秩父聖地説(江戸幕府にとって横瀬郷は関東鎮護の地?)
古来から伝わるという「秩父聖地説」というのがあった。
江戸時代1603年~1655年までの52年間、無検地があった。
→徳川家康が将軍だった頃。
各地で無検地だった地域はあったのだが、秩父は江戸幕府から(より以前からも)鉄砲を所持することを許されていた地域だったので、無検地がないというのは不自然なのだ。
江戸時代になってくると農民への課税負担が大きくなり、
一揆などが増えて混乱していく。
そのたび、財政難になると度々検地を行っていたが、
秩父はその一揆の治安維持にあたることもあった。
横瀬郷、大宮郷は関東の天領各地に入り、
徳川家康は江戸城を外城のように関東の要地にし、
全国主要の街道港湾を整備して関東県をなるものを固めていった。
検地によって面積を測定しそれに従って年貢を納め、上納させていたのだが、中世戦国時代の地侍を解散させて減少させたい思惑もあったようだ。
このように天下統一の基盤をたてるために行った検地が、
52年間もの長い間、横瀬、大宮郷、山田村など行われていない。
その理由として、5つがあげられる。
1、秩父は江戸から遠く峠を越えなければならないから、
外来者からみれば治安の程度が不明である。
利根川、荒川下流地域に人員を必要としており、江戸城本丸の整備が終わっていた頃なので、遠くまで検地をする必要がなかった。
2、後北条氏(北条氏)の検地が及ばず、
当時後北条氏は秩父に対して覇者なので権威が行使できず。
3、古来から聖地である秩父は、武甲山、三峰、両神山の三山が江戸城より方角が、乾にあたるので、「関東鎮護のため」に侵すべからず地としてみていた。(乾は強いもの、天、君主の象徴)
4、武器や武具に富み、信念堅く、北条氏も求めて鉢形城の主力とした。
あえて幕府も秩父に介入してまで、天下統一に禍をおこしたくないと考えた。
5、秩父は神社仏閣が集まる地なので、幕府も古来の伝統を重んじた。
家康は江戸城へ入る年から6年後の1590年、天領代官日下部丹波守に命じて、武甲山へ寄進品を連記し、天下泰平を祈る額を奉納している。
武甲山を意識していたならば、武甲山が富士山と
何らかの形で信仰が繋がっていたのだろうか。
家康は、富士山を不死の山と考え、
日光東照宮はその富士山の線上を意識して建てるよう考えていたという。
日光の謎はいろいろあるが、柱の99本(100の完全にはしない)、
北極星が見える位置。
遺言には「関八州の鎮守になる」と述べていたらしい。
また、妙見様を祀る秩父神社の再建は、徳川家康が命じたという。
北にある見返りフクロウの彫刻、つなぎの龍、日光とは真逆の、
見る・聞く・話す三猿の彫刻。
北のフクロウは南を向く→360度見渡す。
龍は繋いでおく。
三猿はすべてを見据える。
関八州という見晴らしのよい山が、吾野(飯能)にある。
江戸から秩父へ向かうルートにあたる峰々。
このあたりから、富士山、武甲山、二子山、両神山も見える。
天下泰平を目指す時、徳川家康にとって秩父が重要であったのだが、
そのことについては語られていない。
参照:横瀬町誌の「人と土」より