人の評価

よし、今日も書こうと思えた。これはすごいことだ

アセスメントは、どの世界にいても、どんなことをしていてもされるしする世界です。

僕の人生を振り返っても、基本的には評価されて育っていきました。
公文での初回のレベル・塾での志望校の決定の評価・合唱コンで誰が指揮者に相応しいかの評価・サッカー部でスタメンを選ぶときの評価・誰が留学に行くのに相応しいかの評価・誰が卒業式の言葉を言うのに相応しいかの評価。などなど。

皆さんも自分の評価され方、仕方を考えてみてください。

結構自分では不服な評価のされ方などを経験したことはあるのではないでしょうか?
自分のポテンシャルまで評価されたりして、自分の夢が少し遠くなった経験はないですか?

でもじゃあどうやって人のこと見る…

じゃあ、逆に自分が人のことを考える側になったらどうでしょうか?

多分だけど、現実的にOverestimateし過ぎずに人のことを評価しているのではないでしょうか。慈悲なし!みたいなね。

その人のやってきたこと、SNSでのコンテンツ、書いた記事とかで判断する。対話ではなく、面接(質疑応答)でその人のことをわかったみたいになります。

人のことがわかるって…

人の良さや人の魅力は「評価」と言った内容で人のことを見た瞬間に消えてしまうような印象を受けます。何気ない対話の中でその人の「人間」としての良さがわかると思うんです。相手のことをしっかりと考えながら話すと、いいところが見えてくる。そんなものだと思うんです。

極論を言うと人のことなんてわかるはずないと思います。

だって自分のこともわかってないから。

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何が重要なの?

人のことがわかることがいい事なんじゃなくて、人のことを「わかろうとする」ことが重要なんだと思います。

人のことをわかろうとするって言うのは、ある程度の情報や体験をもとに「こういう人!」って決めつけることではないです。これは評価になってしまいます。

その人のことを理解しようとすることが第一優先であり続けるって言う意味です。

理解しようとするって思った以上に難しいことで、自分とは考え方が違ったり価値観が違ったりある意味気づきが多い分野になります。多少理解のためのハードルが高くても、飲み込まなくてはなりません。

これまでの考え方なら「絶対におかしい」と豪語できたものでも、現代ではそれが「minorityへの差別だ!!!」みたいになっちゃいます。minorityに対して懐疑的なのではなく、それに対する周りの反応の敏感さに懐疑的ってことです。

また話がズレた。

だから人が言った考え方は、違った視点や価値観から見れば合理的だったり、正しいって言えるようになるんです。

これを、理解することは正直僕は難しいと思います。理解したふりならできるんですけど、本気で理解はできないです。

ただ、理解しようとすることだけはできます。しっかりと考え方、どのタイミングからそのような考え方になったのかなどを聞いていくんです。ターニングポイントがしっかりと名義できる人は何かしらのきっかけがあるってことです。そこをちゃんと聞くと、割としっかりと理解しできるようになると思います。

否定するのは考え方、人じゃない

理解したうえで、それに対して反対することもあると思います。ココで重要なのは「人間として否定はしない」ことです。NBAの世界でも、割とレポーターと選手の間って面白い関係で、レポーターがDomb Assな質問した時にKevin Durantは「I like you, but you gotta ask a better question」って言っていて。

I like youが最初に来るのいいな

って思ったんです。

「今の、僕のBlame(否定?責め?)は、君の質問に対して出会って、君にではないよ。」って言うのを体現してるんです。

僕もこれにはすごい気を付けています。

僕の場合

「それはちょっとバイアスかかっちゃってるかもね」ってよく言います。否定ではなく、その考えが出てくるまでのプロセスを確認します。もしそれが偏屈的なニュースからだったら「もう二個くらいニュース見ようか!」になりますし、知識の欠陥だったら「これ読んでみれば」になるし、解決策を提示します。助けになってるかはよくわからないけど。

一個前の話にもつながるけど、僕は「僕の考えはバイアスがかかってる」って言う考え方なので、自分の意見で対立をしようとは思わないです。不毛になりそうだから。

まとめ

結構殴り書きになっちゃいました、半分酔って、半分寝てるんで許して。
次は、「旅行が与えてくれるもの」について書こうと思います。

誰か旅行行こうね


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