『昨日の葬列』の足跡を辿る 2
前回の記事はこちらです。
私は山の中にある木造の校舎の前に立っていた。ここは児童が少なくなったことを理由に別の地域の小学校と統合して使われなくなった校舎で、かなり傷みが激しかった。休校になったのは平成5年で、なんだ最近じゃん、と思ったらもう30年も前のことなのでびっくりしてしまった。私には時間の概念があまり理解できないところがある。
しばらく校舎を眺めたり崩れた銅像を眺めたりしていたが、やはり野生動物と鉢合わせしたら怖いので車のある神社前に戻ってきた。神社の建物の両脇には随身像らしき石像が。
あまり神社に詳しくないので随身像といえば木造で八幡様の境内でよく見かけるというイメージがあったのだけど、そんなこともないのかもしれない。でも「石仏」という言葉はよく聞くけど「石神」はあまり聞かないよねえ。……いや、聞くか。石仏は石に彫られた仏像を主に指すが、石神というと違うものを指すからややこしくなるんだな。やはりここは石像と呼ぶしかないのだろう。いろいろ奥が深い世界である。
しばらくこの辺りをうろうろしていると割と家が建っていることに気がついた。しかし今は誰も住んでいないようである。子どもが少なくなって、人が住まなくなって、だんだん消えゆく集落。神社もきちんと手入れがされている(半年に一度か年に一度かはわからないが)ように見えるだけに、より一層切なさが増した。
ここからさらに車を進めると、カーブミラーと火の見櫓が並ぶ道に出た。『昨日の葬列』で見た景色だ。
あたりを見下ろせる一番良い場所には地域の偉人であろう尾関某氏の石碑があった。そういえば私の地元にも小学校の前にでっかい石碑があったなあ。なんなのか気にもしてなかったけど。
そして私も石碑と同じように周りの風景を眺めてみる。
山のこちら側は落葉が積もって「秋」という感じがしているが、山向こうには既に冬が来ていた。白居易の「香炉峰の雪……」という詩歌がふと頭に浮かぶ。わが国においては清少納言のエピソードのほうが有名になってしまっているけれど。
そして驚いたことに、ここまで来たときになにか物音がすることに気がついた。人が住んでいる場所があったのだ。買い物はどうするのか? 山を降りるのにあの険しい道を行くのか? などと余計なことを考えてしまう(帰り道に違う道を通って知った、私が行きに通った道はすげえ険しかったがもう少し良い道があった。ナビはなぜそこを案内してくれなかったのか)。それこそまだまだ人がたくさんいた頃は商店なんかもあっただろうし、日常品を手に入れるのにはそれほど不自由しなかったのだろうな。
少し感傷的になりながらまた車を走らせ始めた。人の気配があったのはさっきのカーブミラーの近くだけで、またしばらくは墓地ばかりが目に付く。そして、いくつめかのお墓を過ぎたとき。
墓石ではない石碑を見つけた。
墓碑銘のようにも見えるが、それにしてはその碑しかない。
!!
さらに裏面にも。
この碑を残していったのは私の父と同じくらいの世代の人だろう。働き盛りの年の頃にはこのあたりの産業は既に廃れてきていて山の下で暮らさざるを得なくなった、でもお墓だけは残していてお彼岸などにはいつも帰ってきていたのだと思う。しかし自身が高齢になり、お墓の世話をしづらくなったことや自分の子や孫がここまで来るかということを考えて、……かなり長いこと考えて、結局お墓も移転したのだろうと推察する。とても好きな場所だったから、こうしてなにか残して行きたかったのだろうとは容易に想像がつくが、その愛する場所を先祖ごと切り離すことの痛みやつらさは計り知れないものがある。道は人が少なくなるごとに荒れて入りづらくなる。ふとしたついでに立ち寄るには難しい場所になっていくのだ。
そして、この碑を見たときに『昨日の葬列』というタイトルが初めて腑に落ちたように理解できた。あの写真集はもう帰れない場所に対する弔いの気持ちを表現したものだったのかと。
私はあまり聡明ではないため、写真集をためつすがめつ眺めていても、ただ「きれいだ」と思うだけでそこをその人がどんな思いで撮ったのか、ということまでは理解できない。写真を見てそれがすぐに分かる人、ましてやそのタイトルだけでピンとくる鋭い人たちが羨ましくてたまらない。だからたまにこうしてその場所を辿るようにする。その人の思いを私なりに解釈するために。今回は安易に行き先を決めてしまったかと初め後悔することもあったが、結果的にはすごく良い旅だったと思う。
また、故郷の墓碑を残していかれた武内勉氏には今の白石地区を見て私が思い出した白居易の詩歌を捧げたい。
日高睡足猶慵起
小閣重衾不怕寒
遺愛寺鐘欹枕聴
香炉峰雪撥簾看
匡廬便是逃名地
司馬仍為送老官
心泰身寧是帰処
故郷何独在長安
氏が子どもだった頃にあったであろう葉たばこの畑や桑畑は今はすっかりなくなっていてかつての賑わいも小鳥のさえずりだけになってしまっているけれど、今の姿も気高く美しい場所だと私は感じている。