日常と平常とクライテリオン

おはようございます。フェニックス髙橋です。
最近よく「新しい日常」という言葉を聞きます。東京都のHPに出ていたので「お察し」な感じもするのですが、ざっくりいうと「外出るな」「リモート使え」「キャッシュレス」ということのようです。
相変わらず言いたいことしかないですが、何というか「ハイテク」に対する憧れが為せる技なのでしょうか?と、今回のコロナとは無関係な感じがするんです。

サザンオールスターズがリモートでコンサートを実施して、それが大変好評だとか。
因みに自分はファンなので、好評なのはそれなりに嬉しい事ではあるのですが、何か「エンタメの新しい形」とか「新しい生活様式の可能性を見た」とか言ってるメディアを見ると、大変胡散臭く感じるんです。
色々な文脈があるなかでのコンサートですから、今回のコンサートは良かったとは思います。でも、毎回見たいですか?と言われると何となく怪しいのではないでしょうか?

今回のコンサートは「代替品」でしかないと思います。同じエンターテインメントで言えば、例えばゲーム。よく言われます「スマートフォンでこのクオリティは凄い」とか。でもコレはスマートフォンという「制約」がある中では大分頑張ってる。据え置き機とかなら「もっと良いものになるんだろうな」と言うことを言外に含んでいるはずです。このようなものを「新しい」とは言えないのでは無いでしょうか?
スマートフォンで言えば「パズドラ」や「モンスト」などは「スマートフォンの割に」とは言われなくて、それはまさに「新しいスマホゲー」だったからです。むしろスマートフォンでなければ成り立たないと言っても良いのでは無いでしょうか?
この環境下でコンサートを動員して成功したことは単純に凄いことなんですが、この形態を続けるのは難しいと思います。今回の成功は、サザンのような「伝統的ライブバンド」だからこその成功なわけで、今まで積み上げてきたバンドとしての蓄積によるものが大きいと思います。
そんなことは当のメンバーが一番分かってるでしょうから、リモートでコンサートということが繰り返されたりはしないのではと思います。

してみると「新しい日常」というものの胡散臭さの正体がわかります。今の「新しい日常」というのは、旧来の(敢えていえば)「古い日常」に「ハイテク」のメッキを被せた「劣化版」ということではないか?「劣化版」にメッキを被せて「新しい・最高」と言っているのなら、それは世の中では「インチキ」というんでしょう。

そんな「紛い物の新しさ」に騙されてしまうのは、本当は「古い日常」は今すぐにでも取り戻せると感覚的に分かっているからでは無いでしょうか?
だからこそ感染者がどれ程増えようが、それを声高に主張する人は少ないですし、日本語とは思えない知事たちの会見にも文句がないのでしょう。
自分は今まで主張した通りで「コロナごときで日常を変える必要はない」と思っています。ですが、世の中が「何となく」自分の主張しているような流れになってきたから、それで良いとは思いません。大切なのは「基準」なわけで、それがないと今度は逆にロックダウンしなければならないときに閉められないからです。
開け閉めの基準をきちんと決められる社会を作っていくような行動をしていきたいですね。

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