団塊世代と出版取次会社 Playback若手取次社員時代
現在、独立して7年以上経ちますが、会社員時代も少しづつ過去のものになりつつあります。
ここらで人生の一区切りをつけて、会社員時代の棚卸しの意味を兼ねて投稿したい。入社して10年以内の若手時代に焦点を当てて書いてみた次第です。
1991年春、株式会社大阪屋(現・楽天ブックスネットワーク)という出版取次会社に入社しました。
元々新聞記者志望で、第二志望が出版社の編集者職だった。大学をマスコミ浪人という名目で留年、その間新聞社の入社試験を受けるもすべて不合格でした。
腰掛け就職だった大阪屋(現・楽天ブックスネットワーク)。それは地味で古めかしい社屋にベタな雰囲気。バブル期の華やかさとは無縁の会社
高校時代の友人で同志社大学文学部社会学科に入ったFという男がいた。Fもマスコミ志望だったが、どの業界を目指していたのか明確ではなく、結局日本出版販売(日販)という会社に入社しました。
「関西系の出版取次会社に大阪屋というところがある」という話をFから聞いており、その流れで就職を決めたのです。
関西系の出版社編集職の求人を探しても全く見つからなかった。大学の就職課で相談しても情報はまったく無し。出版社が東京中心だと知ったのはこの頃。
バブル時代の後半ではあったが、他業種の大手や高い給料の働き口がいくらでもあった。にも関わらず大阪屋に就職を決めたのは理由がいくつかありました。
1.出版業界の一業種なので、腰掛け社員で働きながら出版社の人と知り合い、人脈と情報を手に入れてから30歳前後で出版社の編集職に転職する狙いがあった。出版の関連業種といえば他に書店、印刷会社があるが、おそらく編集職は遠いと予測していた
2.当時としては安月給の企業だが、転勤がほぼないので、大阪市にある本社への自宅通いができ、将来に備えた貯蓄ができると思った
3.同時期、母が高血圧で倒れて入院。そばにいる必要があったので、地方への転勤の可能性の高い大手企業への抵抗があった
4.ぬるま湯のような雰囲気の会社だった。当時のボクは「高給料の会社・大手企業は過酷な労働環境のため、長年勤める自信がない」という固定観念があり、興味ある業界関連の取次会社なら続けることができるだろう、と思った
1990年6月〜9月の頃。新聞社を受けながらも、他業界の会社訪問も行っていました。
阪急電車で京都の会社訪問へ向かうなか、朝日新聞の求人広告で「大阪屋」の文字を偶然目にしたのだ。その帰り、阪急大宮駅構内の公衆電話から会社説明会に伺う旨連絡を入れます。
翌々日、会社説明会に向かった。8月末頃だったか。
勤務地の本社は大阪市西区新町。心斎橋に近いので立地・アクセスともに良好でした。
会社説明会で綺麗な大手企業ビルばかり回っていたので、社屋はお世辞にも綺麗とは言えない、築50年ほどのオンボロビルだ。昔のドラマに出てくる昭和30年頃の雰囲気のままでした。
会議室では気の良さそうな人事部の方たちが、のほほんとした感じで会社説明を行っていました。
ボクは、いざ面接では「編集職的な部署に回してほしい」と力説していたのです。後で聞いた話だが、どうやらこの時のボクはハキハキ、イキイキらしていたらしい。
内定者の誰もがそうだったが、入社はフリーパス。
とりあえず業界に身を置き、出版人という誇りを身に付けたかったのです。
内定後、半年後に入社。【開発企画部】に配属
入社式を迎えた。
4月1日ではなく、確か3月22日だったと思う。
実はこの時期、徳島県池田町へ自動車の合宿免許に行っており、ギリギリのタイミングで帰阪し、すぐに入社式に臨みました。
研修期間は3月31日までで、10日に満たない、簡単なオリエンテーションのみでした。
4月1日、いきなり配属が発表された。
「え? 研修期間てこれだけ? オレら新卒社員やけど」
配属先は開発企画部。要は書店の新規開業の企画を担う部署だ。
書店の開業は取次会社が主導するということを知ったのが、この時。
よく分からないが、編集職に近い部署かもしれない。まあいいか、と割り切りました。
配属されると早速、30歳くらいの先輩社員Iさんから業務内容の説明を受けます。
書店を開業する人のために初回の相談からオープンまで面倒を見る部署で、流れはこうだ。
①不動産業者から書店向きの店舗物件の情報提供を受け、実際に現地へ調査を行う。その際、事前に物件を中心とした地図をコピーし、一次商圏、二次商圏、三次商圏を設定、競合店・その他商業施設をチェック
②書店に適応した物件なら、売上予測を設定し、物件の保証金・賃料・商品代・人件費・その他経費を想定し、開業5年目までの経営計画を立てる
③物件の写真・商圏範囲などを添えたプレゼン資料として作成し、書店開業希望の方に商談する
④納得し、開業を決めたら大阪屋と取引の契約を交わす。商品供給(書籍・雑誌です)に際する契約で、ここに担保設定なども含まれる
⑤オープンまでのスケジュール設定。担当営業部と、書棚業者と三者で商品と棚のレイアウトなどを決めていく
……などなどだ。
少人数の部署だが、どうやら雰囲気も良さそう。前向きな気持ちでいっぱいだった。ここではいつも叱られてばかりいたが、基本的には可愛がられたほうだったのかもしれません。
ポジティブでやり甲斐のありそうな部署【開発企画部】だが
ちょっと気がかりなことがあった。
開発企画部はいい部署だったが、業界の本流の仕事ではない。
しかも新卒社員の研修期間ってちょっと短すぎる。
確か社員数は600〜650人程度。当時の感覚としては大手とはいえず、中堅企業クラスだったにも関わらず。
あと一番に思ったこと。
取次会社の仕組みというか、全体的な流れ、基本を誰も一切教えてくれない。
研修の最後のほうで、人事の方が黒板にざっくりと書き込んで簡単に説明する程度だった。
心の中で呟いた。
「なんじゃそれ」
‥‥最近、自分の部屋を整理していたら、新入社員研修テキストなる冊子が出てきた。業務内容と業界のしくみを箇条書きに一応記されていた。今なら理解できる。しかし、当時の真っ白な新卒社員が理解できるわけない(苦笑)!
当時、書店開業や編集に関する本はいくつかあった。だが、取次業界に関する教科書というか、書物は皆無。取次のことは出版業界の就職読本か何かで「出版社と書店の間にある出版の卸売業で、トーハン(当時は東販)・日販がシェアの70〜80%を占めており、その他大阪屋・栗田・太洋社・中央社・日教販などがある……」と半頁ほど書いている程度でした。
「業界研究しようがないやん。まあいい。自分が取次に関する出版物を知らないだけで、いずれは発見する時がくるだろう」と割り切ることにしました。
そう思いながら3年、5年、10年が過ぎていった。文化通信や新文化、出版ニュースなどの業界紙は多少目を通していたが、それはあくまで記事。取次に関する研究や考察が一切ないことに気づいた。
取次絡みの出版流通に関する情報をまともに拾えるようになったのが、2005〜2006年あたりからだ。それもネット上からだったのです。
これは、出版界の致命的な欠点だった。業界のことを理解しないとプライドは生まれないし、おそらく業界の変革が難しくなるだろうと感じていました。
中年男性だらけ、いわゆる『団塊世代企業』だった。
地味でベタで、どんよりした雰囲気。
それでも出版人として業界に身を置いて、しっかり経験を積み、業界研究を行いたかった。
『出版人としての誇り』さえあればいい。
そう胸に刻むつもりでした。
……本に囲まれ、本読む人、書く人や映画を見る人たちに囲まれて仕事する。高校や大学でできなかったことだ。そう望んでいた。
ところが現実は大きく違った。
とにかく係長・課長・次長クラスに40〜45歳の人が占めていた。いわゆる団塊世代が圧倒的に多いのだ。仕事を離れた話題といえば競馬・パチンコ・麻雀。明けても暮れてもギャンブルの話ばかり。
荒くれ者、ガラッパチ風のヤクザな中年社員もかなりいました。
初めの頃は文化産業の会社なのに、なんでこんなオッサンがいるのか?と不思議に感じていたが。
まあ我慢するしかない。
この年代の経歴を見ると高校卒・中学卒・大学卒に分かれていた。
中卒者は高度成長時代『金の卵』と呼ばれ、集団就職する人も通常だった。
大学入学者は日本では団塊世代から飛躍的に増加し、大卒者は意外にも大阪屋にかなりいた。
あとで振り返ると厄介な人は、この人たちに多かったと思う。
学生運動上がり、いわゆる全共闘世代の人たちだ。
インテリ風で正論を言って論破する、それはいい。
ただ傲慢で人を見下す人が多く、しかも派閥を好む。また変わり身の早さというか、保身術に長けたが多いように見えた。
これについては、プレ団塊世代(確か1945年生まれだったか?)の課長がいつも言っていた。
「若い頃は権力と戦ってきたのに、権力を持つとガラッと態度が変わる。普通は悩んで徐々に変わっていくものだろう。だから信用できん」
当時は意味が判らなかったが。なるほど、という風にあとで納得していきます。
学歴意識が高く、露骨に学歴差別を口にする人も多い。
開発企画部にいた頃は、部として一つの部屋があり、他部署との接触は極めて少なかった。営業部に異動して目のあたりにしたことだが、団塊世代を中心にあからさまな派閥抗争を繰り広げていたのです。
……2つの組合の存在。ひとつはカリスマ組合活動家率いる物流部門在籍者中心の組合。もうひとつはその組合活動家に反発し、対抗してできた営業系部署中心の組合。
もちろん、互いにいがみ合っていました。
部署単位で見渡すと、J堂などの大型店担当の営業部と、物流部門の倉庫が仲が悪かったし、大阪府下担当の営業部と、ボクがいた奈良・和歌山・地方担当の営業部が不仲だった。
一体、何を争ってんねん。
後で気づいたことだが、この空気は団塊世代、その中でも権力と戦ってきた全共闘世代が作り上げたものだった。
仕事のスキルアップより、人間関係で擦り減らすことが多かった。
とにかく全体がネガティブな雰囲気に思えた。
「会社ってまあ、こんな場所なのかな」
「会社とは地獄で、戦うところ」、自分に言い聞かせていた。
これがある意味、牧歌的な『昭和的価値観』だったのかもしれない。
閉鎖的・人間関係も希薄に見えた若手時代の社風
開発企画部のIさんからよく言われた言葉が「ナメられたらアカン」だ。
確かに取引先に足元見られることはよろしくない。
こうも言われた「会社内では敵はいっぱいいてナンボや」。
ボクは否定しなかった。
何故ならナイーブな学生だったから、闘争心をたぎらせないと精神的に潰れて会社勤めも続かないと思っていたからだ。
団塊世代を筆頭に独身未婚男性も大多数だった。どうみても女性関係で浮名を流した上での独身たちには見えない。
ちょっと余談だが、ボクは20年以上在籍したが同期会以外で男女複数で飲みに行ったり、遊びに行ったことは一度もない。他の代も同期会以外で社内合コンしたという話も一度も聞いたことがない。連絡先も知らないし、そもそも社内でプライベートな会話をすればすぐにウワサになり、すぐにバッシングされるのがオチ。そんな社風。
当時はバブル時代。世は派手で華やかでした。男女関係もオープンで軽薄短小と呼ばれた時代にも関わらず、この会社はあまりにもかけ離れていたのです。
‥‥楽しみはプライベートで見つけるしかないのか。
定時は9時から17時までだったが、土休日は第二土曜のみで、2ヶ月に一回交代制での土休日があった。これについては不満に思っていなかった。
「勤務地がミナミなので、退勤後に気軽に飲み会に行ける」
「若いので週一の休みでも肉体的な負担はない」など、さほどハンデを感じていませんでした。
会社員になって通おうと考えていた、文章や編集のカルチャースクールなどの習い事は、ほぼ土曜日の日中にあることを知りました。
これでは習えない。
このままでは空っぽな出版人になってしまうかもしれない。
まあ、とりあえず頑張って続ければ、何かが見えるかもしれない。
と思いながら3年、5年、10年と時は過ぎていきました。
ネガティブな書き込みばかりに感じるかもしれないが、これが若手時代当時(入社から32歳あたりまで)のボクの所感でした。
ずっと後になって気づいたが、理由は以下が考えられます。
・創立が古い企業は昔の凝り固まった価値観を持つ人が多く、出る杭は打たれてやり甲斐を失くしやすい
・労働集約型(工場や物流作業場など集団で作業する業務)の仕事は人間関係で神経を擦り減らしやすい
・ルーティンワークが固定した業務は慣れ過ぎるとネガティヴモードに陥りやすい
・専門職だと自らスキルアップに励むことができるが、取次会社はそんな業務がない。モチベーションが下がりやすい
・会社に思想がない。会社の方向性が何か分からない。よって社員教育もほぼ存在せず、目的意識が芽生えにくい
・社員教育がないゆえ、求心力が存在しない。仲間割れを起こしやすく、会社が分断されやすい
‥‥いわゆる『昭和的価値観』満載の会社だった。
当時はこんな中堅・中小企業が多かったのではないでしょうか?
今思えば、それもいい体験だったのかもしれない。
とにかく感謝、感謝しかない。
なぜならこれらの歩みなしで、今のボクがないからだ。