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私徳と公徳とクライテリオン

おはようございます。フェニックス髙橋です。
最近福澤諭吉に被れている気がして「慶応卒でもないのに」と思いつつ、ここ数日ネット界隈で規制についての議論がされていることに関して、思うことを述べてみたいと思います。

まず大前提ですが自分は当事者でも家族でもありませんので、その方々とは違った感情で発言をします。
不謹慎な例えで恐縮ですが例えば、自動車事故でご家族を失われた方が「車なんて無くなればいい」と思うことは否定できません。とは言え自分は車に乗っていますので、同じ感情には残念ながらなれないと思います。お悔やみの気持ちはもちろん持っていますが、当事者と同じ気持ちではない。それを前提に話を進めていきます。

福澤は「文明は人の智徳の進歩なり」と言っています。最近は徳ばかりが注目されているように見えますが、それは別の話に譲るとして「徳」にも二種類あり「私徳」と「公徳」があります。
それぞれ簡単に紹介すると「私徳」とは貞実、潔白、謙遜、律儀など、一人一人の心の中に属するもので、「公徳」とは廉恥、公平、中正、勇強などで、福澤によれば公徳とは「外物に接して人間の交際上に見わるる所の働」ということです。
この二つには優劣はありません(もちろん知と徳にも優劣は無いです)。どちらが重要かは時と場合によるでしょうし、もう一方を完全に無視することも出来ないと思うんです。無視できないのは並んでいる単語をみれば分かると思います。
そして自分が昨今のネット界隈の騒ぎに疑問を持っているのは「私徳」ばかりに話題が集中していて「公徳」がおざなりにされているのではないか?という点です。
貞実・潔白ばかりが全面に出ていて、公平・中正といった感覚が失われているように思います。
もちろん「死んで良かった」とか言いながら動画を垂れ流すような「廉恥」の無い事は赦されざることでしょうが、犯人捜しばかりをするのも「廉恥」が無いように感じられるのは自分だけでしょうか?
人の死というのは「なかなか強い」と思います。「人が死んだんだぞ」とか「死んでもいいってことか」とか言われると反論が難しい。でも反論を封じ込めてしまうと議論にならず「止揚(アウフヘーベン)」にはなりません。いわゆる「マウント取る」というやつで、議論にならないと知恵というか社会というかが高まらない(止揚しない)となってしまいます。

大切なのは社会で活きていくために「どこまでは言論として許せるが、どこからは言論でなく暴力だ」という基準を求めていくことではないでしょうか。

その事を考えずに一方的に言論と呼んで良さそうなものまで封殺することが、果たして故人が望むことなのか。もちろんそれも分からないですし、故人が望みさえすれば何でも叶うというのも(関係者の方々を傷付けるつもりはないですが)正しいとも思いがたいです。

少なくとも自分は、ポリコレでクリスマスが出来ない社会というのは正しいとは思えません。
どこまでが良くて、どこからがダメなのかを議論していくことが「文明」を育てる重要なポイントではないかと思います。

より良い社会を作るために「マウンティング」ではなく「アウフヘーベン」になる議論をしていけるよう活動していきます。

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