/{yellow note》-1o:o mo ri
今必要なものは全て目の前にある。今知る必要のあることは全部、自分の周囲の他者とのコミュニケーションからもたらされる。
人と会わずにいる時間が、
自分をあたため、
心の欠損を補完し、
過去を流し去る。
今目の前にある、自分達から産まれた五体満足の命を肯定出来ない親が、「もし自分の子供が自分達の望むようだったら」、肯定出来たか?
出来ないだろう。
「既に存在している」ことは条件を越えているから。
条件はエゴだから。
エゴの出所と向き合わない限り延々と条件は生まれ続けるから。
不安。予測される不幸。恐れを避ける行為が、どんどん思考と行動を狭める。本来の形から遠ざける。不幸が降り積もった未来に至る道。
不安や恐れを生む思考。概念。秩序。観念。行動パターン。教育。知識。それを捨てて行くと、自分が生まれた時に持っていたただそれだけの命に出会う。
『存在』は、地球その他によって圧倒的に肯定されている。
だってもうそこにいるんだもの。
生まれなかった命を想像してみて。
もしくは惜しまれて亡くなった優れた人物を。
どんなに強い想いで望まれた命だったとして、
どんなに素晴らしい影響を多大な人に与えた価値ある人物だったとして、
今、温かい血を休みなく巡らせているあなたと違って
彼らの肉体的な存在は圧倒的にこの地上に肯定されていない。
存在している命は、もうそれだけで無条件に肯定されている。
そのことを知って、
自らを肯定し、
今のこの一瞬の自分を無条件に肯定する。
大地があなたにそうしているように。
その一点の感覚のみが、
他のあらゆるポジティブな可能性に今を繋げる。
そして全ての不安と恐れを解決させる。
肯定する力が弱かったのならきっと、自分の非肯定感を高める要らないものであなたは何重にもがんじがらめになっているでしょう。自分を肯定する力に比例する、障害になる物を手放す力。その力が強くなればなる程、いらないものを手放す時間は1週間、3日、1日、一瞬、と短くなっていく。
障害になる不必要なものを手放すかどうか。
それは誰にとっても自由だ。
けれど要らない物は、それが本当に自分にとって要らない物だと完全に理解され、完全に手放すその時まで要らないものとして自分の傍らに存在し続ける。
望まない現実に留めている重りを手放して行って、
浮上したところに、わたしは待っているから。
そしてわたしにも、
同じように浮上した先に
待っている人がいるのだろう。
わたしはその事を、わたしが自分自身と向き合って、重りを捨て、望まない現実から解放されて、ポジティブなあらゆる可能性の中で泳ぐように一瞬一瞬を生きようとすることでしか証明出来ない。
自分自身がそういう状態にいる以上に、
わたしが他者に出来ることは無い。
知る必要のあることは全て目の前と他者との関係の中に存在している。
だからわたしは
出来る限り良い鏡であるように務めたいと思った。
世界がどういうところか、社会がどうか、人の数だけ頭の中に存在している、刻々と変化している、世界に対する固まった認識を捨てる。一刻一刻変わるわたしの五感が受け取った世界を、何かの形にとどまらせることなく生きる。
目が合って微笑む。
成功を祈る。
そんなことが世界を優しく浸食する。
重りを捨てる。
世界は昨日より少し軽くなるだろう。
そういう世界で能動的に生きる事をわたしはもう恐れていない。
fin
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