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第50回 復元ポイント「紀元前485年」の仏教② 「悟り」に導く修行法

 釈尊が、紀元前485年の入滅から逆算して45年前の、紀元前530年に菩提樹の下で「悟り」を開いたことは、仏教文献に残る史実です。

 しかし、どういう方法で「悟り」を開き、証得した「悟り」の内容はどうであったのか、一番肝心な点は、不思議なことに未だに明らかになっていないのです。

 仏教が誕生する切っ掛けになった一番大事なポイントなのですが、真相は曖昧にされたまま今日に至っています。

 何故そうなっているのか?

 釈尊本人は、口承でのみ教えを弟子達に伝授し、著作を一切残していないので、真相は闇の中です。

 しかし、このシリーズで何度も言及しているように、残された弟子達が「法隆寺貝葉写本」として現在に残されているサンスクリット文献の文意を間違って伝承してしまったために、「悟り」に関する真理・真相が闇の中になってしまっているのではないか、と私は見ています。

 「法隆寺貝葉写本」は、サンスクリット語で記された仏教文献ですが、古くはパーリ語、さらに古くは古代マガダ語で書かれていたか口承されていたのではないかと推測される、釈尊の直説を記録した重要文書です。(詳細は、本シリーズ第1回をご覧下さい。)

 この「法隆寺貝葉写本」は、釈尊の「悟り」に密接に関係する事項を記した文書なのですが、どこでどう間違ったのか、何百年も後の大乗仏教の経典である「般若経」を簡潔に要約したものと勘違いされてしまい、「般若波羅蜜多心経」(略称 般若心経)という名称で後世に伝承されています。

 釈尊の「悟り」に関する真相は明確に文書の形で残されていたのに、誤伝承・誤解・誤訳に起因する曲解のために、そうと気付かれないまま今日に至っているのが実状です。

 その結果、修行の困難さは別として、本来は簡明な教えであった釈尊仏教が、誰にも理解できない、哲学的で複雑な教えに変容してしまいました。

 釈尊が弟子達に繰り返し説いたことは、「悟り」は言葉で伝授できるものではない、自ら修行し「意識・魂の体外離脱」を実体験して初めて証得することができる、という真理でした。

 その修行の具体像が、「法隆寺貝葉写本」の主題となっている、プラジュニャーパーラミタ(漢訳で般若波羅蜜多)と名付けられた瞑想修行法なのです。

 私は、拙著「般若心経VSサンスクリット原文」の中で、「プラジュニャーパーラミタ」を、サンスクリット原文の意味を勘案して「到彼岸瞑想行」と現代日本語訳しています。
 瞑想という手段により、ニルヴァーナ(=パーラ=彼岸)に到る修行法という意味です。
 釈尊の「悟り」を探求する上で、最も重要な単語です。

 「到彼岸瞑想行」は、肉体から分離・離脱させた人間の意識(魂)を、ニルヴァーナ(漢訳で涅槃)という名称の異世界(始原世界)へ送り出す修行法です。

 事故や病気で瀕死の状態に陥った時に体験される「臨死体験」や、かつてヒッピー文化で一世を風靡(ふうび)した「トリップ体験」と同じような「神秘体験」ではないかと思います。

 「到彼岸瞑想行」の実践・成就なしには「悟り」は証得できないと、釈尊は、繰り返し繰り返し弟子達に伝え、「修行を怠るな」と亡くなる直前まで説いています。

 これほど口を酸っぱくして言っていたはずなのに、釈尊の入滅後、何故か、「到彼岸瞑想行」の実践・成就は忘れ去られてしまったのではないかという感があります。
 残された言葉のみを解釈・伝承するほうに、弟子達は力を注いでしまったのです。

 もし弟子達が「到彼岸瞑想行」に挑戦し成就していたら、釈尊入滅後、部派と称される諸宗派が20近くも分裂派生するような事態にはならなかったのではないかと思えるのです。

 釈尊の成道は「到彼岸瞑想行」の実践・成就によりもたらされ、そこで証得された世界の実相・人間の実相・縁起の実相が、「真理の教え=釈尊仏教」として後世に残されました。

 「到彼岸瞑想行」の実態はまだはっきりとは分かっていませんが、簡単に実践できるものではなく、自らが仏陀となることを目指す出家修行者のみを対象とした、成仏指向の厳しい修行であることは明らかです。

 出家修行者に対しては、親子・夫婦・友達等全ての絆を断ち、唯一人樹下に坐したり洞窟に籠ったりして修行することが義務付けられていることを持って瞑すべきです。


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