なぜ自分がスポーツをやっているのか。
先日、こんなツイートを目にした。
「こんな時だからこそ
こんな時だからこそ
考えてみよう。
なぜ自分がスポーツをやっているのか。
勝ちたいから。
代表になりたいから。
より深い部分まで
考えよう。」
元ペスカドーラ町田の中井健介選手の投げかけだ。確かにこの時期だからこそゆっくり、改めて考えられる気がして、私は筆を執ることにした。
私がスポーツ、殊にサッカーやフットサルをやっている理由は、「人生でもっとも続いている趣味だから」「その世界での人脈が何度も自分を救ってくれたから」「長く関わっているからこその課題感も強く、残りの人生で自分ができることに着手していきたいから」、この辺りに集約される。
年齢や環境が変わってもそのスポーツから離れないということは、純粋に好きなんだろうと思っている。現に「サッカー好きだよねぇ」と周囲から言われることも多い。ここにもう一言付け加えるとしたら、「こんなに長いスパンで自分の成長や変化を測れるモノサシはない」ということである。学業もせいぜい大学受験まで、ビジネススキルは社会人に限ったこと…それに対して例えばリフティング、小学校4年生のときは全くできないところからのスタートだったのが徐々にできるようになり、体育の授業中に100回達成、社会人になってからは遅ればせながら小技にも挑戦している。
競技としてのステップアップも、最初は適当なチームがなく入れず、高校で同好会、社会人でフットサルのスクール、競技フットサルチームのベンチウォーマーを経て、今はスタッフだが試合経験やライセンス取得を積み重ねることができ、昨年はリーグ優勝も果たすことができた。
自分がどんな道を歩んできて、どこに活路を見出だしてどう結果を出したのか。もちろん学業や仕事でもある程度のレンジで確認できるが、やはりサッカー・フットサルには及ばない。自分という人間を写す、最も的確なミラーだと思っている。
実はこの側面が「その世界での人脈が何度も自分を救ってくれた」というところに繋がっているのかもしれない。最終的に対となる会社を挙げてみると、これまたよくよく自分を知ってくれている同僚も多い。仮に転職をしなければなおのこと支えになってくれただろう、という存在も数人思い付く。ただ、ビジネスはアマチュアスポーツに比べてスピーディー(あるいはドライ)な判断で人をコンバートしていかざるを得ない。極端な言い方をすれば、遅い成長を待つより各所が納得する売り上げを立てることが優先だ。細かく見ていけば辛抱や妥協もあるが、あくまでビジネスとしての判断で業務を変えたり辞めたりせざるを得ない。
が、だ。アマチュアスポーツはそこまでシビアではない。プロに一度も足を踏み入れていない私は、時にお金を払ってこの世界にいる。辞める辞めないは本人次第だし、どんなに出来があれだろうとピッチに立ったり、ベンチの一員として選手サポートにあたったりすることが許されてしまう。ひいては、活躍するチャンスが平等に与えられる一方で、いわば出来不出来も丸裸である。そんなことを小学生からうん十年許されてきた。社会人フットサルの友人は長いと10年の付き合い。何をしても「またかよ」「お前さ…」といった調子になってきた。察してくれる範囲も大きく、「やばい」と思ったときにすっと手を差しのべてくれる。今のチームに至っては最も使えなかった選手だったにも関わらず、別でスタッフとしての経験を積んできた私を温かく戻してくれた。選手当時の話をされると非常にくすぐったい。ただ、だからこそ言われる言葉に重みとありがたさを覚えるし、「生かされている」と身に染みて感じる。
最後に書いた「課題感」だが、簡潔に書くのは難しいながら、"ラッキー”と”踏ん張り”に頼りすぎる風習をなくしたい、と思っている。私がここまでスポーツへの熱を失わないでいられているのはラッキーだ。先に触れたチームに戻って優勝までできたという話も、ひとえに辛抱強く自分のことを見てくれた先輩や戦友の存在が大きいし、片や指導者やチームに潰されるような人もいると思うと、かなり恵まれていたと思わざるを得ない。無論、どんな時代になろうと運も頑張りも必要だが、今はあまりにも「狭い的を狙った属人的な賭け事」に見える。抽象的な言い方ではあるが、スポーツに対する志がしっかり汲み取られ、汲み取られた先に最低限の環境やチャンスがあること、そしていい意味で再現性があること。
決して甘くしたいわけではない、厳しい世界を各々が自分の足で歩くための整地、なのかもしれない。