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戦火の愛

「わたくしはね、靖国の妻なんですわ・・・」
品の良い関西なまりの、
色白の白髪の女性がつぶやいた言葉の意味が、
まだ二十歳そこそこのbubuには一瞬理解できなかった。

「祝言をあげて1か月も経たんうちに、
戦地に出兵しはったんですわ・・・
この着物は、祝言の時に着たんです。
当時は、白無垢なんが着られしまへんから。
この着物は、母が私のために
戦争が激しくなる前にお振袖として準備してくれてたもんなんです。
黒振袖やったら、お色直しに着られるやろって。
祝言のあと、空襲がはげしくなってから
田舎の蔵の中にしまっておいてもろたから
戦時中も無事やったし、
戦後も、あの人がもしかしたら帰ってくるかもしれへん、
そう思って、絶対にこの着物だけは、お米に変えられへんかったんですわ・・・
これ以外は、全部、お米にかわりましたわな・・・」

そんな、大切なものを私に・・・?

「この話、言える人、いままでいませんでしたし
着てくれる人のおりませんなんだ。
もろて、くれはらへんやろか・・?」

さぞ、大変だったのだろうと思うのに、
彼女は

「靖国の妻、靖国の母はぎょうさんいたんです。
わたくしだけじゃないですから。辛いなんて言えませんわな。
死んだ証明なんて、紙切れ一枚やから
手を合わせるところもない。
せやけど、靖国の方を向いて手を合わせることができた。
東京に仕事でいくと、いつもお参りしてました」

と、ほほ笑んだ。

「祝言で、二人で、生きていこうって誓ったんです。
せやから、死んでしまいたいなんて微塵も考えたことないです。
時が来たら、きっと迎えに来てくれはると思うから」

ーーー

彼女と同年代で
同じように、「生きぬくこと」を誓い合った夫婦もいた。

「Sさんの父親は自死した。
アンタも親であれば、責任取って死んで詫びろって警察の人に言われたけど、
死なんかったんは、わたしも、お父さん(夫)もピカ(原爆)で死に損なったからなんよ」

夫妻は、どちらも広島出身で
家族は爆風で家ごと吹き飛び
兄も戦場に散った。

8月6日、東京にいた当時恋人同士だった二人は死ななかった。
家族や友人を無くし、生き延びた二人は互いに
自死だけはすまいと決めて
被爆地出身ということをひたすら隠して戦後を生き抜いてきた。

しかし、その後生まれた息子が、20歳のときに自殺を図る。

彼の心臓は止まることはなかったが
彼自身の心はこの時死んだ。

「あれから、わたしもお父さんも、自分の子なのに
どう接していいかわからんようになった。
死なれることだけは、避けたかった・・・」

優しく、頭の良い子で
幼い時から、親を困らせるようなことは全くなかった。
だからこそ、両親は合点がいかなかったという。

その後、息子が自殺の要因を、親や友人に語ることはなかった。

息子は、兄のような障がい者も共に生きる社会を夢見て
親たちを苦しめた戦争を憎み
そのくせ、他国の戦争の特需に乗じて
絶好調の日本の資本主義を憂い
「革命戦士」として生きる道を選んだ。

第二次世界大戦から77年
街は復興しても、名もなき人々の哀しみは
世代を超えて残り続ける。
「平和を願う」という一言では決して言い表せない"よどみ"が
サミットのニュースを聞くたびに、心臓の奥でジクジクするのは
bubuだけではないだろう・・・