
天王祭の花火 焔硝・火薬の製造を専業とする者たちの祭
宇根天王祭は、毎年春に行われるが、横瀬町誌によると6月に行われていたそうだ。その天王祭について、1709年、こんなことがあった。
(横瀬町誌 人と土より)
名主勘右衛門より願文 御陣屋あて(訳文)
「宇根天王祭は、例年六月二十日に行われ、去々年までは、花火がありましたが、御改革に当たり、去年花火のことについて御伺いましたが、
花火は御改革の趣旨に背くことであるから、相成るずと仰せ付けられ止めることにいたしました。
ところが、去年、村内に疫病が流行したしましたのは、花火を止め神慮に背いた故と考えられます。依って、今年は少々の立花火程度の花火をいたし度いと存じます、御内々に御代官様へ御願い申し上げて戴きたい。
右の様に勘右衛門が申すにより、この願の筋をつぶさに申し上げたところ、
代官様より高く上がる花火は決して上げてはならないが、少々の立花火位いの花火なら許すということではないが、上げさせてもよいという話を伺いました。
その際、御陣屋の足軽を差向けるから心得違いのないようにすること。
若し背向くような事があれば、御咎を申しつけるようになる。
その様に心得るようにと、勘右衛門へ申し渡す。
割役 松本宗左衛門」

名主勘右衛門は、花火は文政の改革の趣旨に背くからとの理由で差し留めになったにも関わらず、たとえ立花火でもやりたいと代官宛てに申し出でていた。
その理由は、昨年、花火を止めたために疫病(赤痢らしい)が流行したからというのだが、本当は、(根古屋中郷武甲山寄り)の宇根では、焔硝製造技術が伝承されていたため、農閑期には、焔硝並びに火薬の製造を専業とする者もあったから、製品の良否の試し(試験)をするために花火という手段が必要だったと考えられる。

結局、高くあげる花火は禁止だが、立花火ならOKということになった。
ただし、その際は足軽を差し向けるから心得違いのないように・・・という条件つき。
天王祭りの花火の起源は、焔硝の質を試すために行われた貴重な資料。
天王様は、確か正面にあった小山から移されたと聞いた。奥宇根は、縄文遺跡や化石も見つかる沢合の集落で、武甲山までの登山コースもあった。
今は登山道が崩れて登れない。
中学生の時に登ったのだが、生川登山口よりは比較的早く山頂につくコースだったと思う。

火薬を使うことになったのは、武田信玄が上杉軍を防ぐために発破したり
(特に根古屋、宇根地区に集中しているというのは根古屋城があったため)
鉄砲などを使っていた時代にあったからと思われるが、その技術は、どこかで学ばれて秩父に入ったという。
いざとなると秩父人は一致団結するのだが、あまり外との関わりを持とうとしない風土にある。
秩父、特に横瀬町は平家落人も多いうえに元は武士や貴族出身者もいたと思われ、長野県、新潟県、山梨県、近畿地方からもやってきている。
