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友達に会うと「友達と私どちらが幸せか?」と考えてしまう
27歳ごろからだろうか。
同性の友達に会うと、自分を着飾るようになってしまった。
それまで友達と自分どちらの人生のほうが幸せかなんて考えたこともなかったのだが(本当に)、「彼氏がいるか・いないか」「結婚しているか・いないか」「パートナーはどんな人か」「持ち家か・賃貸か」「住んでいる街はどこか」「仕事は」「年収は」「見た目は」「持っているものは」「趣味の充実度は」「友達の数は」…そんな尺度で友達と自分を比べるようになってしまった。
そして厄介なのが、その尺度が自分の中から生まれたものではなく、世間からもらってきたものだということだ。
友達と比べるようになったというのはつまり、たとえば、友達とランチしたときに、「幸せそうな人生を過ごしているな」と思われたいと思うようになった。自分が選んできたもの、得られたものを羨ましがられたい。大げさに言えば、久しぶりに会う友達との近況報告は自分の人生の幸福度審査を受けるようなものと捉えるようになった。
だからたとえば、友達と話す中で、昔なら愚痴も悩み事も100%本音で話していたのが、ある程度のところで止めるようになった。言い過ぎてしまって、「なんかこの子の人生はあんまり楽しくなさそうだな」と思われるのが嫌なのだ。
家の写真を見せてと言われたときも、昔なら笑いのネタになるような写真(たとえば…お風呂の水栓が古すぎるタイプだとか)を見せていたのを、小洒落た椅子を置いたリビングとかを見せるようになってしまった。
ほかにも、お洒落なカフェで普段から過ごしている自分をさり気なく演出してみせたり、友達が知らない知識をひけらかしてみたり、ワイドショーでやっているニュースをわかっている風に解説したり…そういう「カッコつけ」もやるようになってしまった。そして、わかっているのだが、そういうのが一番ダサイ。愚痴もカッコ悪いところも失敗談も全力でぶつけるくらいのほうが人は魅力的に見えるということを知っている。
そして、友達のうち何人かもそうなってきた。私がなったから友達もなったのか、友達がそうなったから影響を受けて私が変わったのか、どちらが先かはわからない。昔ならカッコ悪いところまで見せてくれていた友達が、「あまりひけらかして人に自分の選択を否定されたくない」「不幸とは思われたくない」「この子より自分のほうが幸せでありたい」という本音をチラチラ見せるようになった。
「最近は何してたの?」「旦那さんは元気?」「仕事はどう?」——そんな日常会話のひとつひとつで、昔にはなかったような緊張感が走り、言葉を選びながら話す友達を見ていると、遠い存在になってしまったなと悲しくなる。
また、それぞれが家庭を持つようになったせいで、「自分の問題は自分の家庭内で解決するものだよね」という認識が強くなったなと思う。昔ならお互いの問題を自分のことのように考え一緒に悩んでいたのが、「そこまで私なんかに踏み込んで欲しくないだろうな」「友達は私とではなく家庭の中で解決するだろうな」と感じてしまう。私の役割は一緒に悩んであげることではなく、「その悩み、別の視点から見ると幸せなことだよ」「なんだかんだで幸せそうだね」と言ってあげるだけのことで、それ以上は求められていないと思うようになった。
みんな自分の人生を肯定されたい?
学生の頃は大体友達みんなが同じことをしていたのが、就職して何年も経つと、それぞれまったく違う人生を過ごしていて、それぞれが大切にしているものも違ってくる。昔は話が合っていたはずの友達の考えに共感できなくなり、選んでいるものや欲しいと思っているものが違ってくると、自分の人生に自信がなくなり、他人に「幸せそうだね」と認めてもらいたくなるのだと思う。そして、幸せそうと思われたいとき、手っ取り早いのが、みんなが欲しいものを手に入れることだ。
たとえば、友達との「人生の幸福度審査」で、数ある幸せの尺度の中で最も話題になりやすいのが、彼氏・結婚・子どもだ。友達と会ったときにこれが話題にのぼらないことはない。これが話題にあがると「お、本題が来た」みたいな空気が流れてみんな真剣になる気がする。自分も無意識にその尺度で友達の人生の幸福度を見ているし、自分もその尺度で判断されているのがわかる。
彼氏がいない子は彼氏が欲しいという話をするし、彼氏がいる子は、彼氏と上手くいっているか・いないかが一番の悩みだし、結婚して子どもが早く欲しいと言う。
彼氏がいない女の子が「彼氏とかは別にいらないかな」と言っても負け惜しみになってしまうし、彼氏と同棲していてなかなか結婚しない女の子が「結婚っていう形にはこだわらないんだよね」と言っても、結婚してもらえない女の子の強がりのように聞こえてしまう。それが本当に、心の底からの本音であってもだ。そのくらい、「彼氏・結婚・子どもがあると幸せ」という尺度は強く女の子の間に浸透していると思う。
ただ私はそんな女子会の後に毎回モヤモヤしてしまうのだ。本当にみんながみんな同じように彼氏・結婚・子どもを欲しがっているのか? 人間にとっての幸せがそれだけなわけはない。そんなに人生は限定的で、画一的で、しょーもないものなのか?
本当は人生の喜びというのは、みんなで同じ尺度を共有できるようなちっぽけなものではないはずだ。幸せとはこれだという価値観は星の数ほどあるべきだし、実際は存在すると思う。
マツコ・デラックスさんがテレビ番組で言っていた。
『結婚』『出産』『お金』『美』。
それを手にしたかどうかっていうのが、幸せかどうかの判断になってるっていうのが、「違うよね?」って思いながらも、「それしかねぇんだよな」って思うの。
要は、万人が共通認識できることってそれしかないじゃん。
自分が幸福かどうかっていうのは、他者にゆだねているところがすごく大きい気がしていて。
彼氏・結婚・子どもを女の子が必死に欲しがるのは、本当にそれが欲しいからなのだろうか? それとも、それ以外の幸せでは万人に幸せそうなことをアピールできないから、無意識にそれを求めているだけなのだろうか。
考えてみたのだが、おそらくどちらもあると思う。特に、「彼氏・結婚」は共通の尺度とは言え、恋人との関係や結婚生活の種類、喜び、意味はそれぞれまったく違うものになる。だから実際「彼氏・結婚」を求めるというところは共通していても、個人が求める「彼氏・結婚」の中身は違っているのだろう。自分が思い描く「彼氏・結婚」が欲しいという感情と、それを得てみんなに幸せそうと思われたいという感情、どちらも持ち合わせているのではないだろうか。
それに、女子会での彼氏・結婚・子どもトークはエンタメとして最適だ。だれとやってもそれなりに盛り上がるし、自分がその尺度で、そこにいるメンバーの中で何番目に幸せかというのは女の子全員の懸念事項なのだろう。
自分だけの幸せの尺度は手に入れられるか
人と話すときは幸せそうと思われたい。思われるためには共通の尺度のことを話すのが一番だ。だから私も友達も、自然とそれを話題にあげたり、カッコつけたりしてしまうのだと思う。アラサーというのはそういう時期なのかもしれない。私もそういう自分の未熟さを認め、そんな時期を早く通り過ぎたいと思う。
共通の尺度ではない自分だけの幸せを持つことは可能なのか? 今はまだわからないが、もし持つことができれば、周りにも持っている人が増える気がする。自分の知らない幸せの尺度を語り合えるなんて、そんな女子会楽しすぎやしないだろうか? 早くしたい。早く、女子会でテーマにあがったことがないような人生の喜びを知りたいし、その喜びに向かって生き始めたい。
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本書は、文学者の父・池澤夏樹と声優、エッセイストの娘・池澤春菜のふたりが、「読書のよろこび」を語りつくした対話集です。
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ガッと一気に読んで、共感したところに付箋を数十本貼って、読みたい本が9冊新たに見つかった。