たまゆら
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教室にはまだ先生は来ていませんでした。なんとか間に合ったようで、ふたりは顔を見合わせて、ほほえみました。席につくと、先生が入ってきて、後ろに男の子を一人、連れていました。男の子は短髪で、切れ長の瞳でした。どこかぶっきらぼうな印象でしたが、緊張しているのか、顔がかすかに赤らんでいました。
「転校生の、大森一哉くんです。さきほどおつきになられて、三時間目からの出席です。大森くんは、出雲の出身です。今日から寮生活で、みなさんと一緒に勉強します。」
大森くんは静かにえしゃくをして、ぶっきらぼうな顔を少しだけ緩めました。小さい笑顔に、さつきはほほえましく、胸が温まるのを感じました。
昼休みには、大森くんの周りに人だかりができていました。さつきとまゆ子は、教室の端でお弁当を食べながら、その光景を見つめていました。
「出雲の、勾玉職人の家の子らしいわ。」
まゆ子が顔をちかづけて、ひそひそ声でさつきに言いました。よく見ると、大森くんの胸元に、小さな瑠璃色の勾玉がかけられています。大森くんは、周りを囲む男子や女子の質問に丁寧に答えているようで、お弁当を食べる時間もないようです。その様子がおかしくて、さつきが思わずほほえみを漏らすと、大森くんと目が合いました。さつきは思わず赤面して、顔を伏せました。悪気がないのに、まるで笑ったようで、さつきは恥ずかしさで心が赤くなりました。
「どうしたの?おなかでも痛い?」
まゆ子に言われて、さつきは首を振りました。もう一度ちらりと大森くんを見つめると、大森くんは、他の男子とのおしゃべりで、さつきに興味のないようでした。
授業が終わって、放課後にお手洗いにいったまゆ子を下駄箱の前で待っていると、
「おい。」
と声をかけられました。振り向くと、大森くんでした。
「あ、大森くん。」
とっさのことで、さつきは何も言えませんでした。静かに顔を伏せて、上目遣いに大森くんを見つめました。
「さっき、笑ってただろう。」
「うん。でも、大森くんのことを笑ってたんじゃないの。」
「別におれのことを笑おうが、笑うまいが、どうでもいいよ。それよりも、これ。」
大森くんは首にかけた勾玉のネックレスを外すと、紐を手に握って、勾玉を宙に垂らしました。よく見ると、二つの勾玉がかかっています。
その二つの勾玉を、大森くんがゆっくりと揺らして、触れ合わせました。すると、小さな高い音が、さつきの耳の中で響くようでした。美しい音で、さつきの心が満たされました。
「たまゆら。」
「たまゆら?なぁに?」
「知ってるかと思った。」
大森くんはそう言って目を伏せると、また勾玉を首にかけました。そうすると、大森くんが神話の中の神さまのように見えました。
「たまゆらって、さっきの音?」
「そう。きれいだろ。」
「うん。とても。」
「おれの勾玉を見て、笑っているから、たまゆらを知ってると思った。」
「ごめんなさい。はじめて聞いたわ。この音がどうかしたの?」
そう尋ねると、大森くんは黙ってしまいました。たまゆらという言葉の響きだけが、校舎の中に残るようです。
「悪いな、呼び止めて。忘れてくれ。」
そう言うと、大森くんは背を向けて、行ってしまいました。その背中をさつきは見つめていました。
「お待たせ。」
まゆ子がハンカチで手を拭きながら、歩いてきました。まゆ子の白い手よりも白い、牛乳のような白さのハンカチです。
「ねぇ、まゆ子ちゃん、たまゆらって知ってる?」
まゆ子は首を傾げました。初めて聞いた言葉のようでした。さつきははにかんで、首を振りました。ふたりはまゆ子の寮の部屋まで行って、そこで色々な少女の雑誌や宝塚の雑誌を読んで、おしゃべりに花を咲かせました。
まゆ子の寮からの帰り道、さつきの家までは、武家屋敷の横を通って、そのまま小泉八雲の旧邸の前を通ります。この辺りはとても静かで、ときどき観光客とすれ違いますが、この古い町並みはおちついていて、さつきの好きな場所でした。
島根は田舎で人も少ないですが、さつきには好きな場所がたくさんありました。宍道湖の夕日や、おじいさまのお家がある大森町のレトロな町並み、それから、美しい海を眺められる浜田の町。濃い青と緑が、島根の色のような気がします。
山吹中学校の生徒たちには、県外から寮に入って通う人も少なくありません。大森くんは、出雲ですから島根の出身ですが、中には北海道や、沖縄出身の子もいます。
さつきは帰りしな、一人大森くんが言っていた「たまゆら」という言葉を思い出していました。たまゆらは音だと、大森くんは言っていました。勾玉と勾玉が触れ合ってかすかに立てる音がたまゆらです。音がなると、あたりがしいんと静まるようで、不思議な感じがしました。
さつきは、まゆ子が鍵のペンダントをしているように、大森くんが勾玉のネックレスをしているのは、とても似ていて不可思議なように感じられました。あのふたりが引き合うようで、少しいやな心持ちです。
たまゆらの音は目をとじると耳の中に浮かんできます。このたまゆらの不思議な音色は、その日一日中、さつきの心に寄り添っていました。
明くる日、まゆ子と教室に入ると、大森くんの姿はなくて、授業が始まっても、まだ入ってきません。今日はお休みなのかなとさつきがと思っていると、とびらが開いて、大森くんが顔をみせました。大森くんは先生に会釈をして、そのまま席につきました。先生は、何事もなかったかのように、授業を進めました。
午前の授業が終わると、大森くんはすぐに立ち上がって、一人で教室から出て行ってしまいました。さつきはその後ろ姿を見つめながら、いったいどうしたのだろうと思っていると、まゆ子がお弁当箱を提げて、お昼に誘ってきて、そのままさつきの疑問は宙ぶらりんになりました。
お弁当を食べていると、まゆ子が、
「ゴールデンウィークは、さつきちゃんはお暇?」
「ええ。どこかに行く予定はないわ。お家で本を読んだり……。」
そう答えると、まゆ子の頬はゆるんで、嬉しそうなほほえみです。
「そうなの。それなら私、実家に帰るんだけど、お家に泊まりにこない?温泉宿だけどて、お部屋はいっぱいあるの。泊まりにこない?夜は温泉に入って、いっしょに寝て。それから大山にいって、牧場で遊ぶの。どうかしら?」
とても楽しそうなお誘いで、さつきはまゆ子の話を聞いていると、わくわくしてきました。
「ええ、是非行きたいわ。でもいいのかしら。お金を払わなくて。」
「おかあさまには言ってあるわ。たいせつなお友達だから、お部屋を用意しておいてくれるわ。温泉はとても広いの。それからご飯もとてもおいしいわ。」
「じゃあ、今日おかあさんにお話しするわ。おとうさんとおかあさんのお許しが出れば、きっと行けるわ。」
まゆ子は小指を出しました。さつきははたと気がついて、自分も小指を差し出します。ふたりは指切りをしました。約束の指切りをすると、大森くんが席に戻りました。かすかにたまゆらが聞こえた気がして、さつきは大森くんを見ました。大森くんはさつきの視線に気がついて、
「弓田と横山はエスのようだな。弓田は横山と話すとき、花みたいな頬色だ。芍薬だ。」
そう言って頬杖をつきました。
エス、というのは、女の子同士の約束の関係だと、さつきはあとで、まゆ子から聞きました。お手紙を交換したり、手をつないだり、秘密の親友のような関係で、恋人のようなものだと、そうまゆ子から聞かされて、さつきは頬が赤らむのを感じました。
「いいじゃない。私たち、親友でしょう。お手紙も交換するでしょう。だから、エスみたいなものよ。」
そうまゆ子に言われると、恥ずかしいけれど、さつきは嬉しくもなるのでした。ただ、大森くんに、そう思われるのは、むずがゆいような不思議な気持ちです。さつきとまゆ子のなかよしなのを大森くんは知っていて、ふたりを見るときに、そういう思いで見ていると思うと、さつきはかわいい芍薬でした。
「でも、恥ずかしいわ。私、まゆ子ちゃんは好きだけれど、そんな風に見られているなんて。」
「三年の小百合さんも、エスのお友達がいるって聞いたわ。そんなに恥ずかしがることなんてないわ。」
「そうかもしれないけれど……。でも、やっぱりヘンな気持ちだわ。」
さつきはそう言って、はにかみました。後ろの席にいる大森くんは、さっき自分で言った言葉も忘れているようで、本を開きながら、勾玉をいじっています。ときどきたまゆらが聞こえるようでした。美しい音で、ふいに、さつきの心に、たまゆらを聞かせてくれる、大森くんとの愛の時が浮かびました。そのとき、やっぱりさつきは白い芍薬でした。
「どうしたの?」
ふと顔をあげると、心配そうに、まゆ子がさつきを見つめていて、その目は光るようでした。
「ううん、なんでもないの。」
そう言って首をふると、温まった血を冷ますかのように、さつきは深呼吸をしました。とても不思議な空想でした。まゆ子には、そのさつきの様子に不思議なようでした。
「ねぇ、まゆ子ちゃん、さっき、小百合さんもエスだって言ってたけれど、ほんとう?」
話をそらすように、さつきはたずねました。まゆ子は頷いて、両手で頬杖をつきます。
「とても有名な話よ。小百合さんは、色々な人と仲が良いの。でも、それぞれの時間がそんなに長くないのよ。長くてもひとつきで、短かったら一週間くらいなのよ。」
「そんなに短いの?気が変わりやすいのね。」
「天気のようよ。性格もとても激しいって、ひょうばんなのよ。」
小百合さんのことは、まゆ子はよく知っていました。そして、小百合さんのことを話すときのまゆ子の顔は、どこか寂しそうでもありました。さつきは、まゆ子の表情の意味がわかりませんでしたが、何か、不安な思いだけが幽かに芽生えました。せっかくのまゆ子の楽しい誘いがあったのに、こんなことで気持ちが落ち込むのは損だと思って、さつきはお家に帰ると、さっそくまゆ子の家にお泊まりに行くことのお許しを、おかあさまにもらうために明るい声でおねだりしました。
おかあさまは頷いて、おとうさまのお許しが出ればかまいませんよと、そういいました。あとはおとうさまです。さつきはおとうさまが帰ってくるのを、いまかいまかと待っていましたが、なかなか帰ってきませんでした。とうとうしびれを切らして、部屋に戻ると、玄関があいて、おとうさまの帰る音が聞こえました。
さつきは急ぎ足で階段をかけおりて、おとうさまに抱きつくと、一生のおねがいとなんどもなんども、まゆ子の家に遊びにいきたいことを伝えました。そうすると、おとうさまはしゃがみこんで、さつきに視線を合わせると、
「今日はきれいな月が出ていたから、さつきが何か言いにくるんじゃないかって、そう思ってたんだよ。」
「きれいな月ね?」
「青くて白い、きれいな月だよ。おとうさんもおねがいしたからね。お返しに、さつきのおねがいもおとうさんは聞いてあげるよ。でも約束して。おばさまやおじさまに、ご迷惑をかけちゃいけないよ。いい子にしてること。それは条件だよ。」
そういって、おとうさまの手がさつきの頭を撫でました。さつきはありがとうと大きな声で言って、居間からまゆ子の寮のお部屋に電話をしました。寮には電話がひとつしかありませんから、管理人のおじさんにつないで、出てもらうのです。それも、九時までの短い時間です。今はもう九時十分前で、さつきはどきどきしながらまゆ子が電話に出るのを待ちました。
「はい。」
まゆ子の声が耳に聞こえて、さつきはほほえみました。おとうさまとおかさまにお許しをもらったことを伝えると、まゆ子は花やいだ声でよかったといいました。
そのことだけを伝えると、おやすみなさいとそれだけ言って、さつきは電話を切りました。さつきは妙などきどきで、胸がふるえるようでした。そして、お風呂に入ると、湯船の中で、今夜まゆ子に手紙をかいて、明日渡そうと、そう思うのでした。
ゴールデンウィークに入る前日、さつきはいつものようにまゆ子のお家でおしゃべりをして、いっしょに宿題をしました。そして、翌日の予定について、ふたりで話しました。まゆ子は、事細かく予定を立てていて、そのプランの立派なのに、さつきはとても驚きました。
「まゆ子ちゃんは、予定を立てるのが上手なんだね。私は計画を立てるのが苦手だから……。」
そうさつきが言うと、まゆ子は首をふって、
「ううん、そんなことないのよ。私も楽しみだから、毎日毎日予定を立てていたの。だから、これはいきなり考えたことじゃないのよ。それに、泊まるのは私の旅館でしょう?だから、目を瞑ってても、時間も、行く場所も、簡単にわかるのよ。」
そうまゆ子に得意げな顔で言われて、さつきはなるほどと頷きました。
ふたりでお菓子をつまんで、それを食べ終わると、またおしゃべりをしました。時間がすぐに流れて、もう夕方です。夕暮れになって空が茜色でした。まゆ子の部屋でさよならをすると、夕暮れの松江の町並みを、お家へと急ぎました。雨が降ったのか、石畳の道は濡れて光っています。その輝きが、星空のようにさつきに見えました。雨のせいで、人の音がまばらで、静かな風景です。ときおり車が通る以外、歩いている人がいないので、さつきは、世界に取り残されたようでした。ずっと歩いていると、明日への楽しみな心と、町の静けさがぶつかって、浮き立つような思いでした。
ふいに、鳥のさえずりのような微かな音が聞こえました。聞き覚えのある音で、たまゆらでした。振り向くと、大森くんが歩いていました。いつもの制服姿で、買い物袋をぶら下げています。松江の町に出て、さつきとは逆に寮に帰るところでした。大森くんはさつきに気付いて頷くと、立ち止まりました。
「今から帰りか。」
「そう。大森くんも?」
「うん、おれも帰りだよ。」
大森くんの頬が微かに揺るんだように見えました。そのほほえみが、さつきに、まゆ子と関係を思い出させて、ふいに頬に火が点いたようでした。
「どうしたんだ?」
「あ、たまゆら。」
ふいに尋ねられて、頭が白くなって、思わず口をついて出た言葉が、たまゆらでした。その言葉を聞いて、大森くんは頷きました。
「ああ、もうおぼえたのか。」
「その音が聞こえると、大森くんが近くにいるってわかるのよ。」
「猫みたいだな。」
大森くんはそう言って笑いました。さつきもつられて笑いました。笑っているうちに、はじめて大森くんにたまゆらという言葉を教えてもらったときのことを思い出しました。
「ねぇ。なんであの時、たまゆらって言葉を知ってるかって、私に聞いたの?」
気になっていることを尋ねると、大森くんは静かに頷いて、胸にかかったネックレスを取り出しました。夕陽を受けて、勾玉が鈍く輝いていました。そして、さつきはその輝きをみているうちに、あの不思議なゆらめきのような音が、ここから出ていることが信じられなくなりました。透明で清らかな音が、触れてもいないのに、聞こえないようでした。そして、その透明で清らかな音は、大森くんがいるときだけ聞こえる音のようです。
「おれのかあさんの音だよ。」
「大森くんのおかあさま。」
大森くんは頷きました。その顔は、どこか学校にいるよりもおとなびて、どうじにおさなくも見えました。子どもとおとなをいったりきたりしているようでした。
「おれがたまゆらを聞いたのは、かあさんといる時だったんだ。だから、これをつけていると、かあさんを思い出すんだよ。この音を知っている人は、かあさんを知っている人なのかもしれないって、そう思うんだよ。」
大森くんは、掌の上の勾玉をゆびさきでいじりながら、そう言いました。そのときの大森くんの顔は少しばかり寂しそうに見えました。
「大森くんは出雲なんでしょう?おかあさまは出雲の方?」
「おれのかあさんは奥出雲だよ。この勾玉も、奥出雲のものだ。このたまゆらも、奥出雲の音だ。おれにとってはね。」
そう言って、大森くんは勾玉はならして、またさつきにたまゆらを聞かせてくれました。さつきが目を閉じると、たまゆらがいつまでも聞こえてくるようです。耳だけじゃなく、目は鼻や口や心にも、たまゆらは聞こえるようです。そして、奥出雲の景色が見えるようでした。さつきは奥出雲は、雑誌や写真でしか見たことがありませんでした。だから、そのこともさつきに不思議でした。
「弓田は幸魂が大きくみえる。」
「え?」
「幸魂。愛の魂だよ。」
愛という言葉に、さつきは戸惑いました。そして、はじめて聞いた幸魂という言葉が、自分の心の中に水のようにしみとおっていくのを、さつきは感じました。
「そういう迷信めいたものを信じてるんだ。かあさんの影響だよ。」
「幸魂って……。」
「荒魂、和魂、幸魂、奇魂。一霊四魂といって、おれたち人間や神さまには、四つの魂があるんだ。その魂を、直霊という霊が支配しているっていう考え方があるんだよ。死生観のようなものだとおれは思ってるんだけど、その中で、愛をつかさどる幸魂が、弓田は大きいように思えたんだ。」
大森くんはそう説明しながら、ときおり勾玉をならして、たまゆらを奏でました。その音は、まるで催眠術のように、さつきに聞こえました。夕映えがますます輝いて、赤さが目に痛いほどになって、大森くんの顔が影に染まりました。
「それじゃあ、おれはもう行くよ。また来週。」
そう言って、大森くんは夕映えの中に溶けるように、歩いて行きました。そのまま、空へと消えていきそうだと、その背中を見ていて、さつきは思いました。
「また来週。」
そう声をかけると、大森くんが振り向いたように、さつきには見えました。