどうだった。俺は貫かれているとき、お前をどんな目でみていた。なぁ、どんな風に見ていた。悔しいだろう。俺が、他の男と寝る。他の男に抱かれる。この指輪ももういらん。お前と一緒に、捨てる。埋める。どこかに。いや、お前と共に、燃やす。お前は覚えていないだろう。これをくれたのは、沖縄の島だ。そこで、お前がこれを俺の為に作ったと、嬉しそうにくれた。覚えている。もう、数年前のことだ。俺がお前にもらったのは、これくらいだ。お前は、俺にこれくらいしかくれなかったんだ。ああ、サックスの奏者の名前は、ガトーだ。ガトー。意味は、スペインの言葉で、猫だそうだ。猫。黒猫だ。美しい青い目をした黒猫。彼は、サリエリがモーツァルトに嫉妬したと、そう言っていた。けれど、それは嘘だ。『アマデウス』でも観たんだろう。あれは、脚色を施している……。なぁ、彼は、今日はどんな男に抱かれているんだろうな。なぁ、お前はもう俺に話しかけることはない。なぜだ。何故死んだ?自死した?自分を殺した?お前は、俺に絶望していたのか?なぁ、答えろよ。なぁ、お前は、いつも、俺に答えなかった。あの島で、お前は砂を掴み握って、全てこの中にあると言った。初め、意味がわからなかったが……、でも、今はそれは本当のことだと思うよ。お前の言葉は、紛れもなく本物だった。けど、俺に関しては嘘ばかりだろ。なぁ、嘘なのか?なぁ、答えろ。お前はいつも、知った風なことばかり言っていた。偉そうに、能書きを垂れていた。絵を描いて、歌を歌って、詩を書いていた。勉強して、タンゴを踊って、俺と、タンゴを踊って……。絵、歌、詩、ファック、交じって音楽になった。俺たちの音楽。なぁ、答えろよ。なぁ。何か言えよ。なぁ……。ごめん。ごめんなさい……。腐った、糞の花め。」
マーロンの嗚咽に交じって、どこからか、ガトーのサクソフォンが流れてくる。それは、幻聴であるが、彼にガトーの尻が思い浮かばれた。美しい尻に乗る赤い薔薇。マーロンは、紫の紫陽花に眠るコックスに近づくと、その死の息を嗅いだ。
散々に女と遊んだ。花嫁を娶った。そして、男のために別れた。鼻腔に、天使の匂いと紫陽花の匂いが交ざり合い、唐突に、彼の脳裡に赤ん坊が浮かんだ。彼を拒んだ夜のことも。
その翌日、コックスは荼毘に付された。彼とともに灼いた指輪は遺灰の中に鈍色に輝いていた。それを拾うと、マーロンは自分の小指へと、またはめた。