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武甲山の雨乞い岩

■武甲山の雨乞い岩の歌
♪「武甲山の大前に 雨だんべえ龍王なあ
長の日照りにそのために
五穀の種子も尽きる故
武甲山の神々へ氏子が集まり御願ひ」♪

雨乞い岩が生まれた背景には、ジジババ石や長者屋敷物語など、
飢饉により襲われた村の苦悩があった。

水について知るための2つの特徴は、
「信仰としての祈り」と「祈りの道具」である。

信仰としての秩父夜祭、祈りの道具としての雨乞い儀式。
古来、大地の治療法として水は音に共鳴すると考えられてきた。
それを知る術が、まだ、残されているだろうか・・・

享保2年(1717年)横瀬郷は、それまでなかったような
日照りと干ばつに見舞われた。

横瀬郷では、幕府(忍藩)への嘆願書を2回提出している。
1717年と翌年の1718年。
享保の大飢饉の前兆と言われ1732年(享保17年)に
九州地方で大飢饉が発生。(害虫の被害など)
そこで作物がとれなくなり、飢饉が全国的に勃発した。

※現代語訳で(少し編集)

幕府への嘆願書(2度目)

「この願い 誠に失礼いたします。
しかし是非とも ご一読 あえてお願い致します。

この年、わが横瀬郷いつになく 日照り続きで作物は
そのほとんどが枯れました。

枯れた葉物はその後に おそ蒔き野菜 植えました。
頼みの麦もいつになく 実を結ものごくわずか。
稗と粟など皆同じ。
秋の穀物 どの家も収穫空し 郷の秋。
残る望みは 秋大根。

それとて種をまく家は それほど多く ありませぬ。
稲田はどこも 干からびて 
茶色一面背の低い 藁の野原と変わりなし。

頼みの雨は神頼み。
度重なる雨乞い 徒労に帰して恨めしき。
手入れ空しく朽ち果てた 名前ばかりの畑に立ち
郷人悲惨 横瀬郷。

この窮状を 切り抜ける 覚悟の強気の郷人は
共に団結望みあり。
今この苦境 乗り越えて 望みを明日につなげたく
お上の御慈悲 今一度 ぜひ 賜われば 有難し。」

武甲山は岩が多く、ひとつひとつに名前がついていた。

新編武蔵風土記

「雨乞い祭りなせる所にて必ずその験ありと云ふ。
又、屏風岩、天狗岩等あり。
それにより西に三神岩、幕岩あり。いずれも奇岩なり」

※『新編武蔵風土記』

今があるのは、あの山のおかげだ。

南をむけば、太陽ではなく、武甲山がある。

古嶽城跡 少名彦命の石碑と武甲山

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