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教えるということ
僕はいろんなことを繋げたり、アナロジーで考えるのが好きだ。例えば、何かで得た気づきは、抽象化してほかのことにも転用できることが多い。
そうやって物事を繋げていくと小さな成功体験を紡いで、自分だけの、1人でほくそ笑むような、大きなストーリーにすることができるんじゃないだろうか。
「教える」ということ
「教える」というのは人生において様々な場面で出くわす。生まれた瞬間から色々と教えられるし、幼稚園から学校、家族・友人、バイト・趣味やコミュニティ、そして人生の多くの時間を費やす仕事の場面など。
また、教えられる立場もあれば、教える側になることも多いだろう。
最近取り組んでること
最近というか、もうこの数年、10年、20年といことなのかもしれない。常々おぼろげな理想像を持ちつつ、なにかを身につけようとやってきた気がする。
残念ながらやり方がダメだったり、独りよがりだったりで理想像には届かなかったことが多い。
例えば、音楽。例えば、バスケ。例えば、スキー。色々だ。
多くのパタンを経験するといい
最近バスケの上達に取り組んでる。ドリブルがあまり上手くなかったり、少しぎこちない動きだったり、シュートは割と入るほうなんだけど、自分から突破口を開くのは苦手。
ドリブルにここ最近取り組んできた。そこで色んなパタンの動きや、ボールの扱い方を少しずつ意識してみたことで、それまで持ててなかった感覚を得たりして、違う動きをするきっかけになったりしてる気がする。
例えば、ボールを腕の力でなるべく力強く弾ませる、ボールを地面に転がしてドリブルの真似をする、ボールを手のひらの上で転がしてスピンを使う感じる、腕だけでなく足腰・上半身の力でボールを弾ませる、足のステップを使ってドリブルの前後・左右幅を広げる、、、などなど。
それぞれ、少しずつ違う全身の筋肉を刺激し、脳みそに運動記憶を作る。何度かやれば本当に必要な筋肉がついて、それが一歩進んだ動きをするためのベースとなる。
そんな感じだ。
振り切るといい
多数パタンと合わせて動きの振れ幅を大きくしリミッターを「振り切る」感じも取り入れたい。
その動きのコアなコンセプトを感じることができる気がする。数を繰り返し、動きが身についてきたら、振れ幅を小さくしても、身体の奥から、身体全身を使った動きができるようになる気がする。
また、自分の限界を意識するのにもいい。例えば、昨日はバスケのゲームで同じパタンのドリブルでのドライブを何度か仕掛けることがあった。
まず、何度もこの動きが出たというのは、相手の状況もあるが、自分に新たな余白・余裕が生まれ、その動きがイメージでき、トライ出来るようになったのでは。
そして、いずれも同じ失敗(外側から回り込むようなドリブルでボールファンブル)をしてしまったのは、それが自分のその瞬間の限界なんだろう。
こうすると、次にどうすればこの動きがこなせるか分かる。ならばそれに取り組むだけだ。シンプル。
教える側に意識してほしいこと
スポーツに限らずなのだけど、教える側と教えられる側とでは、その物事の習熟度はもちろん、その時点での認知的・身体的・知識的な背景・状況は千差万別だ。
となると、どうやってその物事を意識できるきっかけや段階を作れるか。例えば、僕の場合は上記のような多数パタンがあって、やっとドリブルを一段階レベルアップできてる気がする。
教える側には、色んな視点・切り口からヒントを出してほしい。教える人の個人的な経験の範囲やその時点のベストだけではたぶん情報不足なのだ。コンテクスト共有が不十分。
例えば、師弟関係や武芸など、やたら習熟に時間がかかる理由の1つはこれかもしれない。あなたは私ではないし、私はあなたではないのだ。これをよく理解したい。リスペクト。
まとめ
というわけでブレ気味な文章でした。言いたいのは、何かを身につけるには「多数パタン」「振り切る」を意識したい、そして教える側と教えられる側は背景・状況も違う人間ということ。
写真は今朝の由比ガ浜。夏終わり秋風。鉛色の空。湖のようにフラットでした。