氷
1-6
計は食堂から出ると、リビングに戻り、ソファに腰を下ろした。暖炉の薪が新たにくべられていて、火が音を立てていた。誰が、このようなことをしたのか。三人の使用人には、一度も会えていない。挨拶をしなければと思うと、また睡魔に囚われた。目を閉じると、遠くに潺の音が聞こえた。顔を上げると、恵が階上から見下ろしていた。かすかな灯りに照らされて、蝋人形めいて見えた。計が手招きすると、ゆっくりと螺旋階段を下る。その様を見ていると、やはり彼女には心もなにもないように見える。計が手をあげてみせると、
「夢からお目覚め?」
計は目頭を揉みながら、
「大分酔っ払っていたのかもしれない。少し飲んだだけだが。」
「お酒に酔いやすい体質なのね。」
恵は計の向かいのソファに腰を下ろすと、暖炉と計を交互に見比べた。
「みんなもう寝たわ。」
「今は何時だ?」
「夜の一時。草木も眠る丑三つ時。」
その言葉に、計は思わず吹き出した。
「何かおかしいこと言ったかしら?」
「いや。面白い事を言うね。そういう言葉もたくさん知っているのか?」
「自然に思いついたのよ。知っているとか、そんな感覚じゃないわ。」
「君の中に眠る彼女の記憶かな。」
「あなたもそういうことを言うのね。」
恵は眉をひそめて毛を逆立てるようだった。それは山猫の威嚇を思わせた。
「すまない。ちょうど昨日、茜さんから聞いたんだよ。君にまつわるいろいろをね。」
「おしゃべりね。そうよ。だから私、あなたに会った気がしたの。東京の、伯父様の画廊ではじめてあなたを見たとき。」
「僕を見たとき?」
「硝子越しにあなたを見たわ。そのとき、目を奪われたのを覚えているわ。ずっとずっと、あなたのことを思い出そうとしていて、そうして茜に聞いたのよ。そうしたら、ずっと昔にあなたを見たことがあったの。だからかな、覚えていたのね。覚えているっていうと、何か変かもしれないけど。」
「そんなに特徴的な顔だったか?」
「さぁ。でも、ぱっと、ちょうど電気を点けたときみたいに、あなたの顔を見た日のことを思い出したのよ。ちょうどあなたは振り向いて、私と目があったわ。」
「そうだったかな。思い出せない。」
「なんだか、パズルのピースが嵌るみたいな感覚だったわ。だから茜に聞いたのよ。あの人はだあれって。そうしたら、茜の先生だって言うじゃない。だから、はじめは私の思い違いかと思ったわ。」
「不思議なものだね。もう死んだはずの人間の記憶と、今僕を見ている君の景色が重なるなんてね。別人なのに、別人じゃないようだ。」
「いっそのこと、全員そうなったらいいのにと思うわ。」
恵は薄目になって、計を見つめた。かすかに酔っているのだろうか、ほほは桃色だった。
「生きている人間全てが別人に?そうなれば面白いだろうけれど……。それこそ、まるでウィーン幻想派の幻想絵画だね。」
「そういうファンタジーを、時折一人で遊んでいるわ。そうでもしないと、私一人不公平な気がするもの。」
「君は生き返らせてもらったとも言えるね。」
計の言葉に、恵はちろちろと火を燃やすように、舐めるように彼を見つめた。計は何も言わずに、ただ一人その視線を受け止めているうち、暖炉の木が崩れ落ちた。もう火がかすかだった。
「恐ろしいことをおっしゃるのね。生き返らせてもらった?生き返らせてもらったとはひどい言葉だわ。」
「すまない。謝るよ。」
「生き返らせてもらったなんて、そんな風に思うことはないわ。私は死んだ恵じゃないわ。名前も、身体も、声も全て一緒、記憶も一緒かもしれない。でも、私は死んだ恵じゃないのよ。」
恵はそう捲し立てると、山猫の毛を逆立てたまま、計を見つめ続けた。かすかに、氷の目が透明に澄んでいた。
「すまない。そんなつもりじゃなかった。傷つけるつもりはない。」
計は手を差しのべて、恵に手を包んだ。そうすると、あの夜のまぼろしが思い浮かばれてきて、あの夢の中に見た手の感触と同じであるような錯覚に囚われた。恵は、計に手を握られたまま、ずっと目は計を見据えていた。
「あなたには一生わからないわ。あなたは恵とは違う、あなたは新しい人だと言われても、あの人たちの目は恵を見ているのよ。私は恵の代替品じゃないわ。でも、あの人たちには代替品なのよ。いくら私が声高に叫ぼうとも、伯父様にも、茜にも、私は所詮代替品。」
「いや、君は代替品なんかじゃないよ。僕が悪かった。くだらない冗談だ。最悪のね。だから忘れてくれ。」
「言葉は取り消せないわ。」
恵はまっすぐとした目で、計を見つめ続けている。美しい火のように恵は凛と計と向き合っていた。しかし、その火もすぐさまにでも、計の新しい言葉で消え入りそうに儚くも弱くも見える。
彫刻のような女から火が立ち昇る、何か、茜が女になったときに鼻を掠めた匂いのように、燃え崩れる炭火の残り香のように、恵に新しい命が宿ったように、彼女から漂う芳香があった。しかし、今度はぷいと顔を逸らして、遠くを見やる恵だった。気まぐれな山猫のようで、また匂いが消えてしまった。
計が手をくるんでいると、恵の手は次第に温まって、その色はほほをより赤くさせた。
「あなたは私を覚えていないでしょう?」
「うん?ああ。僕は君を見ていない。」
先程視た夢がまた迫ってきたが、計はそれを頭から振り払った。
「だから、あなたは私を初めて見るの。私は、あなたを見たことがある。でも、それは他人の記憶だから、夢みたいなものね。あなたは違うわ。ほんとうに私をはじめて見るんですもの。だから、あなたには私は初めての人なの。」
恵の手が計の手を握り替えしてくる。強い力で、これ以上力を込められたら、恵の手が自分の力に耐えられなくなるのではないかと思えた。粉々に砕けてしまうのではないかと思えた。計はそっと恵の手を握り返すと、そのままゆっくりと手の力をほどいてやった。恵は手をかすかに震わせながらも、何度か深呼吸を繰り返した。
「そうだね。僕は君と会うのはあの日が初めてだ。君の目を、磨り硝子越しに見たとき、とてもきれいだと思ったんだよ。」
恵は眉根を寄せて、困ったような笑顔を見せた。
「たしかに奇怪なことだよ。死んだ人間の組織を使おうが、君は別の人間なんだからね。」
計はそう言った後、たしかに、それであるのならば、自分がもう死んでいて、今こうして生きているのが他の人間かもしれないと、そういう可能性もあるのではないかと思えてきて、しかし、それはまた一つの夢であろうと思い直した。
「火をつけてやろうかと思うときがあるわ。」
もう小さい子供のようになった暖炉をじっと見やりながら、ぽつりと恵が呟いた。
「この屋敷に?」
「ええ。伯父様の大切なものを全て燃やすの。燃やしてしまえば、どんな顔をなさるかしら。伯父様は複製が大好きだから、また複製するのかしら。芸術品も、人間も、全て複製品。」
「先生ならしかねないね。」
恵は立ち上がると、螺旋階段を上がっていった。そうして二階に上がると、計に誘惑するような目を投げかける。そのまま足音だけ小さく立てて、あれはパだろうか、ステップを踏む音だけが聞こえてくる。計は、その音を耳に聞きながら、盲いのように立ち上がり、もう火が消えて死んだ暖炉をそのままに、恵について階段を上がっていった。計の身体には、まだ隅々までに夜の感覚があった。
恵は、自室に宛がわれていた客間にいて、そうしてベッドの上に腰掛けていた。計を見つめながら、黒のスカートの裾から太腿を出すと、月の光の下に晒した。月の光が部屋中にいっぱいで、それは恵の全てを美しく化粧させた。月明かりの化粧を浴びて、一層に人形めいた顔になったが、反対に、身体はより肉の感触を生々しく呼び起こしていた。恵はベッドの上で、一人じゃれる山猫で、月の光の中で、もう私は掴まったわと、一人呟きながら、囚われようと計を見つめている。どこまでがほんとうで、どこまでが嘘なのであろうか。計は担がれていて、恵は複製人間ではないのかもしれない。しかし、思春の直中にいきる少女二人とは異なり、どちらも大人である。しかし、人形とも言える複製人間には今が思春の最中なのであろうか。それならば、彼女のこころもまだ思春の氷に閉ざされているのか。冷たい氷を抱くように、恵の髪に指を遊ばせると、無邪気な笑いと裏腹に、冷たい目差しが計を見つめる。接吻の感触も又、氷に口づけたようで、どこまでも恵は殻にこもっている。身体を計に開いているのにも関わらず、計には捕まえることのできない距離感に、彼はまた一頻りの酩酊を覚える。どこまでが夢で、どこまでが現なのか。計の腕の中で、恵は何度も大きく波打っては、肌を温めた。そのたびに、計は恐ろしい月の光の魔法にかけられた人形を抱く心地だった。計に、この愛情の不確かさが恐ろしかった。そうして、何度も何度も、恵の声が耳もとに囁かれる度に、冷たい匂いと水の潺に音に五感を澄まして、二人遠くまできたものだと、また夢に落ちていく。そうして朝に目覚めると、恵は素肌のままで外を見つめていた。白みはじめた空に、いくつもの薄雲がかかっていて、それは恵のようにとりとめもないが、恵の目が澄んだ水のように見えるのは、それは鏡のように磨かれていて、外を流れる鴨川の水面を映し込んでいるからかもしれなかった。恵は何も言わずにただ川面を眺めていた。
「鏡のようだね。」
「あの鳥たちは、あの鴨さんは、冷たくはないのかしら?」
「あいつらは人間とは体温が違うんだ。僕らが風邪を引いているときが、彼らの普通なんだよ。おまけに、とても分厚い羽根を持って生まれてきた。」
「私も、お人形ね。」
「うん?」
「私は、恵と一緒のものを持って生まれてきたわ。あなたは恵を抱いたの?私を抱いたの?」
氷のような目が、また計を貫いた。計は、そのままその人形のほほを撫でてやった。やはり、人形と異なるのは、冷たいほほにもかすかに紅差すことだろうか。そうして、恵はそのまま窓硝子を開けた。冷気が部屋に入り込んで、二人のほほを撫でた。そうしているうちに、みるみると紅は恵の身体全体に忍んでいく。計は、その素肌をそのまま後ろから抱きしめて、川面も見つめているうちに、火の音が聞こえてくるに気付いて、目を細めて遠くを見やると、対岸の住居から煙が立ちのぼっているのが見えた。恵もそれに気付いて、目を見開いて、恍惚とした表情を浮かべて、小首を傾げて見せた。火をつけてやろうかと思うわという声が鼓膜に貼り付くように何度も再生される。そうして、その恵の仕草は、ちょうどおろし立ての人形の首を据わらせるかのようにやわらかい動きで、髪の毛が計の肩を染めていくとのと同時、煙はだんだんと天に立ち昇っていく。そうして、火が突然に上がって、朝の道路の冷たい景色の中に、サイレンの音が遠くから耳鳴りのように聞こえてくる。人々が川岸に集うのが見えて、門扉から川端と茜が飛び出てくる様も見えた。二人とも、川岸で火事の行方を見つめている。
「火がどんどん家を飲み込んでいくわ。」
「でも静かだね。サイレンの音以外、聞こえないんだ。」
消防車の赤い姿が家の近くまでやってくる。サイレンの音が折り重なり、音の層が作られても、二人は動くこともなく、火を見つめ続けていた。がやがやと、人々の声は形を成さずに、サイレントフィルムのようになっている。
「あの火はいつまでもあそこに留まっているの?」
「すぐに消えるだろうね。煙はここまで来るかな?」
人々の声は聞こえず、サイレンの音は延々と鳴り響いていく。計は、ゆっくりと恵の肩を持って、彼女を振り向かせた。冷たい目が揺れて、それは清らかな水のようにきらきらとしていた。裸の乳房にも火は灯っていて、火事を見つめているからだろうか、氷は溶けそうになっている。計に見つめられて、恵はまた冷たい息を吐いた。恵の背後で、火が燃えている。それが一層、恵を氷のごとく思わせた。俺は、この冷たい彫刻を愛しているのか、そして、この娘は俺を愛しているのだろうか。計が、彼女の肩を握る手に力を込めると、彼女は顔をゆがめることもなく、身体には小さな皹を来すと、硝子が割れるように簡単に砕けて、砂に変わる。しかし、それも幻想であろうか。
「痛いわ。離してくださいな。」
恵に言われて、計は力を緩めると、そのまま立ち上がり、脱ぎ散らかした服を身にまとった。ベッドには、裸のままの恵が横たわっている。さきほどの、彼女をこの手で砕き壊してしまいたいほどの感情の動きは、一体何なのであろうかと、計には謎だった。恵は、惚けたように目を何度も瞬かせながら、天井を見つめている。その目は、計が惹かれた美しい水晶体そのままで、計には、彼女が人形か人間か、やはりわからない。生物だとしても、人形のように思えるのは、計に奇怪だったが、彼には、この娘はやはり芸術で、自分は芸術品として彼女を愛しているのではないかと思えた。それならば、奇怪を超えて異常だろう。それこそ川端と同じように、魔界の所業だろう。計は、芸術品を何度も犯したのか。ラブドールで遊ぶ連中は何人も知っているが、それとはまた違う、意思のある娘である。恵の身体は、ベッドの上で何度も何度も花開いた。その冷たい身体はもう先程までの火照りが沈んでいき、火事に呼応しているのか、一層に白くなっていく。戻っていく。
「服を着ないと風邪を引くよ。」
計はそう言って、恵の服を手に取ると、彼女に差し出した。彼女は半身を起こすと、ベッドに両手をついたまま、いたずらめいてほほ笑んで、
「着させて下さらない?」
計は、彼女の言葉の通りに、下着を着せてやり、その上から、真っ黒なスカートと、シャツを着せてやった。シャツを羽織らせながら、計には不思議な感覚があった。これはほんとうに人形遊びのようだけれども、恵は生きた人間だというのに、人形よりもおとなしく艶やかで、恐ろしいほどに肌が美しいのである。そうして、服を着せるその最中、彼女のうなじに顔を近づけると、そのままその中に取り込まれそうになる。いっそのこと、この娘の魂をここから取り出して、ほんとうの人形にしてしまったほうが、いくらもきれいなのではないか。そう思うと、彼女が振り向いて、また冷たい目を計に向けた。脣はもうすっかり紅が取れていて、洗われて桃色だった。
「ありがとうございますわ。」
「どういたしまして。」
「着せ替え人形みたいだったでしょう?」
「心が読めるのか?」
「先生の指先が、私を壊さないように優しかったから。」
計は、猛烈な羞恥に囚われた。指先で、この娘は計の奇想を読み当てて、そうしてからかっているのであろうか。
「そうかと思えば、痛いときもあったわ。先生は、私をめちゃくちゃにしたいの?それとも愛してくれるの?」
計は何も言わずに、ベッドに彼女を残したまま、ソファに座った。そうして、手持ち無沙汰の右手で、伸び始めた顎髭をさすった。恵は、計を見つめ続けている。
「ねぇ。先生はどう思いましたの?私、人間の女みたいだった?」
「君はやたら自分を人間じゃない、人形だと卑下するな。むしろ、自分を人形だと言って欲しいと、人形だと思われたいと、そういう強迫観念に囚われているようにも思うね。」
恵は目を伏せて、その桃色の脣をかるく突き出した。薔薇の花のようだったのが、桃の花の愛らしさだった。幼く戻って、愛くるしい顔になる。顔を上げると、朝陽が部屋に差してきて、あの清らかな川面のように、化粧もない洗われた美しさだった。かすかに浮かんだそばかすに、彼は息を呑んだ。
「そうかもしれませんわ。でも、反対に、そうじゃない、君は人形じゃないって言って欲しいのかもしれませんわ。」
恵はそう言うと、ぷいと顔を背けて、また窓外を見つめた。計の耳に、サイレンの音がかすかに戻ってきた。もう沈下されたのか、煙の立ち昇るのも見えない。
「君は人形じゃない。君が人形だと思うのは、知らない人間の記憶と、人間関係を引き摺っているからだろうね。」
「じゃあ、そこから離れたら、私は人間になれますか?」
「そうだね。そうすれば、少なくとも、君自身の心は人間になれるかもしれないね。」
恵は小首を傾げた。眉根を顰めている。それは、計も同じだった。
「いや、君が美しいのが、ときおり僕が君を人形だと思う、一番の原因かもしれないね。」
恵ははっとした表情で、凛として、ほほが生きるように燃えてきた。
「じゃあ、やっぱり先生は、私を人形だと思ってらっしゃるのね?」
「人形のように、美しいからだよ。」
計はそう言うと、口をつくんで、また自分の奇怪な空想を思った。もし、恵に意思がなければ、もっと美しいのだろうか。完全な人形で、冷たい水から引き上げられたときのように、魂が死んでいれば、この娘はもっと美しいのだろうか。もっと人形に近づくのだろうか。それならば、この場でこの娘を縊り殺してしまえば、最も尊い芸術が生まれるのだろうか。
しかし、魂があるからこそ、今のように、計の言葉一つに胸を高鳴らせて、ほほを美しく燃え上がらせるのであれば、それが女の美しいことの真理ではなかろうか。氷の美しいのに重なる火のごとくに、美しさは冷たく澄んでいって、身体と魂がひとところに集まると、七色のように恵の表情は移ろいゆく。そのきれいなことに、計はしばらく何も言わずに、人形のように、美しいからだよと言ったその自分の言葉を、何度も心のうちで反芻していた。