備忘録 22-11-27
磨礪(まれい)はまさに百煉(ひゃくれん)の金の如くすべし、急就(きゅうしゅう)は邃養(すいよう)にあらず
――磨礪当如百煉之金、急就者非邃養
『菜根譚』
自分を鍛えるときには、金を精錬するように、じっくりと時間をかけなければならない。速成では、どうしても底が浅くなる、という意味だ。
わかりやすいのは技術の習得である。先日、庭師の仕事ぶりを拝見する機会があったが、若い弟子のほうは素人目にもそれとわかる未熟さであったが、親方の仕事ぶりには、その手順といい身のこなしといい、寸分のムダもなかった。さすがに年季の入った職人はちがうと、あらためて感じさせられたことだった。
まして技術ではなく、「人間」を鍛えるとなれば、格別のむずかしさがあるにちがいない。十年、二十年どころか、おそらく一生の仕事になるであろう。しかし、それをやった人間とやらなかった人間のちがいは、おのずから風格に現れてくる。顔ひとつとっても、それをやった人間は「いい顔」になってくるし、やらなかった人間は「ふやけた顔」になってしまう。恐ろしいものだ。
以上、「中国古典一日一言」(守屋洋)より
今日も一日顔晴りましょう。
ここ横浜は、もうすぐお日様が顔をだします。