備忘録 22-12-12
坐忘(ざぼう)
――坐忘
『荘子』
仏教用語として使われるが、もともとの出典は『荘子』である。それによると、五体から力を抜き去り、いっさいの感覚をなくし、身も心も虚(うつろ)になりきった状態だという。わかりやすく言えば、虚心とか無心の境地である。老荘思想の原点になっていることばの一つだ。これを現実政治の場で活用したのが、維新回天の事業をやってのけた勝海舟である。『氷川清話』のなかで、こんなことを語っている。
「人は何事によらず、胸の中から忘れ切るということができないで、始終それが気にかかるというようでは、そうそうたまったものではない。いわゆる坐忘といって、何事もすべて忘れてしまって、胸中闊然として一物をもとどめざる境界(きょうがい)に至って、 はじめて万事万境に応じて縦横自在の判断ができるのだ」
たしかに雑念をいっぱいつめこんでいたのでは、誤りのない判断を下すことができない。「坐忘」の境地で対処せよ、ということだ。
以上、「中国古典一日一言」(守屋洋)より
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