霊山の武甲山「秩父妙見の農耕儀礼」
「すべては水である。
水こそ万物の始原(アルケーarchē)である」
と言ったのは、タレスという哲学者。
水から空気、火、あらゆる万物を生み出したギリシャ神話がうまれる。
この秩父が豊かになったおかげが、武甲山の良質な石灰。
あまり作物が育たない土地で、その貧しさゆえ、桑畑を植えて養蚕がさかんになり、絹織物を作り、秩父銘仙は今でも続いている。
武甲山は「武光山」と昔はいわれ、妙見山ともよばれていた。
毎年、12月3日に行われる秩父夜祭りでは、秩父神社のご神体である
武甲山に座す男神と、秩父神社(妙見)に座す女神が年に一度会う日とされるが、農耕神と関係し、かなり古い時代から続いているお祭り。
なぜ、武甲山は秩父神社のご神体になったのか。
かつては、名前がない頃「嶽山(だけやま)」とよばれ、
豊穣の山の美称としてつけられていたことがある。
4月と10月の水分祭(みくまりさい)について
秩父神社の神門と鳥居の間にしめ縄で田代を作り、
神部が神歌を歌いながら田植えの所作を行い、豊穣の祈願をするお祭り。
今宮神社にて竜神祭を斎行した後水幣を奉持し
再び秩父神社へ戻り、拝殿に於いて配膳の儀が行われる。
稲作が広まったことで、このような神事が行われたと考えられ、
農耕の神=お田植、水分神=武甲山という図式になるが、
古来の秩父は、焼き畑が主流だった。
岩盤など石が非常に多い盆地なので、稲作は不向きだったのを焼畑から稲作へ、文化・宗教の変化があった転換期に、武蔵国の建国が始まる。
→関東平野。
1709年に書かれた記録がある。
1年を通して当時の農民の生活があり、妙見宮の神事、
祭礼が四季それぞれに行われていたことがわかる。
妙見宮の祭にあたっては、郡中の人々が10日以上も仕事を忌籠りを
したことが記録されており、祭は75人の神職が集まったと伝わる。
特に、4月と10月に武甲山祭礼が妙見宮とは別にあり、
武甲山に登ることが許されたのは、
この二季に限られたという記録が残されている。
その4月、10月の時期とは、季節の変わり目であり、
二季の土用に武甲山祭礼が配置されていた。
お田植祭にするために、龍神=水にしていることがある。
その亀は壷で水を蓄えるもの。
それが真名井と言われた泉、「大蛇窪」説。
この水分祭にはいろんな意味があり、生命に深く関係する人類の泉の歴史といえるもの。
古代の人たちは、「水分の循環」を武蔵の大地にあることを、
私たちに伝えたかったのだろう。