真面目に生きてきた私はロックスターが大嫌いで大好きだ
具体的に言うと、リアム・ギャラガーが嫌いだ。
90年代を代表するロックバンド・Oasis。
そのリードボーカルとして知られるリアム・ギャラガーが、私は大嫌いだ。
何が嫌いかというと、その破天荒な言動や行動。
クラブで乱闘騒ぎを起こし、ツアーを中止に追い込む。仕事中にパブに繰り出しては酔っ払いを連れてスタジオに戻り、セッションの邪魔をする。酩酊状態でライブに出演し、兄ノエル・ギャラガーの頭をタンバリンで殴打する。
時代によっては表舞台に立つまでもなく干されていたであろう最悪な経歴の持ち主だが、バンド解散から15年が経った今でも、世界中に彼のファンがいる。
私もそのひとりだ。
身近にいたら絶対に仲良くなれないタイプの人間だが、それでも私は彼を好きでいることを辞められない。
その理由はただ一つ、「声がいい」からである。
「歌がうまい」とは違う。もちろんプロとして申し分ない歌唱力はあるのだが、ピッチの安定性や技術面では、世界トップクラスとは言えないだろう。
ボーカリストとしてのリアムを不動の地位に押し上げているのは、ただ1点、その声質である。
初期の艶やかな歌唱はもちろん、96年のネブワースのライブの頃から聴けるしゃがれ声も、全世代のロックファンの心をつかんで離さない。
トータルスコアで彼を上回るシンガーはごまんといる。おそらくは、アマチュアにすら。
だがそれでも、このざらりと耳に響く唯一無二の声がある限り、彼がロックシンガーとして最高峰に位置することを誰も否定できないのである。
突出した才能を持つものに許された身勝手さ
私を含めた多くの社会人は、「周りと協調すること」を条件に、群れの中で生きることを許される。
たとえば私はライターの仕事をしているが、もしクライアントとの打ち合わせに酩酊状態に出席したら、瞬時に契約を切られるであろう。同業仲間とのオフ会で乱闘騒ぎを起こせば、その晩のうちに絶縁されるに違いない。
勘違いをしないでほしいのだが、私は何もリアムのように問題行動を起こしたいわけではない。
私はただ、羨ましいのだ。
自分のような凡人なら決して許されないであろう行動を何度繰り返しても、第一線で活躍を続けられるあの天才が。
どれだけ周りに迷惑をかけても、「まあでも、声がいいからな……」ですべてを許されてしまう。
そんなリアムが羨ましくて大嫌いで、面白くて大好きだ。
さて、そのリアム・ギャラガーが、今年の秋に東京ドームを訪れる。
昨年夏に再結成を果たしたばかりのOasisによる、16年ぶりの来日公演。
チケットは昨年時点で完売していて、私は見事に取り逃した。これは、2024年の最大の悔やみである。
そして2025年最大の目標が、ライブ1ヶ月前の公式リセールでチケットをもぎ取ること。
今年がいい年だったかを振り返るポイントは、「Oasisのライブに行けたかどうか」だけで十分だ。
秩序の外側にある才能を、この目で見届けたい。
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