仮考察羌族と姜

羌族は現在の姜であり三皇五帝の神農炎帝の子孫である。

秦始皇本紀の始皇26年(紀元前201年)の記事には、秦王(のちの始皇帝)に対して臣下が「泰皇」の称号を推薦したが、王は「帝号」を議せよと丞相に命じた[4]。そして「皇帝」号が創出されたが、これについて「三皇五帝」から創出されたとされている。

数千年前のこと、王朝もなかった頃の古代中国では、神から文化を授かったと信じられていました。古代中国は半神半人が治めており、そのうちの一人は炎帝と呼ばれました。

炎帝は賢く慈悲深い皇帝でした。人身牛首で、腹は透明だったと言われています。太陽の神として呼ばれました。農業、薬草、医療に尽くしたため、五穀天皇、中国医学の神などとも呼ばれますが、神農として一番良く知られています。

そして365の薬草、果実、野菜と五穀(米、麦、もろこし、粟、豆)を選定しました。

この過程で、神農は、いかに植物が成長するか、それぞれの薬草に適した土壌、繁茂の季節などを理解するようになりました。
神農は暦、すき、斧を発明したと言われています。広域にわたる耕作、保護、そして食料の貯蓄を編み出すことで、民が飢えないようにしました。これが中国での農業の始まりとなりました。数千年後、漢朝の学者によって、神農が発見したことを基に『神農本草経』がまとめられました。

蚩尤(しゆう)という神は、路史によると羌(きょう)が姓とされるとある。

神宮とは、周王朝の遠祖・姜嫄の神霊を祭る廟。典拠は『詩経』。

姜嫄の「姜」は「羌」と同じで、西方の遊牧民を意味し、古公亶父は、戎・狄に攻められて岐山の下に移り、はじめて戎・狄風の生活形態である遊牧を改めて、都市を建設した[1]。北方狩猟民出身の殷を倒して取って代わった周が、西方遊牧民出身であることは明白である[1]。


夏王朝は姜姓、殷王朝は子姓、周王朝は姫姓。姜水で生まれた炎帝(神農)が姜姓を、姫水で生まれた黄帝が姫姓を名乗ったのです。神農は「火徳の王」であったので炎帝と称したといい、その姿は人身牛首、身の丈は八尺七寸で蚩尤(しゆう)を彷彿とさせるのです。黄帝(軒轅)が天子の位につくにあたって炎帝(の子孫)と争ったといいますが、これが黄帝と蚩尤の戦いとして記されたのです。

但し、「禹」という文字は本来「蜥蜴」「鰐」「竜」の象形文字であり、禹の起源は黄河に棲む水神だったといわれている。夏王朝は羌族(チャン族)から興ったといいますが、炎帝神農氏を生んでもいる。羌族は元々は河南省にあったが、殷に追い立てられ長江上流にまで逃げ延びていった。そして、殷からは生贄にされた羌族の1万4000体の遺骨が出土しているが、この羌族が夏王朝を興した民族である。


統一新羅の成立と共に官僚制度の改革が図られた。

その後、高麗は翌年の936年に後百済を滅亡させ、朝鮮半島は高麗によって統一された。

秦、燕・斉・趙の民が数万口で、朝鮮に逃避した。(魏志東夷伝)』とあり、朝鮮半島は移民・渡来人の受け皿的役割を果たしていた。また隣国、百済・高句麗等の扶余系民族(現在の満族と同系統)も国内に抱えていた。

羌族と姜はこのような因果関係である。

姜kang= 漢語:可汗、可寒、日本語読み:かかん)は、古代北方遊牧騎馬民族で用いられた君主号の一つ。後に訛ってカアン (qa'an / qaγan) →ハーン (хаан / khaan) の音読みを当てた名で可汗を意味し中国で言う皇帝の意味を指す。

「カン(Qan)」はモンゴル、ケレイト、ナイマンなど部族の長が名乗る称号(君主号)であり、モンゴル帝国を築いたチンギス・ハーンも、彼の在世当時はチンギス・カン(Čingγis Qan/Činggiz Qan)と称していた。

ペルシア語では、モンゴル帝国皇帝の称号である「カアン」を、「カーアーン( قاآن qā'ān)」あるいは「カーン( قآن qān/qa'ān)」と表記しており、モンゴル語の「カン(qan)」に由来する。


「多くの支流があるからこそ、港を知らなければ道を失う。
港を知ることこそ要である」


「満州族の先祖が築いた高句麗と渤海は高句麗の主要民族である満州族の女真族で高句麗人と共に渤海を建国した靺鞨族であり共にツングース系である。

姜とは高句麗人の姓であり姜浩治は愛新覚羅溥儀の子であるが韓国籍として偽りとして姜姓を名乗った。
この姜は経と発音が同じである。
名体の姜浩治は名号の南無妙法蓮華経と不二であることを示している。

16部あったが、後に高句麗遺民と共に渤海国を建国した南の粟末部と、後に女真族となって金朝,清朝を建国した北の黒水部の2つが主要な部族であった。

大祚栄は高句麗に附いていた粟末靺鞨出身者であり、高句麗が滅ぶと、家族を率いて営州に移り住んだ。

自らを震国王と号した。
また、扶餘,沃沮,弁韓などの諸国を支配下に置いた。
この頃より大祚栄は靺鞨の号を使わなくなり、専ら渤海と称すようになる。

2024/08/24
13:26











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