武甲山伝説「山姥の歯」
松藤絶えろ伝説
昔、武甲山に山姥が住んでいた。
おそろしい神通力を持ち、里人を困らせていた。
ある日、村を通りかかった行基が、この話を聞き、
武甲山の頂上で17日間の祈祷をした。
すると、山姥は神通力を失い、行基の前に姿を現した。
行基は山姥をとらえ、松の木に、藤つるでしばりつけると、
山姥は前非を悔い、自分の歯を抜いて行基に渡した。
しかしあまりのくやしさに「松藤絶えろ」とどなったので、それから、
武甲山には松と藤が生えなくなった。
※この伝説は、他に山姥を畠山重忠としている伝説もある。
山姥の歯が残る?札所と行基
この伝説には終わりがなく、山姥が渡した歯が、札所6番卜雲寺・萩の堂(横瀬町)にあるとの言い伝え。
(おそらく、動物の骨や歯であると思うが。)
行基が横瀬町で巡回していた時の伝説らしく、一人でに動いた剣により山姥を退治できたので、人々はこの力に仏法を信頼し、仏像を懇願する事になる。
それに対して行基は、影向か滝(ようごうたき)に下り、滝の上に聖観音像が影向した姿を彫刻した。
その聖観音像は、武甲山蔵王権現社に安置されていたが、
現在の荻野堂の本尊と伝わる。
(この様子は、萩野堂絵巻にまとめられている)
ある日、一首の和歌を詠う人がいて、その声の場所をみると一株の萩の下に詠歌の短冊があった。
観音の霊感となり、萩の堂を建立し繁栄したという。
行基の父の出身地は、越国で和泉に移住したといわれ、百済国の渡来系王仁の子孫ともされるため、行基は渡来人の系譜をもつ事になる。
※王仁(わに)和邇・和珥とも書く。
応神天皇の時代に辰孫王と共に百済から日本に渡来した百済人。
行基は、全国を行脚しながら仏法を伝えた人だが、
東大寺大仏建立に金が必要で、宮城県涌谷町に金を探しに行った百済人らと関わりをもつ伝説が多く、東北各地に残されている。
秩父には金がとれた痕跡はあまりないが、大血川付近では砂金がとれたそうだ。
ちなみに、松=松平家、藤=藤原家説もある。