客鳥(まれどり)
山城国葛野の奥に男は住んでいた。家柄もあって都にいたころはそこそこの役職についていたのだがどうにも折が合わぬ。周りの者はまだまだ若い、想う人でもおれば励む気にもなろう、といらぬ世話を焼こうとする。人の世は何事も己がままにはならぬ。かといって出家するほどの思いもない。男は寺の所有であったという庵を譲り受け隠居することにした。
ある年の秋、男は庭にある池の掃除をしていた。落ち葉が溜まれば池の水がそのうち濁る。竹ばさみでつまんでは拾い上げていた。ふと目を上げると池のふちに鳥のようなものが止まっていてこちらを見つめている。大きく太い嘴、妙に長い脚、銀鼠色の羽は背のほうが青みを帯びている。
「暇なのか?」
鳥は首をかしげる。まあ鳥なら聞いても答えまい。男は腰を伸ばし落ち葉を掃き集めて桶に入れた。裏に運ぼうとすると鳥は一歩近づいた。
「おもしろいのか?」
鳥はまた首をかしげた。ふん。気まぐれだろう。鷺か何かの類かもしれん。そのうちどこかへ行ってしまうだろうと思っていたが鳥は男の庵に住みついた。
ある日、男は棋譜を片手に盤に石を並べた。先日訪れた客が土産にくれたものだった。鳥は男をじっと見ていた。
「さて、ここからどう打つか」
と、鳥が白石を咥え一手を打った。
「ほぉ、そなた、碁を解すのか」
鳥はまた、首をかしげた。男もさほどうまい打ち手ではなかった。鳥は良い遊び相手となった。こやつ、どれくらいわかっておるのか。ふと、いたずら心で禁じ手を打ってみた。すると鳥はぎゃあぎゃあわめいて石を蹴散らかした。
「すまん、もうせぬ。ついそなたをからかってみたくなった」
男は石を拾い集めた。鳥も石を咥えて集めた。日が傾き西日が差しこんでいた。
「もう夕餉のころか。そなたも喰うか?」鳥は首をかしげた。
秋も深まった夜、よい月が出ていた。男は零余子を肴に酒を飲んでいたが興が乗ってきたので笙を持ち出した。楽の音が夜空にわたってゆく。
「よい夜だ」
もう一節吹き始めるといい塩梅のところで鉦の音が入った。見ると鳥が首を伸ばして鉦の前にいる。
「ほぉ、そなたは、楽の音も解すのか」
鳥は首をかしげた。
「それでは首がつらかろう」
男は書のはいっていた文箱を持ち出しその上に鳥をとまらせた。
「これでよいかな」
男は再び席に戻って笙を吹いた。鳥も鉦を叩いた。夜は更に深け、笙と鉦の音は月明かりの下で遠くまで響いた。
冬を迎える頃有り難くない客が訪れた。福原遷都の折には一族総出で摂津へ移った輩だ。結局のところ都の造営は頓挫し都は再び京に戻ったのは聞き及んでいる。元の住処には手を入れねば住めぬ。遠回しに言ってはいるが金子と人手を用立てる口添えをしろということだろう。総領でもない隠居した息子の頼みなど父が聞こうはずもない。もとよりこちらもその手のことは関わりたくもないのでやんわりと断った。いまいましげに去る客とその従者が歩き出すとなにやらぽとりぽとりと烏帽子にかかった。
「ああっ」
「大丈夫でございますか」
「これは、糞だな」
「うう、わたくしもでございます。烏めの仕業にございましょう。ささ、坂を下れば牛車を待たせてございます」
見送る男の目には木の枝の間から見下ろしている鳥の姿が見えた。こみ上げてくる笑いをかみ殺しながら客の姿が見えなくなるまで門の前に立っていた。
冬が来て山里は一段と冷え込んだ。風の勢いに梢が鳴り外へ出る気も失せるほどの日が続き、ついには雪になった。火桶に炭を熾し暖をとる。思い立って割竹の束ねたのを持ち出した。東の山の山守の童が置いて行ったものだ。年の頃は十ばかり。きのこを取ろうとしていさめられたのが最初だったか。きのこに限らず山菜の良し悪し、とりすぎぬこと。山のことは山の者に聞け、とはいうが童に教えられ糧を得るとは。面白い。腰に下げている籠をどうしたのだと問うたら作るのだという。器用なものだ。人の手で作る。わたしにもできるかと問えば教えるからやれという。途中まででそのままになっていたそれをゆっくりと編む。この寒さの中、童はどうしているだろうか。苫屋はもっと寒いのだろうか。と、ほとほと、と板戸を叩く音がする。誰だろう。雪と風で軋む戸をそっと開けるとあの鳥がいる。
「どうした。いままでどこにいたのだ」
そっと包むようにして中に入れた。冷え切った羽を手巾で拭いてやる。寒い時期には南へ渡る鳥もいると聞く。姿が見えぬのは暖を求めて去ってしまったものとばかり思っていた。腹が減っているに違いない。男は漬菜を洗い刻んでみた。
「このようなものしかないが、どうだ、喰えるか」
鳥は首をかしげた。それから少しずつ啄んだ。男は火桶に炭を足し籠編みの続きを始めた。
ある夜、夕餉を拵えようとしていて貝焼を落としてしまった。貝は割れたが具は無事だった。椀には羹を入れたので具を入れて温められるものがない。棚を探すと秋口に集めた朴の葉を干したものがあった。童はこれに味噌ときのこをのせてあぶるのだと言っていた。燃えてしまわないのか、と問うたら、温めるだけだ、燃やしたら喰えない、と言って笑った。朴の葉に具をのせかえたもののどうしたものか思案に暮れる。もう一度棚を見やると魚などに打つ串が何本かあった。火桶に串を格子に渡してその上に朴葉を載せてみた。加減がわからんがまあいいだろう。鳥には羹に入れる前に干魚の割いたの、菜の刻んだのを取り分けておいた。
「さあて、そなたも喰うか。たいしたものもないが」
鳥が啄み始めたので男も箸をとった。もうあまり糧がない。餅も麥縄も終わってしまった。明日は山へ入ってみるか。それとも都へ降りてみようか。無理に出歩くより辛抱したほうが良いかもしれん。今夜は雪ではないが寒いのは相変わらずだ。
「そなたもやせたな。まあ、人のことは言えんが」
鳥は首をかしげた。
その年の冬は長く、もう春には忘れられてしまったのかと思うほど寒さが続いた。裏山へ向かう道に蕗の薹を見つけたときはなんとありがたいことかと手を合わせてしまった。庭の池の氷が解け鳥はしきりに嘴を突っ込んでいる。田螺でもいるのだろうか。冬中漬菜や粟稗のたぐいであきあきしたのかもしれん。そうだな。もう少し暖かくなったら下の川に行こう。泥鰌がいるかもしれん。ああいう鳥はそんなものを好むのだ。土手に菜花や土筆が生えて、蓬や蓼もあるだろう。一冬掛けて作った籠はきっと役に立つに違いない。この冬の間は都からの文が二度しか来なかった。文とともに届けられる炭だの書だの干飯だの、いつでも手に入るときはうっとうしくもあったが、ないとなったらなんと心細いものだろう。そうだな。暖かくなったら童が山菜と薪を売りに来るかもしれない。まだ飴米が残っていたはずだ。くれてやったら喜ぶだろう。そうだな。
男は膝をついた。足元が何やら覚束ない。少し休むつもりで床の方へいざった。投げ出すように体を横たえてそのまま目を閉じた。
男は歩いていた。枯草を踏みしだいて道のようなそうでないような跡を辿っていた。高い悲鳴のような声がする。見上げると五色の羽を纏った尾の長い鳥が高く飛んでいる。どこまでいくのだろう。わたしはどこまで歩くのだろう。次第に草の背丈は高くなりかき分けるようにして進んでいくと古びた祠に出会った。もう参る人もなく朽ちた社。境内に踏み入るとぎしぎしと軋む音がして扉が開いた。奥へ向かう道は下り坂でところどころは段であり暗さのために躓きそうになる。ぼんやりと明るいものが見える。翁が一人、刀らしきものを研いでいる。
「都へはもどらぬのか」
翁は問うた。
「もどらぬ」
「恋しくはないのか」
「ないと言えば嘘になる。だがもどらぬ」
「そうか」
翁はそれきり黙って研ぎを続けた。
額のあたりがひんやりとして男は我に返った。額に朴の葉が乗っている。起き上がる気にもなれず、横目で戸口の方を見やると鳥がいた。
「そなたなのか」
鳥は首をかしげた。
その後薪を持ってきた童は男のやせ衰えた姿に驚き慌てて苫屋に走り父親を呼んだ。山守は薬師の当てがなくとりあえず僧を連れて庵に現れた。鳥は建具の影に隠れた。その時にはもう男の息はなかった。僧は男の手を取って見、首を振ると数珠を取り出し経を唱え始めた。童は泣いていた。鳥はじっとそのさまを見ていた。
野辺送りの日も鳥はいた。都からは使いの者がやってきたが土地のやりようがあるでしょうからと棺を運ぶことのみ手伝いそそくさと帰っていった。庵の元の主であった寺の墓地に男は葬られる。一月ばかりは卒塔婆の上に止まる鳥の姿があったが、そのうち見えなくなった。
鳥の行方は、誰も知らない。