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母恋の歌 『ハウルの動く城』
『ハウルの動く城』は疑似家族の物語である。
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世代も境遇も、種族をも超えて、一つの家族が形成される。
それが世界の約束であるわけだが、私が今作において一番好きなのは、あの回転どこでもドアである。
押井守が今作の評論において、あれを素晴らしい発明だと言っていた。
つまりは、メタファーである。要は、あのドアは世のお父さんそのものの比喩である、と。
ハウルは、ソフィー、マルクル、フィン、荒地の魔女、カルシファー、カブという家族の中ではお父さんの役割を与えられている。
お父さんとは、常にどこかへ行って、そしてどこかへと消えてしまうものである。どこにいるのか、どこで何をしているのかわからない、そして、気が付くと、いつのまにか家に戻っている。何を考えているのかわからない。機嫌を損ねると怖そうだ。今日はやけに優しいぞ。
そのような存在である。
押井守が指摘するように、ハウルは沈鬱で疲れた表情で帰ってきたり、急に躁状態のようにハイテンションでソフィーに色々プレゼントしたりする。
そして、夜な夜などこか危険な場所に赴き、彼の本心は傷つき、涙を流したりする。
世のお父さん方(御母様方、すまない)は皆心当たりがあるはずだ。
お父さんは、様々な外圧、内圧と闘っている。会社に行けば、ままならないことも多く、上司と部下、客先と社内の板挟みである。一生懸命働いても、家では発言権がない、自尊心が満たされない。本当には、もっと優れているはずであった自分。
夜の街を出歩く。その時の自由。どうしようもない世間のニュース。虚無的な心になる。甘えたいのに、甘えられない。そうだ、明日は家族でピクニックに行こう、きっと楽しいぞ、と思いつきの家族サービス、それから、愛。
ハウルはイケメンを愛でる映画では断じてないし、ソフィーの魂が若返っていく話でもない。
どこでもドアを使って色々な場所へ赴くお父さんの本心を、ソフィーが見つける話なのである。
然し、ソフィーは恋人ではない。恋人という役割を与えられるが、物語の構造上は母親である。
『ハウルの動く城』にはいくつかのギョッとするシーンが登場する。それは、いつも美少年を狙う老醜の女性たちである。
荒れ地の魔女は、ハウルの心臓が欲しい、欲しいという。
サリマン先生は、ハウルに似せた美少年たちを侍らせて、権力を誇示する。
美少年を誑かそうとする女たちである。二人共、カリカチュアされているが、異常な存在で、ハウルを去勢しようとする。
ハウルはマザーコンプレックスに陥っている。荒地の魔女も、サリマン先生も、毒親であり、ハウルを支配しようとする。
彼女たちに対して、90歳の老婆に変えられたソフィーが立ち向かう。
ソフィーは老婆には変えられたものの、然し、生来の引っ込み思案な内気な性格から、段々と大胆になり、そしてだんだんと若返っていく。
ソフィーは始め、母よりも老いた姿で現れるが、然し、彼女はハウルを支配しようとしない。
『ハウルの動く城』はマザーコンプレックスに陥った男性が母のような女性を好きになるという話が基本軸である。だから、気持ち悪い話なのであるが、然し、母恋は世の男性の多くが持つ真理であり、初恋は母であり、そこから一人の女性(または男性)を愛するように精神が独立する。
ソフィーはまるで母のように甲斐甲斐しく、ハウルの世話を焼く。自らを母と名乗るわけだから、その決意は本物である。
しかし、ソフィーのその若返りも実際に若返っているのかわからない。ハウルには彼女が明らかに若々しく見えている。
その魂の若さ、魂の清らか故に、彼女は聖少女のごとく星の色の髪色をまとう。
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星と星の物語である。恋愛の原初、或いは少女漫画の少女たちが恋に落ちる時、星がまたたく。
『ハロルドとモード/少年は虹を渡る』という映画があるが、あれも、90歳くらいの老婆と自殺ごっこが趣味の少年の恋物語である。モードは、常にパワフルで、その過去には計り知れない哀しみが沈殿しているのに、そのエネルギーでハロルド魅了する。恋に落とす。
ソフィーはハウルの過去を見る。それは美しい少年の頃のハウルで、カルシファーを飲み込むその一時だが、そこでソフィーはハウルと邂逅する。二人は目が合い、ソフィーはハウルに名前を伝える。
『未来で待ってて。』
未来とはどこであろうか。
ハウルは、美しい青年で、然し、それ故に様々な害悪が蔓延り、汚濁の戦争に惑う世界において嫌なもの、虐殺を散々に見てきて、魔物へと成ろうとしていた。
お父さんは、みんな、同様である。魔物になるまいと、日々、必死に抗っている。そうして、お父さんは、幼い頃には、美しい少年だった。清らかな少年だったのである。
ソフィーが見たのは、ハウルの原風景である。そして、その欠片を彼女は魔物になったハウルにも見たのである。
今作は、友達に虐められて、タンスの下に隠れた少年の物語である。
会社にも家にも居場所がなく、家でしみじみと酒を飲む父親の物語である。
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『ハウルの動く城』において描かれるのは、恋愛というものの不思議、というよりも、描かれているのは男性というものの不思議である。お父さんというものの不思議である。そして、女性というものの不思議である。つまりは、恋愛における、不思議である。
父親に似た男性を好きになる、母親に似た女性を求めてしまう、その心。
この物語は、母恋の話であり、お父さんの生態系の話である。
母恋、というものは、谷崎潤一郎も『母を恋うる記』や『夢の浮橋』、『少将滋幹の母』に記している。