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【根古屋】大量の神々の石碑がある古御嶽城跡③根古屋の言い伝えとまとめ

根古屋の言い伝え集


左側にある小山が古御嶽城跡

・古御嶽神社に国心行者と佐野正雄の石碑あり。熱心な御嶽行者。

・鉢山指念仏講を行い当時の掛け軸を保存

・鷹をとった家。宇根まで他所をふまずじ行けた。

・将軍家の奥女中をしていた人のボタンの花手芸品が残っている。

・昔、鉢形という家が火事になりその時屋根に白装束のお天狗様をかいて火をまぬがれた。

・けんむし坂というのがある。根古屋城渡辺監物の住んでいた御屋敷の下にあったのでケンモツがケンムシに。
または、見張り番がいつも剣を持っていたため。

・今の三区の戸数が少なく、23戸くらいの時代に牛頭大王さまのお日待を始め、今でも毎年7月21日、宿は廻り番で土用の暑い日に昔話をして楽しむ。

・守屋家は、北条氏邦より武甲山御嶽社の修復を命じられ横瀬に移りすみ神主となる。

・鉢形城落城の時、落人、木の間の奥に住む。

・武田の軍勢が対岸上にある野栗権現様の祠に火を放ち軍に
勝てば立派な祠を建立するからと戦勝祈願し武光橋より柳生橋に至る間、
早馬をとばして走りさったので早道場の地名となる。

また根古屋は小泉の姓が一番多い。抱きおもだかの家紋は勝ち草といい、
武具の紋様に使われる武家が多い。

鎌倉~戦国時代よりもっと歴史をさかのぼると別の世界観がみえてくると思う。この城跡に残した意味は、まだまだ調査しないとみえてきません。

石灰工場のために枯渇した森になってしまって残念な箇所もあるが信仰はまだ残っている。
やはり、ここが聖地とされたのは泉と川、沢のある森があったためだ。
桂淵という地名があり、「桂の前」という女性が入水をとげたという伝説もある。

古御嶽城跡の下にある森には、修験者たちの弔いのような地。

ぽっかり大きな穴。

かつてはここに川が流れていたと思われる水脈か?水路のようだ。
おそらくセメント開発で地下水が枯渇したのだろう。

そのことを考えると、武甲山が元は嶽山といわれたというが、御嶽を「うたき」とよぶ沖縄に伝わる巫を彷彿する。

雨乞いの岩や龍神、秩父夜祭。
アニミズムから古代神話~武士集団によって形成されたことが現在の信仰の形になったかもしれない。

産泰大神

人数も18人と刻まれている。
なぜそんなに石碑をおく必要があったのかは謎。

勝手にまとめ

仲間たちと集ってまとめたこと。

今なぜ、この城跡に注目しざる得ないかは、感じ方は人それぞれにしても、
良くも悪くも現実に「有る」ものを、無視できない人間の性が
「生きる」ことと同じであって、それを見つけた時に始めて見つけられた
者(もの)は、息を吹き返すという命の構図。

それも人間の欲求のひとつであると感じる。

それがワクワクするのか?
触れたくないのか?
面白いか?
知りたくなる好奇心か?
嫌な感じがするか?

その力を与えている存在は何か?
というと、やはり武甲山であるという結論に達する。

この城跡についてどう感じたか?
いろんな意見があがりました。

1、100年くらい前とかに、武甲山の未来が霊的にみえた人たちが、
その供養のために石碑をおいたとか。

2、大事なところが他にある。三角山を守るために武甲山が犠牲になった。

3、城跡は無念だった気がする。石碑を置きたくはないが、
他の神々がたくさんあると自分たちの産土神もそこへ置かないと忘れられてしまうような、
そんな仕方ない気で置かれたところも感じられる。

4、自分の霊統という魂の親子(血のつながりはないが魂のつながりがある系譜)のつながりに無意識に動かされ、その地に導かれる。

城跡はそのような場所であり、代々その系譜を受け継ぎ、次の世代につなげるために、いまこの時にこの城跡がクローズアップされた気がする。

5、何かの構図、祈祷のような配置でおかれている。

6、城は神社とあまり区別していなかったから、立地条件に城を建てることはある。

ある石碑の裏に自分の先祖の名前があった!という発見もあったようで、
先祖のつながりは無視できない生きるために必要なひとつの契約。

なので、その地へ導かれた結果、先祖が記した痕跡を次世代が発見するという行為が、「みたま」というむかしから日本の言葉で使われた魂のつながりになる。それは延々と続くもの。

石碑の向き

数ある石碑の中で、向いている位置が異なる石碑があることが気になった。例えば、中心と思われる三創世神は西側秩父市の方向に向かっていて、他の石碑もほぼ西。

それに向き合う形で聖徳太子が東の三角山の方を向いている。
北側を向くのは、八坂神社、少那彦名命、稲荷神社・琴平神社の石碑。

その中で、南の武甲山に向かっている石碑がひとつだけあった。
それが金山彦命だった。
この石碑は、中心の三創世神の石碑の後ろに大日尊とともに置かれている。

順番では、上の方が一番位が高いわけだから、御嶽教の三神よりも上に金山彦がいるという事。
なので、この神が一番先におかれたと考えると御嶽教も気を使って三神を
手前に金山彦より手前においたかもしれない、でもすごい目立つけど・・・。

なので、この金山彦神が地主神であると思われる?

金山彦神は、和銅がとれた黒谷の聖神社にも祀られて、鉱山の神として知られる。

埼玉県児玉にある金鑽(かなさな)神社。神体が御諸山(みもろ山:もしくは御室山)
すぐ連なって御嶽山があり、二つの山の真ん中に鏡岩がある鉄岩で、
ご神体を山とする神奈備山で古代祭祀の面影があるとされている。
古くは金山彦をお祀りしていた。

鏡岩

また、金鑽の語源は砂鉄と考えられ、御嶽山から鉄が産出されたといわれている。しかし御嶽山より先にあった山(信仰していた山)がダイジン山ではないか?とも。

ダイジン山の登り口には「三笠山神社」や八海山神社などの石碑があり、
山頂の「御嶽山神社」と合わせて計7つの石碑があった。

ということで、御嶽講の特徴である数々の神々の石碑群は、全国をみても、ここだけ。と言っても過言ではないほど、武甲山の影に大きく潜んでいた。

根古屋の夕日

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