政治と生死とクライテリオン
おはようございます。フェニックス髙橋です。
ここ最近、人の生き死にがずいぶんと軽くなったと感じる出来事が続いています。
もう2ヶ月も前のことで恐縮ですが、都知事の発言
「志村さんといえば、本当にエンターテイナーとして、みんなに楽しみであったり、それから笑いを届けてくださったと感謝したい。最後にですね、悲しみとコロナウイルスの危険性についてですね、しっかりメッセージを皆さんに届けてくださったという、その最後の功績も大変大きいものがあると思っています。」
最近の参議院議員の発言
「見えない悪意に怯える怖さ。繰り返される執拗な中傷誹謗。どれだけ恐いか。よくわかります。気にするな、スルーしろ、有名税、なんてものではありません。人を叩いてストレス発散するなんて世界を作ってはいけない。何をすればいいか、対策に動きます。」
とりあえず自分はこんなこと言うヤツが大嫌いですが、政治家がこんな事を言うのは「支持者」が求めているからだとも思うんです。つまり現代の日本人は、どこかに「生こそが至高」「死ぬことに意味はない」と考えているのではないかと。
生きることが大事であることは否定はしませんが「至高」なのか?とも思うんです。
形而下的な話をすれば恐らく「生こそが至高」なんでしょう。昔から「命あっての物種」と言いますし、物質主義的に考えればモノの中では命が一番かもしれません。
いわゆる「サヨク」と呼ばれる人たちが「命が何より大事」というのは社会主義自体が物質主義的な側面があるのかもしれません。社会主義は宗教を否定しますから、形而下的なところの考え方になっているわけです。
ここで思うことは、確かに形而下の問題も大事です。マテリアリスティックな視点も必要でしょう。でも我々は形而上的な、精神的なところも意識して生きなければならないと思うんです。我々は「人間」であって「奴隷」ではないですから。いわゆる「サヨク」の方々は人権が大事だと仰いますが、最低限のお金を貰って家に籠って「死ぬな、とにかく生きろ」と言われるある種の奴隷的な生活が人権だと思われるのでしょうか?そうだとしたら自分にはサヨクを理解することは出来そうにありません。
自分が人間である以上、生きることより大事なことってあると思うんです。例えば仮に「コロナに罹って死ぬかもしれないけど、大好きな女の子がやってるお店が厳しいから飲みに行こう」とか「ヒールの辛さを解りあえる人がいない。こんな世の中なら生きていてもしょうがない」とか思ったときに、それを止めることってできるんでしょうか?
別に死にたいわけではない筈です。でも死ぬよりも「女の子が楽しくお店をやっている」方が大事だと思ったんでしょうし、死ぬよりも「ヒールの辛さを解りあえる人がいない」事が辛いと思ったのかもしれません。もちろんコレは個人の意見ですから、本当はそんな事考えてないかもしれないです。もっと言えば「誰も分からない」わけで、だからこそ「死」というものをこんな軽々しく政治利用というか支持率をあげるために利用してはいけないと思います。
自分の主張を通すために「人の死」を利用するって「不遜」だと自分は思うんです。
「2位じゃダメなんですか?」とか「東京アラート」とか言ってないで正々堂々と議論をして、自分の主張を通すことが社会を豊かにするために大事なことだと思います。
そういう意味ではTwitterはダメですかね。あんな短い文章で自分の言いたいことなんて言えるわけ無いでしょうから。