『デカメロン』読書メモ 第10日目
テーマは「寛大な心や気風の良さでもって恋であれ愛であれ何事かを成し遂げた人について」。各話の語り手たちが、自分の話の登場人物こそがいちばん寛大で豪儀だと競い合うようなかたちになっている。
第一話は、自分に対するの評価に不満がある騎士の話。自分を正当に評価しない王を、厩舎で脱糞せずに川で水を飲んでいるときに脱糞する驢馬にたとえる。王は、正当な評価ができなかったのは騎士に運がなかったから、というロジックで、片方には土が入っていてもう片方には宝物が入っている2つの箱のどちらかを選ばせる。
第二話は、追い剥ぎが修道院長を捕らえるけど身ぐるみ剥ぐかわりに修道院長を助け、そのおかげで法王から恩赦を受ける。坊様が寛大になることなんてありえないという皮肉を利かせつつ、めでたしめでたしなんだけど、追い剥ぎが修道院長を助けた理由がわからない。助ければ恩赦のチャンスがあるという計算だったんだろうか?
第三話は、とてつもなく気前が良いことで名声を得ているナータンという人物に憧れた男が、自分も気前の良さで名声を得ようとするけどどうしても敵わず、ナータンを殺すしかないと決意する。ナータンは男が自分を殺そうと知っていながら命を差し出す。自分の命を狙っている相手を、究極の気前の良さで屈服させて二度とそんなことを企てないように屈服させたということなのか、それとも、ほんとうにただただ気前の良さを追求しているかなりどうかしている人物なのか? 後者だとすると、施すこと自体が目的化してしまっているんだけど、でもほんとうにお金に執着なくて、困ってる人に施しまくってるわけで。
第四話。ある男が片思いしていた夫人が病気で亡くなると、男は墓に忍び込んで夫人の遺体に口づけして胸を触ると(完全にネクロフィリア)心臓の鼓動を感じる。実は夫人は病気で仮死状態になってるだけだった。夫人を自分の屋敷に連れ帰って蘇生させる。元気になった夫人は愛する夫のもとに帰りたいと願うが、命を助けてもらった恩があるから屋敷に留まる。自分には夫人を返せと言われても拒否する権利があるが、夫に返してあげる、どうです寛大でしょうという話なんだけど、そもそも夫人は夫のところに帰りたがってるわけでその意思に反したら監禁だし。いまの価値観からすると当たり前のことをしているだけとしか思えない。
第五話。ある夫人にしつこく言い寄る男がいて、夫人は男を諦めさせるために真冬に緑の庭園を造ってくれたら願いを叶えてもいいと返事をしてしまう。男のところに魔術師が現れ、金を払ってくれるなら庭園を造ってみせるという。魔法で出現した庭園をみせられて追いつめられた夫人が夫に正直にすべてを話すと、しょうがない、一晩だけなら男に体を許してもいいといわれる。夫人が男にそのことを話すと、男は夫の寛大さに感動し、夫人の体を求めるのをやめる。魔術師もまた男の態度に感動して謝礼を受け取らない。『デカメロン』の他の話なら角が立ちそうなところがぜんぶ丸く収まる話。
第六話は、美しい二人の娘を気に入った王が、欲望を自制して娘たちをよそに嫁がせる。権力を持つものは力を自制しなければならない(けどそれができる人は少ないよね)っていう話か。王であれば娘をさらってくることも可能で、実際、他の日にはそういう話もいくつか語られるけど、十日目の話はどれも上品というか建前的というかウラに対するオモテ側の話が集まってるのかな。
第七話。国王に身分違いの恋をした娘が恋患いで病みついてしまう。王の知り合いである楽人を介して想いを伝えることに成功する。他の日の話だったら王が娘とセックスして終わりなんだけど、この話の場合は王妃の許可を得てキスをするだけ。王は娘に婿を取らせ、娘のほうもそれを受け入れる。最終日ということで口当たりのよさを意識してるのかもしれないけど、ちょっと不自然なくらい。
恋患いで寝こんでしまって、とても叶えられそうにない望みが叶えられなかったら死んでしまう、というパターンの話は落語にもいくつかあるし、類話がけっこうあるんだろう。
第八話はローマ時代の話。ギシップスとティトゥスという二人が親友になる。ギシップスがソフローニアという女性と結婚することになるが、ティトゥスが彼女に一目ぼれして、前の話と同じく恋患いで寝こんでしまう。こんな悩みは親友に打ち明けるわけにはいかない、このまま死んでしまおうと一度は思うんだけど、ギシップスに問いただされてとうとう告白してしまう。親戚同士が決めた結婚だったということもあり、ギシップスは結婚より友情のほうが大事だ、とソフローニアをティトゥスに譲ることにする。ここで事情をソフローニアに打ち明けて了承してもらえばいいんだけど、そうなるとそこで話が終わってしまうので、ソフローニアには説明せずに、夜にベッドに入るときだけ部屋を真っ暗にして入れ替わることにする。ティトゥスが家業の都合で実家に帰らないと行けなくなり、ソフローニアを連れて帰ろうと真実を打ち明けると、当然ながらソフローニアは怒って親戚にも訴え、事件になって町中にも知れ渡り、ティトゥスは糾弾される。そこでティトゥスは親戚や町の人を集めて演説をして丸く収まるんだけど、ぜんぜん説得力がない。まず、入れ替わってるとはいえソフローニアはずっとギシップスと結婚してると思ってるわけで、たぶん昼間はギシップスとの結婚生活をして、ティトゥスは夜のベッドの中だけでしか逢ってないわけで、それで結婚してたといえるのか、セックスさえできたらそれで満足だったのか? あとは、起こってしまったことはしかたがないとか、すべては運命であり神の思し召しなんだから文句をいうなとか(どんな悪事をした人間もその論理でゆるされるのか?)、自分の家は有力者だから自分と結婚したほうが得だぞとか、もし逆らうなら実力で奪うし報復するぞと脅すし、完全に実家に帰った妻を取り戻しに来るDV夫みたいな言動だったり、当時の読者にすら受け入れられたか怪しい演説だけど(だからローマ時代の話にしたんじゃないか?)、とにかく周りの人間は説得され、ティトゥスとソフローニアはローマで暮らすことになる。その後ギシップスは没落して無一文になり、ティトゥスに助けてもらおうとローマに来るが、ティトゥスが自分を見捨てたと勘違いしてやけになり(落語の「怪談市川堤」に同じようなくだりがある。「市川堤」は新作落語かもしれないけど、講談に同じような話がありそう)、他人の強盗殺人の罪をかぶって死刑になろうとする。法廷にいるギシップスを偶然見かけたティトゥスは彼を救うために自分こそが真犯人だと名乗り出る。裁判の話題を耳にしたのか、本当の犯人が自分こそが正真正銘の真犯人だと名乗り出てくる。裁判官は3人の良心に従った行動に感銘を受けて3人とも無罪放免にする(良心に従って自首したとはいえ殺人犯も無罪にするのはどうかと思うけど、殺されたのも仲間の強盗だから、まあいいのか?)。友情こそが何よりも尊いのだということで話は終わるんだけど、前半がアレすぎて説得力を失っていると思う。
第九話。サラディンが身分を隠して西洋諸国を巡っているときに、トレルロ騎士にすばらしいもてなしをうける。サラディンはいつか騎士と再会することがあったら恩返しをしようと思う。その後、トレルロは妻を残して十字軍遠征に出て、戦に負けて捕らえられる。サラディンは偶然、捕虜になったトレルロと出会い、自分と対等な身分であるような客としてもてなす。トレルロが捕らえられた時、行き違いで妻のもとにはトレルロが死んだという知らせがいっていて、もし自分が死んでも一年と一か月と一日は待っていてくれという期限を告げていたが、周りの圧力もあってその日を過ぎたら再婚することになっていた。トレルロは自分が生きているという知らせが届いていないことを知り、期限までにどうしても帰らないといけないとサラディンに打ち明けると、サラディンはトレルロに豪華な衣装や財宝を持たせて、魔法でいっしゅんで故郷にワープさせる(異界から財宝を持って帰ってくるような魔法物語の影響だろうか)。再婚の婚礼の直前に到着したトレルロは、わざわざ婚礼の席にこっそり忍び込んで、式典の途中で正体を明かす。十字軍遠征、生きてるのに死んだと勘違いされたり、魔法、豪華な財宝など、ドラマチックな要素がてんこもり。
第十話、これで百話の最後なんだけどこれまた問題作。語りの時点から二百年くらい前の話。グワルティエーリという変わり者の侯爵が、身分の低い娘グリゼルダを嫁に取る。いきなり娘の家に行き、何があっても自分の言うことに逆らわず服従するかと訊ね、娘がはいと答えると、公衆の面前で裸にして新しい服に着替えさせる。グリゼルダは従順で頭もよく、庶民として生まれ育ったにもかかわらず、すぐに上流階級の作法も身に着ける。最初は夫婦仲睦まじく暮らしていたけど、グワルティエーリは妻が本当に信頼できるか試すために過酷な試練を次々と与える。罵倒したり周りの人間に嫌われてると思いこませたり、生まれた娘を奪い取って殺す(と見せかけて親戚の家に預けて育てさせるんだけど)、次に生まれた弟も同じように殺したとグリゼルダに思いこませる。こんな仕打ちを受けてもグリゼルダはじっと堪え、夫に逆らうこともない。とうとうグワルティエーリはグリゼルダと離婚して新しい女と再婚する。離婚していったん実家に帰したグリゼルダをもう一度呼び戻して、婚礼の準備を手伝わせる。それにもグリゼルダは立派に対応する。新しい妻として迎えた娘は実は親戚の家に預けていた長女で、そのときになってようやくグワルティエーリはすべては彼女を試すためにやっていたのだと自分の真意を打ち明けて、めでたしめでたしで終わる。いや、グワルティエーリのやってることはめちゃくちゃだし、「実はドッキリでした、子供たちも無事でした」と言われたところで、グリゼルダの精神的苦痛、子供たちは生まれてから実の親との暮らしを奪われてるわけで、それがチャラになるわけない。主人公が理不尽な不幸に次々見舞われるパターンの話はいろいろあるけど(神とか超自然的存在に試されるとか、残酷な運命に翻弄されるとか)、でもこの話の場合は、すべてグワルティエーリという一人の人間が仕掛けているわけで、話の最後で語り手は、グワルティエーリにグリゼルダのような聖女はふさわしくない、グワルティエーリなんて別に賢人でもなんでもない、と話の内容を否定して終わる。グワルティエーリもどうかしてるけど、すべてに耐えるグリゼルダも人間離れしてて、当時の読者にもかなり飲みこみづらい内容だったんじゃないかと思うから、語り手はフォローというかエクスキューズみたいなものとしてグワルティエーリを否定してみせたんだろうか。そうだとするといわば瑕疵や欠陥のある話をなぜ最後に持ってきたのか、かわりに第九話とかでもよかったんじゃないか。グリゼルダは、神にわが子を生贄にするように言われて従うヨブを連想させる。この話は神と人間の関係の比喩なんだろうか。だとすると、語り手は神を否定し、信仰を否定していることになる。『デカメロン』キリスト教道徳の否定というテーマが底流していて、この話もそういうことだとしたら、これを最後に持ってきた意味も納得できる。あとは、たんにキリスト教道徳を否定して人間の自然な欲望を肯定する、というレベルを超えて、反キリスト、悪魔崇拝の魔導書みたいなところまでいってる気がしてしまうんだけど、たぶんそれは私の妄想だろう……たぶん。
エピローグ、10日目の結びは、ここで話を終えることにして街に戻り、そこで解散して、けっこうあっさりと終わる。