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 それから、一月も経たないうちに、茜と恵は京都に来ることになったのだった。それを知ったのは、彼女たちが来る二日ほど前に、茜から来たメールでだったが、泊まるところはあるのかと尋ねると、北区にある川端の別荘に泊まるのだという。その別荘は鴨川沿いにあって、川端の古美術が山ほど置かれている別荘で、ほとんど倉庫と化していると川端は自嘲していた。計も何度か訪ねたことがあったが、もう三年も前のことである。そう思うと、恵はまだ産まれてもいないのかと思い至り、あまりにも短い年月で、人が一つの人格を持って生きるまでになったことに、恐れすら浮かんだ。
 茜からメールがあって、恵が先に京都に入るから、京都駅まで迎えに来て欲しいとのことだった。茜は、大学の用事だろうか、恵よりも二日ほど遅れるといい、計は了解したと、メールを打った。
 丁度二月で、冷え込みが一層深くなっており、雪がちらつき始めていた。明日の夜にも積もるだろうと、テレビのニュースでやっていたのを、車の中で思い出していた。空は灰色が籠もって、今にも落ちてきそうなほどだ。スタッドレスタイヤに替えることを忘れていたのを思い出して、思わず計は舌打ちをした。
 京都駅には、バレンタインを控えていて、巨大なチョコレートのオブジェが並べられている。チョコレートのツリーだろうか、クリスマスを思わせて、装飾の電灯が瞬いていた。寒空の下で、チョコレートの売り子がスカート姿で客引きをしていた。そうして、その奥から、恵がすました顔で、計を見つけて、手を振っていた。少しは笑顔になっているかと思えば、しかし、とりつく島もないように、目を細めている。ゆっくりと歩いてくる恵は、人間そのもので、周りにも幾人かいるであろう複製人間とは別種の存在のように見える。
 恵は、紺色のコートに、黒いスカートをはいていて、臑から見えている足を包む黒いタイツが暖かげだった。計と並んで歩きながら、
「東京駅よりも小さいのを想像していたけれど、大きいのね。」
「東京駅は迷路みたいなものだよ。それに較べたら幾分も小さい。」
計はそう言って、京都駅から見える京都タワーを指さして、
「あれが京都タワーだけど、東京タワーの半分もない。東京スカイツリーの五分の一ほどだね。京都は東京と較べると、小さなミニチュアの都だね。」
「でも、外国人は好きなんでしょう?日本的なものは、全てここにあるって聞いてるもの。」
「そうだね。東京ももちろん日本的なものはたくさんあるけれど、京都は古都だからね。」
車に乗り込みながらそう言って、計はアクセルを踏んだ。市内を進む最中、恵は興味深そうに窓外の景色を見つめていた。
「銀座の街をドライブしたことがありますの。川端先生のお車に乗せられてね。東京の街は、大きなビルがたくさんで、見上げるものばかりでしたわ。丸の内なんて、ほんとうに使っているのかどうかもわからないような、すごく威圧的なビルがたくさんあって、今にも崩れてきそうでしたわ。地震が起きたらさぞ怖いことでしょうね。」
「偉容さだけが大事なんだろうね。だからかな、美しいけれど、歴史が感じられないだろう。」
「東京ステーションホテルなんか、歴史を感じましたけれど。」
「あそこだって、ここ最近にまた修繕が終わったんだ。それに比べれば、京都はやはり古いよ。まぁ、そんな街もどんどん変わってしまっているけれどね。スクラップアンドビルドで、生き物のように変化を続けているよ。」
「京都の人は、ほんとうにご自分の街を謙遜しながら自慢するのね。」
「それはほんとうに、美しい建築が溢れているからだよ。そういうものに接していると、自分の心が洗われたように感じるんだろうね。それが、妙な優越感に育って、人に向かうのかもしれないね。」
「でも、街は寂しい気もしますわ。冬や、雪のせいかもしれないですけれど……。」
バックミラーに映る恵は、伏し目がちで、それこそ自分こそが寂しいように、呟くように言うと、そのまま視線を窓外へと向けた。計は、それにつられるかのように、自分も窓外に目を向けた。そうすると、恵の話しているように、寂しい冬枯れが、町中に沈殿しているかのように、雲もまた重く黒く降りてくるように見えた。
「少しドライブしようか。」
計は、堀川通りから五条通に入ると、烏丸通りそのままを北へ上がった。中途に目に入る様々な建物やお寺を見つめながら、恵は物珍しそうに、目を細めては開いていた。そうして車が御所の前を通るとき、
「とても広いわ。皇居みたいね。」
「御所だよ。まぁ、京都の皇居だね。」
「あら、やっぱりそうなのね。」
そう言って、恵はほほ笑むと、また視線を窓外へと向けた。そうして、それを見ている内に、計には恵がまだ幼子のように見えて、それなのに愛らしい脣が、奇怪な女のしるしのように思えて、妙な心地だった。そこだけ、異様な程に赤い。
「口紅を使っているのか?」
唐突な質問に、恵は首を傾げて見せて、何も答えぬまま、視線をまた窓外へと投げる。恵の赤い紅の色は、計に、百貨店の化粧売り場をうろつく数多の女を思い出させた。特に印象が深いのは高島屋だが、それは子供の頃からの記憶のせいでもあるだろうか。その女たちは、名も知らぬ女たちではあるが、皆一様に自分の顔を鏡に映して、店員から渡された紅や化粧品を纏っている。がやがやと、人々の声にならぬ声が耳に降りてきて、計には彼女たちがなぜ斯様なまでに自らを糊塗することに熱を上げるのか、男の自分にはわからないものだと売り場を横切る度に思う。そうして、春夏秋冬どのような季節でも、高島屋の一階ではそのような喧噪が続くが、あれは彼女たちにはきらめく宝石なのであろうか。そう見ているうちに、自らを化かして美しくなった彼女たちのほほえみが、計の目に鏡越しに映って、星々のように瞬きはじめた。クリスマスの季節は、殊にそれが金色の輝きをもって迫ることがある。それは、幼い頃から計が観てきたこの百貨店の象徴のようで、自らの母もその中の一員だったことを、彼は思い出していた。今年のクリスマスは、そのような季節や美しいプレゼントに囲まれることもなく師走も過ぎて、気付けば桜の頼りももう一月もすればあるだろう。しかし、年々と冷え込みの激しくなる町にあって、計は次第に、春も夏も秋も、雪がちらつく未来が来るような気がしてならない。雪が降り注ぐ中を走ることから見る夢想だろうか。
 車を三十分ほど走らせて、鴨川沿いにある川端の別荘につくと、茜から鍵を預かってきたようで、恵は御礼も言わずに車から降りると、門を開けて中に入っていった。車を屋敷の前の車庫に停めると、計は恵の背を追うように門を抜けて、くぐり戸を通り、中に入っていった。そうすると、ここを訪れた時に感じた様々なことを久方ぶりに思い出していた。何年前のことかは忘れたが、川端の研究会で訪れたことがあった。その折りに、川端の蒐集した美術品の数々を見せられて、資産がある人間のコレクションに驚いたものだ。計は、彼のその何十分の一かの品物しか手元にない。自分にはコレクションは高嶺の花で、野草を摘み取るのが関の山だろう。そうして、その川端のかたわらに、まだ若い少女の頃の茜もいたような気がする。顔に靄がかかったように定かでないのが不思議だが、そういえば、今もまた先日会ったばかりの茜を顔を思い出そうとすると、かすかに靄がかかる。記憶までもが散漫になることが増えた。聞かれると、すぐに内側からひょいと出てきた美術家たちの名前まで、時には忘れ逝くこともあった。自分の中の蓄積が滅んでいくことに、計はもう老いを感じ始めていたが、それを自分の倍も生きていた川端に話せば笑われるだろうか。
 恵はステップを踏むかのように、別荘の庭園にある飛び石を飛んでいく。そういえば、バレエを習っていると川端が言っていたのを思い出して、はて、二歳児が習うバレエとはどのようなものであるかと、彼も真似をして軽く飛び石を超える。庭には小川が走っていて、その先には池があり、水音が響く。だからだろうか、流れる小川の潺の音が、外の鴨川の水音を消している。しかし、あの広い川よりも遥かに澄んで高い水音は、水の密度によるものだろうか。冷たい水が流れるままにその後を追うように屋敷へと入り込んでいくと、暖炉の火が焚かれていた。ロビーは洋風で、川端の画廊のように、中央の暖炉に丁度真上に、玄関に面して螺旋階段が誂えてある。
「結婚式の会場みたいね。」
冷たい声が聞こえて、水をかけられたかと思い、振り向くと恵だった。いつの間に後ろに回られていたのか、恵は切れ長の目をくるくると回転させて、室内を眺めた。計は何も言わずに、ロビーに置かれたソファに腰を下ろした。
「火が焚かれているな。誰かいるのか?」
「管理人さんが一人、料理人さんが二人いるって聞いたわ。ここは、色々なレセプションにも使うんだそうよ。そういう貸し借りもしているんだって、茜が言っていたわ。」
「レセプション?」
恵は曖昧に頷いた。そうして、計の向かいに置かれた、二人掛けのソファに腰を下ろした。深紅のビロードの革のソファで、そこに腰を下ろして佇むと、恵の肢体は山猫めいて見えた。
「バレエはいつから習っているの?」
「生まれてすぐよ。いいえ、作られてすぐよ。」
「何故言い直すんだ?」
「何故かしらね。」
恵は欠伸を噛み殺すようにして、目から涙が溢れた。計はそれを見つめたまま、暖炉の木々が割れてはしゃぐ音に耳を澄ませた。
「ねぇ。あなたは美術商もしているの?川端の伯父様と同じ?」
恵は、眠たそうに垂れるまなじりはそのままに、鋭く冷たい目で計を見つめた。
「いや、僕は美術品は扱わないよ。評論を生業にしている。それから、いくつかの文筆をしているだけだ。それでも暮らすのに事欠く時は、講師をしている。」
「茜の先生だったんでしょう?」
「彼女の通う女子校で教師をしていた。現代文を教えていたよ。学生の彼女とは、一年だけの付き合いだ。」
「茜はきれいでしょう?」
「何?」
「茜はきれいでしょう?」
恵は同じ言葉を繰り返した。恵は山猫のようにソファの上で丸まって、冷たい頤をかすかに鳴らした。計は恵の手触りを知らないが、しかし、この肉にはいかように触れても冷たく思える。それは、恵の目が持つ光にせいかもしれない。黒目の中に青く鋭い光が火のようにちらつく。あれに触れると冷たさでこちらの肉が焼け焦げるだろう。
「可愛らしい子だよ。」
「だんだんきれいになるわ。不思議ね。ねぇ、私と茜は似てない?」
恵は顔を上げて、身を乗り出して計に訪ねた。計は恵の目を見つめたまま、彼女の目の内にきらきらと光る青い火の正体を探るかの如くに心の指を伸ばした。しかし、指を伸ばしても恵の目には幾重にも襞があるようで、触れることが出来ない。心にも、同様に襞があるのだろうか。しばらく見つめ続けていると、恵はこの遊びに飽きたように天井を見つめた。そうすると計は、頤からそのまま美しく伸びた首の白さに、雪を思った。喉仏がないのが女の当たり前だが、それが美しい線を描く理由だろうか、かすかに上下する筋肉が描く曲線に、計は美術品を見るかのような思いに囚われる。
「茜はバレエを十四歳で辞めたのよ。今は絵に夢中だけど、彼女、絵の才能の方があったでしょう?」
恵は顔を下ろして、計を見つめた。計はその目を受け止めて、何も言わずに頷いた。そうすると、水音が聞こえてきた。小川の潺が計の耳に帰ってきた。暖炉の火と川の水が交差して、しゃらしゃらと音を立てている。匂いまでするかのようだが、火も水も透明な匂いで計に自然と触れてくる。そうしていくうちに二つの匂いが交差して、ふいに花の香りになって、はて、これは恵の匂いかもしれないと思い立つ。車の中にいたときに、匂いがないことを思い出した。恵は変わらずに計を見つめていて、その乳房が彼女の呼吸と動悸に合わせて上下するのが、計には神秘に思えた。車の中の匂いを思い出すと、しかし、自分の出す獣の匂いしかなかったようにやはり思える。他に匂いはない。そうすると、この複製人間には匂いがないということであろうか。車の中で助手席に座る娘が時折硝子に息を吹きかけ曇らせた景色を指先で溶かしていく様が思い出されて、あの磨り硝子から遠くを覗き見るような目も今見ているように美しいほどに澄んでいたのだろうか。中途に雪が降っていたことに思いが至ると、そうだ、この娘は雪のように匂いがなく氷のように匂いがない。しかし、かすかにではあるが花のような匂いがして男を惑わすようで、触れようにもその氷の中にきらめく火には触れようがない。氷の花に匂いはない。しかし、美しさだけがある。計は思わず身を乗り出すとそのまま手を伸ばして、恵のほほに触れた。計の思惑とは違って、ほほには熱があり、しかしその氷のような目は高音のピアノの音色で何かを訴えている。冷たい言葉が目から発せられていて、その美しさに計は息を呑んだ。
「どうしたの?」
恵のほほに触れたまま、時が止まったかのように、計は動くこともなかった。しかし、火が弾ける音で、計は恵からそっと手を離すと、静かにかぶりを振った。
「人形のように思えた。君と話をしていると、君が生きていないのではないかと、そんな幻想に引き込まれた。場所が場所だからだろうか。妙なものだね。」
「熱いでしょう?熱はあるのよ。熱がなければ、人形と同じかもしれないわ。いえ、人形の方が従順で、歳も取らないでしょう?そうなると、人形の方が、よっぽど高尚なものかもしれませんわ。」
恵はそう言いながら、指先を足に見立てて、ソファの上を歩かせた。指先の透明な白さと不釣り合いな子供の手付きに、計の胸に冷たい風が吹いた。
「私がなんのために作られたか知っていますの?」
指先がはたと止まり、計が目をあげると、花びらのように赤い恵の脣が目の前にあった。そうして、そこから幽く漏れた息には獣の匂いがあった。さきほどの氷の匂いに色がついたようで、白薔薇にかすかに差した紅のようにも思えた。計はかぶりを振って、恵を見つめた。恵はふふとほほ笑んで、
「私は面白い慰みものですわ。女の子ためのお人形なのよ。」
「人形は冗談を言わない。」
計はかすかにほほ笑んで、恵を見つめると、恵は真顔になって、そのまま眦を垂らした。やはりほほ笑むと、目に新月ができる。それは彼女の美しく愛しいしるしの一つだった。
 暖炉の火が弾けて、その勢いか、恵は立ち上がると、ロビーでくるくると回り始めた。火が何かの合図になって、彼女を唆したのだろうか。その回転はどんどん速さを増していって、計には美しい駒のように思えた。そうしているうちに、計は、窓外に見える空模様がだんだんと黒くなっていって、灰色の空から本降りの雪が降り始めているのに気がついた。日も暮れようとしている。計の視線に導かれるかのように、恵も視線を外に向けた。降り出した雪はひとつひとつが重いようで、ぼたん雪のようである。
「京都はよく降るのね。さっきよりも、大きな雪になったわ。」
「たいして積もることもない。雪国の景色は、見たことがないだろう。」
恵は頷いた。その頷きは少女のようで、幼い子供だった。
「雪国でも積もるところは君を飲み込んでしまう。僕も飲み込まれる。小さな建物なら飲み込まれる。」
「このお屋敷は?」
「飲み込まれる。」
恵はほほ笑んだ。いっそうのこと、飲み込んで欲しいとでも言いたげな目差しで空を眺めている。
「雪の世界に生きる人にとって、雪は美しいだけじゃないだろうね。恐ろしいものだろうね。生きていくことのつらさの象徴のようなものだ。重く、周囲を阻んで、逃がさない牢獄のようだよ。」
「でも、白くて美しいわ。」
恵が呟くと、真白な息が現れた。雪よりも温かいのに冷たく思えた。
「明日には積もるかもしれないね。まぁ、京都ならたいしたことないだろう。積もったところで、せいぜい靴を汚すくらい。」
「雪で汚れるの?こんなにきれいなのに。」
「汚れるのは、雪が溶けて水になるからだよ。水は全てを飲み込むだろう。」
「先生、同じことばかりおっしゃるのね。先生も、何かに飲み込まれたいのかしら。」
恵は目を細めてほほ笑むと、両手を差し出して雪を受け止めようとした。白い指先に落ちた雪は留まることもなくすぐさま溶けると水になった。
 寒くなってきたのか、計は身を縮まらせると、そのまま暖炉の元へと戻った。火が昂ぶるかのように、その火勢を増しながら、木々を飲み込んでいく。計は、飲み込むという自分の言葉を、胸の内で反芻した。雪も水も火も、全てを飲み込んでいく。全ての自然は他者を飲み込んで大きくなっていくものだと、計には思えた。そうして見つめいるうちに、火の弾ける音が次第に重なり合って、音楽を思わせた。それは一定の間隔で鳴っていて、計の耳に残り、音の余韻が消えていくたびごとに、また新たに弾けて、耳もとから遠ざかろうとしない。その不可思議な間隔を弄ぶかのように、音に耳を任せている内に、眠ってしまったのだろうか、暖炉以外の灯りは消えていて、目の前には毛布にくるまったまま眠りについている恵がいた。自分も毛布をかけられていて、これは恵が用意したものだろうか、それともここにいるという三人の使用人がかけてくれたのものだろうかと、夢と現の続きが判別しようがなかった。自然に飲み込まれる前に夢に飲み込まれて、自分に飲み込まれたのだろうか。体を起こすと、硝子越しに自分を見つめる目が見えた。黒い鋭い目だが、恵のものとは較べようもないほどに濁っている。そうして、その美しい目の持ち主は目ぶたを閉じてすやすやと寝息を立てている。毛布にくるまって、身体の線だけが導きだせるが、しかし子供めいた寝息に、そのような稚気は薄れていく。もう一度硝子を見ると、変わらずに濁る自分の目に飲み込まれていく芸術の物悲しさが心に浮かんだ。汚れた目で見る芸術は、芸術までも黒く染め上げられて塵芥となるのであろうか。それとも、その汚れた盲いた目こそを白く塗り染めるほどの輝きでもって洗い流すのであろうか。汚れが流れて、新しい色が現れるのであろうか。
 計は立ち上がり、恵の寝息を耳もとに注いだ。そうすると、何も変わらぬ人間の寝息が鼓膜にまで流れ込んで来て、年頃の女の変わった空想に付き合わされているのではないかという虚実皮膜に包まれた心持ちだった。そう言えば、この場所というのも同様に、その虚実に彩りを添えているように思えた。計は立ち上がると、音を立てないように静かに螺旋の階段を上がった。二階には、幾枚の絵が掛けられていて、そのうちの一つは、ウィーン幻想派の一人、エーリッヒ・ブラウアーの『かぐわしき夜』という作品である。蝉か何か昆虫の蛹のようなものが薄く透き徹る青さで描かれていて、その中に火が灯されたような輝きを放っている。そうして、その巨大な蛹の周りには顔も判別できぬ色もさまざまに透明めいた人々が幾人もいる。これは何を意味するのか。しかし、夜であることはタイトルを見ずしても明らかである。どこか異国めいた外国の夜の情景、もしくは地の底の祝祭を描いているのだろうか。ウィーン幻想派をこよなく愛するのは川端の趣味だが、計はこのブラウアーの描く世界は、他の幻想派の連中よりもよほど好きで、一度この絵を譲って欲しいと頼んだことのあったのを、絵を見つめながら思い出した。それは、自分に稼ぎもなにもない時分のことで、この絵を五百万で譲って欲しいと、そのように頓狂な申し出に対して川端に丁重に断られた過去があった。今思えば川端の断りは正解で、この絵をそのような大金で譲り受けていたとしたら、今頃破産でもしていただろう。自分が何者でもないことを糊塗するために、美術評論家として立つためだけにこの絵を買おうとしていた浅薄な思いが見抜かれていたのかどうかはわからぬ。しかし、この絵を見つめるたび、そのような唐突な物欲はある種の性欲にも似通っていて、その欲望のすえに破滅が起こる、そのように思えた。そういった欲望の諸々を飼い慣らせることが出来るのは、川端のようにその道に通じた人間だけで、自分にはその器などはない。一枚の絵との邂逅で、恐ろしいほどにそのような事実を突きつけられて、かぐわしい夜の匂いが恐ろしいほどに鼻を掠める。つまるところ、何も為し得ていない人間には芸術品は無価値どころか身を滅ぼす種にすらなり得る。川端ですら、幾枚もの絵を買う折に、恐ろしいほどの額を借金したことが何度もあると語っていた。一つには、三千万を越す絵を手に入れようと、家を抵当にまで入れたことがあると、酩酊した赤ら顔でぼやいていたこともあった。あれが嘯きでないのは、このような膨大なコレクションを持て余す様から伺えることだが、斯様に危険な橋を渡ってまで美術品を買い漁る様に、コレクターとはこういうものかと、自分との差異を感じざるを得なかった。そうして、そういう危険を理解しつつ自分の手の内を火傷することも厭わず、しかしそれだけの財産で遊ぶことのできる人間こそが芸術家であり、コレクターであり、最後にはあのような複製人間とのパイプすら抱けるのであろうか。
 複製人間。作られた人間。ちょうど、十年ほど前に作られた、これからの未来を担う、新しい人間の形。しかし、定義は人間だが、人形とも取る者もいる。踊り場から階下を見下ろすと、ちょうど人形のような恵は目を閉じたまま、すやすやと眠り姫を気取るかのように夢の中にいる。あれこそが、人間ではなく人形で、金をかけた芸術の最たるものなのだろうか。意識のある芸術。老いていく芸術。生きている芸術。美しく生まれ落ちた人形が人工の踊りを舞う様を、川端と茜は見るのだろうか。そうして、それを家族として迎え入れて、末永く幸福に暮らしていくというのだろうか。奇怪な趣味に思えたが、その悪趣味の美しさには濁りすらない。
 階下で眠る少女を見つめているうちに、計に、また奇怪な思いが浮かんだ。そうして、ちょうどそのとき、恵は寝返りを打って、花びらのような脣を開くと、次いで目ぶたを持ち上げて、氷のような目を計に向けた。計は、その目を受けて、詩のように心に火がついた。その火は、計の目にも宿っていたのかもしれない。しばらくの後、目を合わしていると、恵が先に折れたのか、そのまま寝返りを打って、顔を明後日の方へ向けてしまった。恵が寝てしまったのか、それともじゃれているのかのように彼女にとっては遊びのつもりかはわからないけれども、計はそのまま娘を一人残して、踊り場を離れた。
 そこかしこに絵が飾られた屋敷だった。それは、ウィーン幻想派だけではない、日本の画家も大勢あって、そのいくつかの中には、自分の知らない絵がある。いつの間にか掛け替えたのだろうか、昔ここを訪なった時にはなかった絵がいくつも並べられている。計は、それなりに多くの絵を観てきたし、触れてもきたが、このように、自分の知らない絵はまだまだ山とある。それこそ、彫刻や音楽、文学、写真、建築、舞踏、それら全ての芸術の体系と歴史を知ることは、彼のような職業にとっては必定であろうけれども、しかし、その全てが今の彼に行き着くためにあるのだろうかと、計は思いを重ねた。恵からは、女の色があふれ出ていて、しかし、絵のように無限ではない。絵もまた顔料が退化するから同じようなものだよと、川端なら言うかもしれない。天涯孤独の男の嗜みだと、川端はその指先で恵と茜の二人を弄ぶのだろうか。死霊のようなものかもしれないと、計には思えた。

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