ベルベットの恋⑧
恵は二郎の手を取ると、導くかのように二郎を連れて行った。二郎の心臓が、また疑心暗鬼に駆られてかすみがかった。疑心暗鬼というよりも、恵は何も知らずに自分を地獄へと連れて行こうとしているかのようだった。岡崎の小劇場は、前と変わらずその場所に佇んでいたが、およそ半年の間に、何か別のものへと変わったかのように、二郎の目に映った。掲示板に貼られた美佐子と目があった。美佐子は艶やかなままで、その顔を二郎に向けていた。美佐子の一人芝居のようであった。
「知らなかった。こんな舞台をやるんだね。」
「美佐子さんの一人芝居ですわ。この前、お手紙と一緒に、招待状が届きましたの。私、美佐子さんに二郎さんのことを打ち明けたんですわ。」
恵の頬と脣が桃色に染まった。反対に、二郎の脣は色を落としていった。二郎は、動悸におそわれて、そこを身動きできない。足が固まって、動かなかった。ポスターに書かれた日程を見ると、今日は休演日のようであった。クリスマスのイヴに休みだというのが珍しく、小さな舞台だから出来ることかもしれない。しかし、劇場はライトアップされていて、スーツ姿の男が二人、入場口に立っている。恵も招待状をもらったということは、特別公演なのだろう。
「行きましょう。」
手を引かれて、二郎は何も言えずにそのまま連れだった。中に入れば、何かが激変することは、二郎にも理解出来た。あの手紙を受け取ったときに、何故逃げようとしなかったのか。二郎は自分で思う以上に恵に惹かれていたのか。自分の考えの異様な奇怪さに、二郎は目が眩んだ。スーツ姿の係員は、どこか能面のように思える。どちらも陽も射さないこんな場所でサングラスをかけていて、どこを見つめているのか判別できない。招待状を受け取って、劇場に入っていくと、以前と変わらずに深紅のビロードのカーテンと絨毯の色彩られた赤の世界があった。立ち止まる二郎の手を小さな力が引いて、顔を上げると、赤の世界に不自然なほどに赤いチークに染まった頬と、赤色の脣がかすかに開いてほほえんだ。赤色の中に赤が重なって、神護寺の紅葉の中にも見つけた赤の世界だった。
赤色の世界を歩いて行くと、あの楽屋が見えた。
「今日は特別公演かなにかなの?」
「そうみたい。クリスマス・イヴだからかしら。特別な人をだけを招待する公演だって、お手紙に書いてありましたわ。」
楽屋の前で立ち止まり、その扉を見つめると、半年前の光景が脳裡に浮かんだ。あの時、まだ俺は恵を知らなかったのだ。まだこの花を摘もうという意識すらなかったのだ。まだ恋心を知る前だったのだ。この小柄な少女も同じように、まだ俺を知らないのだ。扉を開けて中に入ると、恵がいたことが思い出される。魔女と聖処女のふたつの瞳が俺を射貫いたのだ。
楽屋の中には美佐子と松岡がいた。松岡は二郎を見るなりその瞳を細めて、物珍しそうにほほえんだ。二郎は何も言わずに会釈した。美佐子は恵を認めるなり、立ち上がって嬌声をあげた。
「恵。久しぶり。来てくれてのね。」
脣に塗られた紅の色は、恵の脣を娘のものにしていた。赤い口から匂う香水に二郎は頭痛をおぼえた。
「先生も。よく来てくれましたね。」
「僕は知らなかったんだ。今日は恵ちゃんに連れられて来たんですよ。」
「そうなの。まぁ座って。まだ公演まで一時間もあるもの。少し話でもしない?」
美佐子はそう言うと煙草を口にくわえて火をつけた。吐き出された紫煙は赤く見えた。二郎のまぼろしである。
「話ってなんの話でしょうか?」
「最近観た面白い戯曲、面白い映画。何かないかしら?」
「そうですね。アンデルセンの人魚姫なんか面白かったですよ。地方の小劇団がやっている、アングラものですけどね。」
「へぇ、人魚姫。いいわね。悲恋は素敵ですわ。人間に恋する御姫様のお話ね。あれはたしか声を失うのよね。」
「足の代わりにね。」
「そうして、人間になっても最後は泡になっちゃう。哀しいお話ね。」
「美しい話でしょう。違う世界の人間に憧れて、危険を承知で恋をする。」
「そうね。とても美しいわ。美しいけれど、恋なんてするもんじゃないと、あの作品を観るたびに思いますのよ。純粋な女の子、純潔な女の子ほど、夢見るものじゃない?」
二郎は内心動揺の火が揺らめいていたが、どこか精神に麻痺があった。不思議な感覚だった。いつこの女が二郎が不義を働いていると暴露するかもしれない状況だというのに、どこかこの状態を楽しんでいた。焦ればおそらくこの女の思う壺なのだろうと思えた。松岡を連れて来ているのも、周到な準備があってのことに思えた。俺を破滅させるつもりなら、さっさと全てのことをぶちまければいいだろうと、二郎は自暴自棄だった。
「純潔な女の馬鹿なまぼろしでしょう。」
「あら。さっきは美しい話って言ったでしょう?」
「言いましたよ。馬鹿な恋を全うするその潔さは、少女にしかできないでしょう。純潔の聖少女の輝きでしょう。だから美しいんですよ。」
二郎はそう言って手を伸ばして美佐子に煙草を強請った。美佐子はほほえんで、一本取り出すと二郎に渡して、火をつけてやった。その火の橙が、この赤色の劇場の中で一等美しい暖色だった。二郎は、この女が俺の罪を暴露したら、この橙の火で、この劇場を燃やし尽くしてやろうと、そういう夢想に耽った。ニコチンで血管が弛緩したせいかもしれない。しかし、この赤色の劇場がオレンジの炎に巻かれて地獄の焔に包まれるのは、どれほどきれいなものだろうと、想像するだけで二郎は恍惚すらおぼえた。火は覚悟さえあれば誰にでも出来る、簡便で最も美しい芸術かもしれないと思えた。そして、劇場が火に包まれて、自分がその中でこの美しい女たちと死ねるのならば、全ての罪が灰と化してしまうのならば、それは一番合理的なことに思えた。何も恐れるものがないのだと思うと、二郎は途端に強気になって、煙を美佐子に吹きかけた。美佐子は瞬きすらしない。
「聖少女だなんて、男のまぼろしでしょう。女はみんな強かよ。」
「そうかもしれませんね。けれど、男はもっと強かですよ。」
「男はみんな蛾のようなものよ。ひらひらと、炎に近づいて羽根が焼かれて落ちていくの。」
「太陽に近づいたイカロスのように?」
「太陽に近づいたイカロスのように。」
美佐子は二郎の言葉を繰り返した。美佐子の瞳孔は大きく開いて、薬物が沈んでいるような色だった。爆弾のような匂いがした。
「私の独演会をあなたはどうレビューしてくれるのかしら。」
「そのままに書かせて頂きますよ。僕は太鼓持ちの記事は書きませんから。」
二郎の言葉に、美佐子はほほえんだ。その後ろで松岡もほほえんでいる。松岡の瞳も、美佐子と同じように見開いていた。二つの瞳孔が二郎を捉えていた。
「今日の客は僕と恵さんと、松岡さん。その三人だけですか?」
「ええ。スタッフはもう控えているわ。彼らはとても寂しがり屋ですから、ここには顔を見せないわ。」
他に人のいるような気配などなかった。静かで音のしない劇場だった。そのしんとした空気が、二郎の神経を波立たせたが、もはや俎上に上げられたのだと自覚して、二郎は平静を装った。恵は何も言わずに、二人の会話に入ることもなく、頷いているだけだった。美佐子の美貌に遠慮している訳ではなかった。恵の女としての余裕が、美佐子と二郎の会話を見守るという行為を肯定していた。この劇場にあって、美佐子と恵の二人はまさに薔薇のような赤さで、二郎に迫ってきた。
「そろそろ準備をしないとね。衣装を変えて、綺麗になるのよ。」
美佐子はそう言って松岡の肩に手を置いて、左足のヒールを直した。
恵とともに、誰もいない客席に腰を下ろした。がらんどうの舞台に、照明だけが眩しい輝きであった。二郎は、その白い灯りに魅入られるように、視線を離せなかった。蛾のようだという美佐子の言葉の、その通りだった。二郎は、自分が蛾になって、美佐子の頬に留まる幻想を視た。その幻想の中で、美佐子の頬が二郎の毒に溶けていって、皮膚が剥がれ落ちていくと、その中に恵の美しい脣が覗いていた。恵の脣は水に洗われていて、紫の血の色である。ふいに甘い息がかかり、二郎の幻想は破れた。隣にいる恵の眦の涼しいのが、幽霊のような美しさに見えた。足音も、物音も、何も聞こえてこない。不可思議な空間だった。「太陽に近づいたイカロスのように。」自分の声なのか、美佐子の声なのかわからなかった。二郎には舞台にいない美佐子の声に聞こえた。恐ろしい美佐子の言葉に聞こえた。蝋の羽根で太陽に近づこうとしたイカロスは、蝋が焼け落ちて、自らも落ちて死んだ。恵は冷たい月のような美しさだが、しかし、太陽の激烈な輝きが今まさに発光し始めている。その輝きに、二郎は逃げように囚われて、吸い込まれるようだ。
照明が落ちて、暗闇に包まれると、恵の瞳が星屑のようにまたたいた。ほほえんでいるのか、暗闇の中の銀河は形を変えた。舞台に照明が当てられて、一人の男が立っている。独演会と聞いていたものだから、二郎ははじめ、初めて美佐子を見たときと同様、男装の美佐子かと思ったが、松岡だった。松岡はタキシード姿で、静かにほほえんでいた。
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