武甲山のヤマトタケルと謎の神代文字
武甲山の山名由来は『武州秩父郡武甲山蔵王権現記』によると、
「夫れより相模国に至り又、武蔵を巡りて太子自ら此嶽に登る。
~且つ山の形勢を視るにぎぎとして威厳有もあたかも雄武に以て
甲冑を帯ぶるの形勢なり及って武甲山と名づく。」
ヤマトタケルが甲を置いたので武甲山と名付けたことは、
子どもの頃から山名由来でよく知っていた。
ヤマトタケルは、大碓命(おおうすのみこと)、小碓命(おうすのみこと)とよび、双子とされる事もある?
※大小を兼ねる名(兄弟など)伝説に多い。
そのヤマトタケルが武具を置いた磐に、こんな話があった。
『武甲山縁起』
「いまだに唐の文字なき折からなれば、
巌の面に御手鉾を以て神代の文字をきりつけたまひてあり」
※唐文字・・・漢字のこと
と、こんな風な文字が『新編武蔵風土記』にのっていた。
ヤマトタケルが甲を置いたイワクラは、神代文字があった苔むす岩場(それほど古い意味)と伝えているものであり、そのため、ここで御食したところだから「飯盛」と言ったとある。
飯盛は、その名の通り、亡くなった霊をいざなう「もがり」
の儀式と関連するのでは?
飯盛は、武甲山山頂より西側少し下にあったが(影森側)
石灰開発のため、完全に失われた。
同じヤマトタケルの伝説は青海市にもあり、
ヤマトタケルが岩蔵温泉で身を清め、天神地祗を御嶽神社に祀り岩をたたみあげた蔵へ鎧1領を納めたので、岩蔵という名がついたという。
武甲山山頂には、御嶽神社が山頂に祀られているが、
青梅市の武蔵御嶽神社の奥の院は「甲籠山」という名の山があり、
甲冑を納めた伝説になっている。
これらの似通ったヤマトタケルと甲の伝説は、洞窟などに甲冑などを治めていたことがあったと言われ(中世の武将)、それを「イワクラ信仰」にし、武甲山にヤマトタケルが甲を置いたことにしたい為に伝説にした、との見解があった。
由来にある蔵王権現記には、ヤマトタケルが「東夷(あずまえびす)」を
平らげたことになっているため、武甲山に東夷がいたことを示している。
東夷とは、東方の弓に長けている好戦的な民族のこと。
武甲山だけではなく、宝登山、三峰山、両神山と秩父連山全体に広がっている。かつては、蔵王権現と熊野だったため。
例えば、畠山重忠の伝説があるように比企郡の日置部(古代太陽信仰)
※比企=ひき、の由来は日置部(ひおきべ)による。
また、紀州和歌山のムロ郡にも「日置川」がある。
そのような末裔の歴史から武甲山に模した熊野修験あるいは、吉野派修験がおり、必然と武甲山が太陽信仰の神奈備になるだろう。
その聖山を、武士の勲章とすることで、名を武甲山にした丹党一族がいたと考えれば、龍蛇の神は武甲山に降り、水をもたらし、古くの祭祀と関わりをもつ太陽信仰(朝鮮系太陽信仰)の歴史を統合した深い歴史が眠っているかもしれない。
ちなみに、甲籠山は「こうら」と読み「高良山」である。
こうら=亀の甲羅とも通じ、高良山は、九州の久米市に同じ山名がある。
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