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【根古屋】大量の神々の石碑がある古御嶽城跡①
10年くらい前になると思う。横瀬町の東、根古屋に古御嶽城跡がある。
古御嶽山頂に城があった場所で、横瀬町指定史跡。
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石碑がたくさんあるという情報をみつけ、仲間たちと探訪したことがあった。御嶽信仰について詳しいことはわからないが、これだけ多くの石碑を置くのは珍しい。
同じような所は、愛知県豊田市の白鳥山というところに御嶽信仰が
たくさんの石碑が巨石の上にたっているのをみたことがある。
ここに城があったのは、妻坂峠を越えてやってくる敵に備えたとしているが、尾根や鞍部の急登は当時の人たちもかなり大変だったと思う。
まずは、武甲山縁起。
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此武甲山の御嶽に始て祭りたまふは、人皇30代天下しろしめす欽明天皇の勅命なり。続日本後記日本総国風土記二載するところなり。
既に当山の鐘は人皇52代嵯峨天皇御宇弘仁年中新に鋳懸貞享年中に鋳直すといえとも銘は猶故のごとし。
抑蔵王大権現は継體天皇大伴臣挟手彦臣を以て三韓を平治したまふ軍旅の太神なれば、朝廷守○大樹武軍の守護神なり。
天皇自ら鍬を携え、農業を教え皇后手ずから桑を採り、蚕を養ひ宮女はみな麻をあみ綿をひきて賎の女の営みをすすめまして百穀豊○して細布太布にいたるまでみせに充満て国豊に、民のかまどの煙いやます神桓の恵みぞ高き武蔵根や。
災害などがあった場合、蔵をあけて救済し援助していた。その豊かな村が横瀬にあり、江戸時代にも幕府から村全体で銃を持つことを許され、管理されていた歴史がある。
農民一揆があった時は銃をもたせ、銃の使い方なども指導されていたという。それは武士から農民になった人たちが多く根古屋地区に移り住んでいるため。
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城跡の山頂部は100メートルの平坦部、
幅は10メートルと狭いが展望は北西側が木々の合間からよく見える。
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さて城についての詳細は割愛させて頂き、
興味深いのは城跡というのに数多くの石碑が置かれていること。
名前の通り御嶽講の信仰深い人たちの聖地であることは確かだが、
それ以外の信仰も含まれている。
城に石碑を置くなら根古屋城でもよいのに、なぜ古御嶽城に集中してあるのか?
古くは小御嶽とも書いたが、武甲山は指呼の間にあり、武甲山の御嶽に対する小さい御嶽の意ではなかろうか。
北面は要害沢の谷、東は三角山(大机)に通じる尾根に築城された。
戦国時代を経て農民住民の生活も安定するなかで、生活拠点を基に古御嶽神社に祀り古御嶽城跡を信仰の場として現代に継承されたものと推測される。
引用:「秩父の城郭の在地領主と寺院と農民の動向」今井武蔵氏
城跡へ行くには石灰工場のすぐ脇から鉄塔まで登り尾根を歩くか、
古御嶽神社の入口手前から登って尾根まで歩くのが良い。
整備されていないので道がわかりにくい。
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ここで足をすべらせたら大けがをするくらい危険!
一番の難関は、強大な岩がみえて石が積まれている崖だ…
もろい石が多いので手にかけるとコロコロ落ちてしまいそうなほど、
大変な場所を超えないと城の中心まで行けない・・・
高所恐怖症の人はちょっと無理かも。
でもそんな大変な崖に一番にお目にかかる石碑がある。
(すべての石碑の写真は撮れていません、一部紹介)
①「大江権現」・・・かつては女人禁制だったという。木曽御嶽信仰。
石碑は、墓石と違い銘文を刻み建てることに意味がある。
古代文明のマヤでは石に起源や伝説を刻み、権力を誇示したり権威の象徴として崇めてきた。ここの石碑は割れてしまってそのままのもあれば、
新しくなっているものもあり手入れがまちまち。
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他に尾根道には②大日大聖不動明王あり。
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岩場を登りきると、③養蚕大神・・・絹のルート。
この麓は城沢谷の井戸があり根古屋絹発祥地にある。
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他に尾根道には、④産泰大神(女人講)別のところにもう一つある。・・・富士講とフチアイヌの関係。
ここに住んでいた阿佐美氏が武甲山の水質の良さに目をつけて元祖秩父絹がうまれる。
⑤阿夫利神社・・・雨乞いの龍神。(神奈川県大山)
⑥大天狗・小天狗、
⑦制多迦童子・・・不動明王の従者八大童子の8番目。
なぜ8番目のみここに?古御嶽神社には、清浄比丘童子、こんがら童子以外の石碑はそろっている。
古御嶽神社の産泰神社の大きな石碑はコノハナサクヤヒメ。
女人講に関係していると思う。
さて、こんな風に大量に石碑をおいているのは・・・私たちはこれらを「神々の墓場」と呼んでいる。
パート2に続く