【MLB】史上最悪の影響をもたらした「1994-95年ストライキ」
前回の「ピーター・ユベロスと共同謀議」においては,発展の光と陰を抱えた1980年代のMLBについてまとめていきました。
せっかく時系列で労働争議関連のnoteを作れているので,このまま1990年代の主な動きをまとめていきたいと思います。
メインテーマはやはり史上最悪の「1994-95年ストライキ」。今なおMLBに禍根を残し続けるきっかけとなった出来事です。その前段である,名物コミッショナー就任までの流れとともに,このストライキが球界に与えた影響をフォーカスしていきたいと思います。
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第1章 Fay Vincentの受難
1989年,共同謀議によって任期を更新しなかったPeter Ueberrothがコミッショナーから退くと,4月1日付けでBartlett Giamatti(バートレット・ジアマッティ)が就任。Giamattiはそれまでの数年にナショナル・リーグ理事長を務めていたことや,1984年のコミッショナー候補としても最有力であったことで,オーナー陣から満場一致の支持を得ていました。個人的には,イェール大学長時代に教職員組合と対立した過去や,1981年のストライキ時にMLB選手会に自制を求めるコラムを投稿した経緯を踏まえれば,組合敵視・オーナー親派の人材であったという印象が拭えません。
そんなGiamattiは就任直後から大きな問題に直面します。MLB歴代最多となる4,256安打記録を有するPete Roseが,野球賭博に関わっていた疑惑が浮上していたのです。(実際にはUeberroth退任直前に発覚)
Giamattiは顧問弁護士のJohn M. Dowdに調査を依頼し,計225ページの「Dowd Report」を作成。調査の中で,Roseは自身が監督を務めていたレッズの試合にも金銭を賭けていたことが発覚し,1989年8月24日に野球界からの永久追放処分という最も重い裁定が下されました。
のちにRoseは「毎日のように金を賭けていた」などと違法行為を認めたものの,当時は賭博を決定づける証拠が少なかったこともあり,Giamattiの裁定には多くの批判も集まります。極度な心労や,生前の愛煙が祟ったのか,処分から8日後の9月1日に心臓発作で死去。コミッショナー就任後わずか5ヶ月でこの世を去ることとなりました。
となると,次期コミッショナーを誰に任せるかが問題であり,白羽の矢が立ったのがGiamattiの補佐として副コミッショナーの立場にいたFay Vincent(フェイ・ヴィンセント)でありました。すぐさま開催された9月13日のオーナー会議にて,Vincentが就任要請を受託したことで第8代MLBコミッショナーが誕生することになります。
ここでオーナー陣には一つの誤算がありました。これまで念入りにコミッショナーを選出する時間があったことで,オーナー寄りの人物を登用できていましたが,今回は”Giamattiの急死”によってVincentを急遽昇格せざるを得ませんでした。そしてVincentは「コミッショナーは本来,労使双方に対して中立であるべき」との思想を持った人物であったのです。
またこの年の12月末には現行のCBA-6が失効を迎えるタイミングであり,野球界に緊張が走る時期でもありました。
4年前の1985年に締結されたCBA-6では,当時委員長を退任したMarvin Millerの後を継いだKen Moffettが交渉を担当。しかし彼がオーナー側に強硬姿勢を貫かなかったことで,”調停開始年数がプロ2年目から3年目に変更”といった組合側に不利な交渉が展開されることに。途中からDon Fehrが交渉を担当したものの,全体的にオーナー陣が勝利をおさめる内容となりました。
そこからも分かるように,1989年末の労使交渉は,かつてのように組合有利な協定を望むMLBPAと,CBA-6のような使用者有利な協定を望むオーナー陣営の激しい対立が当初より予想されていました。
一番最初に行われた労使交渉ですら1989年11月とスロースタートの様相。一方で,双方から提出されたプランの内容はかけ離れており,擦り合わせは困難を極めます。
まず,オーナー側の”入場料収入や放映権収入のうち48%を選手給与に充てる”といった施策は,選手の平均収入を20%増加させることができるとの説明がされます。一見すれば理にかなっていますが,並行して提案されているサラリーキャップや成果報酬型のシステムは,フリーエージェントや年俸調停制度への当て馬であることが明白。1-6年目の報酬決定方法についても,本拠地による投高・投低を考慮せず全球団の投手を同じ基準で算定するシステムであったことや,野手の守備成績を度外視した算定方式であったことで,選手会から痛烈に批判を受けます。
そもそもローカル放映権収入やチケット収入を多く受けていたビッグマーケット球団は,収益分配の悪影響をもろに享受するだけでなく,フリーエージェント選手の獲得においてもサラリーキャップが大きな障害となることが目に見えており,この提案自体に反対していたといいます。(この提案を主導していたのがミルウォーキーのBud SeligオーナーやミネソタのCarl Pohladオーナーであったことからも,小・中規模財政のチームが最も得をすることが一目瞭然。)
一方の選手会も,4年前の”CBA-6”にて交渉当初に提案していた「選手年金の拠出額6,000万ドル」がMoffettの弱腰交渉によって頓挫してしまった過去を踏まえ,強気に8,300万ドルを要求。もちろんオーナー側にとっては4,400万ドル(1球団あたり170万ドル)の負担増であったために却下されたことは言うまでもありません。
結局交渉は停滞,翌1990年1月9日にはオーナー側より「春季キャンプの中止」が言い渡されるなど,ロックアウトに突入しました。
ここで2月中旬にVincentが積極的に介入を試み,オーナー側へ折衷案を提示。①収益配分に関する調査委員会を設置すること,②労使双方が2年目終了時に労使協定をオプトアウトできるようにすることなどを示した上で,現時点での収益分配システムやサラリーキャップの要求を取下げるように要請。オーナー陣が渋々了承したことによって交渉が前進します。
最終的には1990年3月19日に”CBA-7”が成立。一時はシーズン延期が危ぶまれたものの,ロックアウトを32日間に留めたことで162試合を確保することもできました。
1968年の”CBA-1”にて最低年俸10,000ドルを勝ち取った選手会は,遂に10倍額となる100,000ドルを手にすることとなります。思えばこれはTed WilliamsやHank Aaronといったディケイドを代表するような選手のみが到達できた水準。かつての”最高”年俸が”最低”年俸になったことは,選手会の功績を確かに裏付けるものでありました。
そんな選手会とは裏腹に,オーナー側の心中は極めて複雑。自分たちが給与を支払って雇っているコミッショナーが,一切オーナー側の味方をせずに交渉へ介入。最後には選手会有利のCBAを易々と成立させる様は,面目丸つぶれであったでしょう。
そんなVincentコミッショナーと,オーナー側の不協和音が決定的となった出来事が起こります。
第2章 ”The Great Lakes Gang”の乱
1991年当時,2年後となる1993年に球団拡張を控えていた2球団(コロラド・ロッキーズとフロリダ・マーリンズ)から,1億9,000万ドルもの参入金を受け取ったVincentは,各球団に分配を行うこととなります。
2球団ともにナショナル・リーグへの参入が決定していたこともあり,本来であればナ・リーグのみに参入金を分配するところでしたが,Vincentは「ア・リーグの選手もエクスパンションドラフトに参加させること」を前提として,「ナ・リーグ各球団に1,200万ドル,ア・リーグ各球団に300万ドルを分配する」と決定します。
しかしこれにはアメリカン・リーグのオーナー陣が待ったをかけます。そもそも今回の球団拡張は,1985年頃に引き起こされた「共同謀議」による選手会への賠償金2億8,000万ドルを補填するために行われたもの。そのため,ア・リーグのオーナー陣としては,全26球団に均等割りされた750万ドル程度の分配を望んでいました。もちろんVincentは”共同謀議への補填”という裏事情を分かったうえで,本来分配金が貰えないはずのア・リーグにも分配を行ったのですが,この親切心が裏目に。Jerry Reinsdorf(CWS)やBud Selig(当時はALのMIL)を中心としたア・リーグの不満分子が増長していくきっかけとなりました。
また,当時は東地区と西地区による2区制を取っていたMLBでしたが,新規2球団の加入に伴ってナショナル・リーグは地区再編に迫られていました。
地図を見れば分かるように,1992年までのナリーグは歪な地区編成がなされており,アトランタ・ブレーブスやシンシナティ・レッズが西地区に置かれているにも関わらず,地理的には更に西に位置するはずのシカゴ・カブスとセントルイス・カージナルスが東地区に置かれているミステリアスな状況でありました。
Vincentはこれを受けて1992年3月,ブレーブス&レッズを東地区,カブス&カージナルスを西地区に再編することをオーナー側に要請。オーナー会議では10対2の賛成多数であったものの,肝心のカブスが再編に猛反対。ナ・リーグ規定では”直接関係する全てのチームの承認がなければ再編はできない”とされていたため,これは失敗に終わります。
当時カブスのオーナーであったTribune社はスーパーステーション「WGN-TV」を抱えていたため,西地区へ再編されることによってPST(UTCから8時間,ESTから3時間遅らせた太平洋標準時)での試合が増えると,シカゴや東海岸で放送される時間が遅くなり,テレビ放送での広告収入が減少すると危惧していたことが最大の理由でした。スーパーステーションの強みであるローカル放送の全国配信でしたが,仮に試合開始が3時間も遅くなってしまうと視聴者からすれば致命的ですよね。ただ,Ted Turnerでお馴染みのアトランタのWTBSだって西地区となっていたせいでPSTでの試合をスーパーステーションで放映していたわけで,結局はTribune社の幼稚なわがまま。
しかしVincentは同年7月6日,カブスの反対を横目にコミッショナー権限によって強制的に1993年シーズンからの再編を決定。「"best interests of baseball"(野球界の最善の利益)」との理由を述べたVincentでしたが,先ほどのナショナル・リーグ規定をひっくり返されたオーナー陣はこれに激怒。リーグ会長であったBill Whiteを筆頭に,Vincentへの嫌悪感をあらわにします。
結局カブスがすぐさま裁判所へ差し止め請求を行い,7月23日にはカブスの訴えを認める裁定が言い渡されました。これによってVincentは,地区再編は失敗しただけでなく,ナショナル・リーグのオーナー陣との間にも亀裂が走ったのです。
この2つの出来事が引き金となり,一部のオーナー間で「Vincent退任」を推す動きが加速。結局,1992年9月3日に開かれたオーナー会議にてコミッショナーの不信任案が可決されると,Vincentはこれを受けて辞任。歴代で最も中立的であったとされるコミッショナーは,悲しいかな中立を嫌うオーナーたちによって追放されることとなりました。(一方で,オリオールズのEli Jacobsオーナーや,のちの米国大統領で当時レンジャーズのオーナーであった盟友George W. Bushなどからは常に支持を受けていました。)
ちなみにこの際,Vincent下ろしを主導した5人については五大湖になぞらえて"The Great Lakes Gang"(ザ・グレート・レイクス・ギャング)とも呼ばれました。
このVincent辞任の影響は,MLB史において軽視されがちですが,間違いなく”野球界のターニングポイント”といえます。これによって今日においても毀誉褒貶が絶えない,あるコミッショナーが誕生することになったのですから。
第3章 Bud Selig時代の幕開け
1992年9月9日,セントルイスにて開かれたオーナー会議にて,次期コミッショナーの登用について議論が行われます。そこでオーナー陣は「MLB執行委員会(Executive Council)」の会長にミルウォーキー・ブリュワーズの現役オーナーであったBud Selig(バド・セリグ)を任命。そして「次期コミッショナーが決まるまで,執行委員会長であるBud Seligにコミッショナーと同様の権利を与える」としたのです。
それまでの歴史を見ても,球団経営に携わっていた人物がコミッショナー権限を持ったことはありませんし,労使交渉において確実にオーナー側に味方するような人物を据えた選択は茶番としか言いようがありませんでした。
そしてVincent時代に締結された”CBA-7”の期限が翌1993年末に迫っていたこともあり,Seligらが旗頭となって,再び「収益分配制度」や「サラリーキャップ制度」の導入を画策していきます。
先ほども記載したとおり,少なからず財政赤字を抱えていた小・中規模球団にとっては魅力的な「収益分配制度」は,黒字を叩き出していた大規模球団にメリットのない制度でありました。実際に1993年8月に行われたオーナー会議においてはヤンキース,メッツ,レッドソックス,ブルージェイズ,カージナルス…といった大都市の10球団が収益分配制度に反対。オーナー陣の中でも分断が生じていました。
一方で,際限なく上昇し続ける選手給与は全球団の悩みの種であり,「サラリーキャップ制度」導入は魅力的な案でありました。当時オーナー側の首席交渉官Richard Ravitchはここに目をつけ,『サラリーキャップ制度を導入することを前提に,収益分配制度を実施する案』を提唱。1994年1月20日には28球団のオーナーによる全会一致で承認されることになります。ちなみにRavitchはそれまでニューヨーク州の都市開発公社会長などを歴任した敏腕実業家。「組合潰し」の異名を持つ人物でもありました。
そしてすでにCBA-7が失効していた1994年6月14日,オーナー側は初めて労使協定案を選手会へ提示。ここで示された「サラリーキャップ制度」の概要は”全球団の総収益のうち,50%を全選手の年俸総額に充てる。また,チームごとの年俸総額を全球団平均の85%~110%に収める”といったもの。
もちろんDon Fehrを筆頭とした選手会側はこれを却下。そもそも,1993年時点の選手総年俸は全球団収益の58%ほどを占めており,提案された”総収益の50%”という数字は現状以下の水準。また,1990年~1993年に締結されたCBSとの全国放映権契約において,CBS側に5億ドルの赤字が発生しており放映権バブルが半ば崩壊。1994年以降の放映権収入,すなわち各球団の収益が大幅に下落することは決定的であり,この提案を受け入れれば給与水準がどうなるかは明らかですよね。
その他にも,「年俸調停廃止」「フリーエージェント権獲得を4年に短縮(★制限付き)」といったオーナー側の提案を,ことごとく選手会側が突っぱねています。
また,組合側も「①SuperTwoを廃止し,年俸調停開始を一律2年目に引き下げ」「②FA権取得を6年から5年へ引き下げ」「③最低年俸200,000ドルへの引き上げ」といった案を提示。もちろんサラリーキャップ制度を認めてもらえなかったオーナー側が,この条件を呑むはずがありません。
互いに譲歩を引き出せない中,ストライキやロックアウトを回避するために,米国議会ではこんな動きもありました。Howard Metzenbaum上院議員らが中心となり,「野球における反トラスト法適用除外の撤回」を軸とした法案を提出したのです。1975年のMessersmithらによって保留条項は打破されましたが,大規模なマイナーシステムやFA年数の設定は依然として反トラスト法から除外を受けていることを示していました。この法案を通すことで,反トラスト訴訟を恐れるオーナー側に圧力をかける狙いがありましたが,最終的には上院で否決されています。ここから分かるように,国民的スポーツである野球の労使紛争は,米国議会の趨勢にも影響を与えていたのです。
ただし,こういった状況であってもコミッショナーのSeligはオーナー側の肩を持ち続けたことで局面を更に悪化させていきます。もちろん彼には労使関係を正常に取り持つつもりは一切ありませんでした。
そして選手会は7月28日の選手理事会でストライキ投票を敢行。「オーナー側の譲歩がない場合,8月12日からストライキを実施する」ことで合意しました。オーナー側は放映権収入の75%程をプレーオフから得ていたのに対し,選手側は8月時点ではほとんどの年俸が振り込まれていた状況。選手にとって,オーナー側へダメージを与えるには最適な時期であったといえます。加えて,無給期間をしのげるように約1億7,500万ドルものストライキ資金を積み立てていました。
対して首席交渉官のRavitchが取った行動は選手会への懐柔などではありません。8月1日に行う予定であった780万ドルの選手年金の拠出を一律で停止したのです。これはオーナー側からの宣戦布告状。オーナー側もストライキを想定し,2億6,000万ドルのキャッシング枠を確保していました。
かくして1994年8月12日,史上最長となる232日間のストライキが幕を開けたのです。
第4章 1994-95年ストライキ
選手らが8月11日の試合を最後にフィールドを去ったあとも,連邦調停委員会が仲介を試みますが和解へ前進は見られず。8月下旬には強硬派Ravitchに代わって,ロッキーズのオーナーであるJerry McMorrisらが直々に交渉を担当。ここでMcMorrisが「Luxury tax(贅沢税)」のプランをオーナー陣へ提示。各球団の平均給与総額を大幅に上回るクラブに贅沢税を支払わせ,それを困窮しているクラブへ分配するシステムでありました。一部オーナーの反対はありつつも,素案を選手会へ提示します。
選手会側は贅沢税が持つ給与抑制の側面に抵抗を示しつつも,制度大枠に対して歩み寄りを試みます。
「①総収入・総年俸上位16クラブの収入額・年俸額に1.5%の課税を行い,下位12クラブへ配分」
「②ホームチームの入場料収入のうち25%をビジターチームへ分配」
といった具体的なカウンターオファーをオーナー側へ示したのです。
しかしこれを突き放したのがオーナー陣。「これでは赤字を賄えない」とする小・中規模球団の反対に煽られ,代替案を一切認めませんでした。
そして9月14日,Bud Seligコミッショナーは「残りのシーズン及びポストシーズンの中止」を発表。これまで第一次世界大戦,第二次世界大戦といった戦禍においても継続されてきたワールドシリーズも,MLB史上2度目となる中止を迎えたのです。
時のBill Clinton大統領すらも野球界の惨状を看過することができず,10月に入ると元労務長官William Usery Jr.を連邦調停人として任命。彼は自動車製造業における労使交渉で多大なる功績を持っていた人物でありました。しかし博覧強記のUsery Jr.を以てしても野球界における労働争議の複雑なルールや慣習に苦戦を強いられ,12月14日に仲介に失敗。そして12月23日にはオーナー側が「DeadLock(交渉打ち切り)」を宣言。一方的に「サラリーキャップ制度の導入」「フリーエージェント&年俸調停制度の廃止」を実施する凶行に走ります。
翌1995年1月にはSeligが会長を務めるMLB執行委員会にて「Replacement players(代替選手)によるシーズン開幕案」が承認。1994年までにMLBデビューを果たしていなかったマイナーリーガーや,すでに引退した元MLB選手による開幕を目論んだのです。「春季キャンプへの参加で5,000ドル,さらに開幕戦への出場で5,000ドル,シーズン通せば11万5,000ドルを支払う。」といった好条件は,これらの選手にとっては大きなものでした。選手会からの批判を覚悟した代替選手がキャンプ地へ集結しはじめます。
しかしオーナー陣はあまりにも勇み足が過ぎました。実は選手会は,12月23日のDeadLockに伴う一方的な制度変更に関して,全米労働関係委員会(NLRB)に告発を行っていました。これにより2月4日,NLRBが「サラリーキャップ制度の導入を取下げない場合,差し止め請求を行い,連邦裁判所へ提訴する」と通達。また3月22日には「FA制度および年俸調停制度を復活させる差し止め請求」を連邦地裁に要請。3月31日にSonia Sotomayor判事が差し止め請求を認めたことでオーナー側が窮地に立たされます。
そして4月2日,「新たな労使協定が結ばれるまでの間,旧労使協定のままシーズンを始める」ことを条件として選手会とオーナー側が妥結。ようやくストライキが解除されることになりました。これは前年8月12日から数えて実に232日目での出来事。
4月26日には念願の開幕戦を迎え,縮小された144試合でのシーズンが始まることとなります。
しかし,このストライキによる影響はあまりにも大きすぎました。失われた記録,収益,そしてファンの感心。ひいては悪名高い「ステロイド時代」の引き金となったのですから。
第5章 ストライキの余波
a.幻となった偉業たち
ストライキによって中断されるまでの1994年シーズンは,記録的な成績を残した選手が数多くいました。
それまで首位打者を4度受賞していたパドレスの安打製造機Tony Gwynnは,この年さらにギアをあげていました。4月22日から8打数連続安打を記録すると,オールスターブレイクまでに打率.383のハイアベレージを残します。ブレイク明けに限れば打率.423,8月に限っても月間打率.475といったホットストロークを展開。1941年にTed Williamsが記録して以降,誰も到達できなかった「シーズン打率4割」にじりじりと近づきます。しかし8月11日にシーズンが終了してしまったために,最終打率.394で僅かに及ばず。計算上,あと3安打放っていれば打率.400に届いていたのです。この年のGwynnなら…と嘆く人も多くいたことでしょう。
そんなGwynnがMVP1位投票を得ることはありませんでした。この年のナ・リーグMVPを獲得したのは,同じくフランチャイズスターとして名を馳せたアストロズのJeff Bagwellです。8月11日時点の110試合で打率.368 38本塁打 OPS1.201 rWAR8.2を記録しましたが,驚くべきは打点数。なんとこの時点で2位に20点差をつける116打点を記録していました。残る48試合を通常どおり消化できていれば,史上6人目となる170打点も夢ではありませんでした。ただ,ストライキ直前に骨折を負っていたので,シーズンが続いていればMVPを得たのはGwynnだったかも。
マリナーズのKen Griffey Jr.,ジャイアンツのMatt Williamsはそれぞれ40本塁打と43本塁打を記録。2022年にAaron Judgeが更新するまでRoger Marisが保有していた「シーズン61HR記録」を狙える位置にいました。なお,この年のア・リーグMVPはGriffey Jr.ではなく38HRを記録した帝京高校出身のFrank Thomas。Thomasはその後のキャリアでも43HRが最高記録であり,少なくとも50HRは狙えたであろうこの年にストライキが重なったのは無念ですよね。
チームでいえば,1994年に最もホットな存在であったモントリオール・エクスポズの名は欠かせません。共同謀議時代にはAndre Dawsonのような将来の殿堂入り選手をみすみす失うほどの暗黒球団でありましたが,1990年代に入るとKen HillやMarquis Grissom,そして後に殿堂入りとなるLarry WalkerとPedro Martinezといった若手選手の台頭によって躍進を遂げます。この年には74勝40敗でナ・リーグ東地区を快走し,念願のワールドシリーズ進出が現実味を帯びていました。
しかしポストシーズンが中止となったことで球団は1,500万ドル以上の損害を抱えることに。従前より屈指の小規模球団であったエクスポズはこの負債を抱えきれず,1995年シーズンまでにファイヤーセールを決断。
HillやGrissomらをトレード放出し,FAとなったWalkerにはオファーを行わず移籍。当たり前ですがこの年から負け越しが続き,弱小球団に後戻り。結果としてMartinezがトレードを要求する負の連鎖が重なりました。2004年にはこれを起因とする財政難によってワシントンへの球団移転を迎えることとなります。
b.ファン離れと放映権
4割打者の誕生やシーズン本塁打記録の更新。1994年シーズンはファンにとってワクワクするような年であったことは間違いありません。故に,労使交渉が暗礁に乗り上げた夏頃には,多くのファンがプラカードを手に持ち,シーズンを続行するように訴えかけます。「Kids Love Baseball」「Please, No Strike」というものもあれば,「Field Of Dreams Greed」や「The Strike Suck」といった強烈なメッセージも散見されました。そんな請願もむなしく,8月12日にストライキを開始した選手の姿を,ファンは決して忘れませんでした。
1995年4月26日に迎えた開幕戦では,球場に押し寄せたファンによるブーイングが鳴り響きます。メッツ本拠地・シェイスタジアムでは「GREED(強欲)」と書かれたTシャツをまとい,3人の観客がフィールドに乱入。選手たちに1ドル札を150枚も投げ捨ててセキュリティに拘束されます。これにはファンはスタンディングオベーションで呼応。
シカゴのリグレー・フィールドでは,開幕カードの記念品として配られたマグネット製のシーズンスケジュール表が,ある1人のファンによって投げ入れられると,周りのファンにも伝播。大量の記念品がフィールドに捨てられたために,試合が長時間に渡って中断される事態となりました。
ヤンキースタジアムの開幕戦に駆けつけたMLBPA委員長のDon Fehrへは,50,000人の観客から「You ruined the game!(お前が野球を台無しにした!)」とのチャントが駆け巡ります。
レッズのリバーフロント・スタジアムでは球場上空にプロペラ機が登場。後ろには「Owners And Players, To Hell With All Of You.(オーナーと選手達は全員地獄に落ちろ)」といった横断幕がくくられていました。
残念ながら,ファンの怒りはこのような表面上の出来事だけに留まりませんでした。観客減を見越していたロイヤルズは,開幕カード4試合にて各5,000枚もの無料チケットを配布することを掲げていましたが,開幕戦では過去10年で最低水準となる24,170人の動員に留まります。
ブリュワーズの本拠地カウンティスタジアムでの開幕戦では31,426人のファンが集まりましたが,開幕戦で50,000人を下回ったのは17年振り。ストライキ前である1994年の開幕戦では,風速12m/sに加え,気温-0.5℃という降雪下の悪天候にもかかわらず,約52,000人のファンが駆けつけていたことと比較しても影響の大きさがわかります。
1994年7月にキングドームの天井が崩落したため,ストライキ突入までビジターのみで試合を行っていたマリナーズでしたが,満を持してホーム戦を敢行。これも奮わず1981年以来最低となる34,656人の動員に留まりました。そのキングドーム老朽化に伴う新球場移転に揺れたマリナーズでしたが,"Refuse to Lose"に代表されるあまりにもドラマチックな展開を迎えることになります。(116 Winsさんの下記noteも是非。1本の映画のような読み物になっています。)
また球界全体を見ても,1994年に一試合平均31,256人を記録していた観客動員数が,翌1995年には僅か25,008人という水準まで低下。当然ながら,観客動員数が収益に直結していた小・中規模球団にとっては頭を抱えるような大ダメージとなっていきます。
そんなオーナー陣には,さらなる悩みの種が浮上してきます。
note中盤にて触れたとおり,1990年~1993年に締結されたCBSとの放映権契約において,5億ドルもの赤字が生じていたことが発覚。これによって放映権バブルが崩壊し,現行の放映体制を見直す必要がありました。
そこでMLBは1994年より「The Baseball Network(ザ・ベースボール・ネットワーク)」という独自のテレビ放送事業を開始。といっても,実態はABCとNBCによる合弁会社という形態であり,CBSのような赤字を1社が抱えるリスクを低減させる狙いもありました。この放映権契約は1994-1999年までの6年を予定していましたが,お分かりのように契約初年度にストライキが勃発。追い打ちをかけるように,収入の要であるポストシーズンまでもが中止となってしまい,MLBとABC&NBCは計5億9,500万ドルもの広告収入を失う大損害を被りました。
結局,損失を抱えたABCとNBCは,1995年シーズンを最後にMLB放映権事業から完全撤退を宣言するまでに至ります。数年前に巨額の赤字を抱えることになったCBSも手を挙げるはずがなく,放映権交渉はピンチに陥ります。しかし,ここで登場したのは当時まだ新興であったFox Broadcasting Company。それまでのABC・NBC・CBSによる”BIG3体制”に対抗すべく,5年5億7,500万もの超大型契約をMLBと締結したのです。窮地に追い込まれたMLBとオーナー陣でしたが,テレビ放送事業において新風を吹かせたかったFOXの台頭によって,命からがら救われる結果となりました。
2023年現在においてもFOXがMLBの全米中継を担っているのはご存知のとおり。
c.「裏切り者」代替選手
ストライキ中の1995年開幕前,Replacement players(代替選手)による開幕を目論んだオーナー陣によってキャンプ地に招集されたマイナーリーガーや元MLB選手でしたが,その顛末はあまりにも悲しいものです。
そもそも,1995年時点では40人ロスターに入っていなかったために,まだ選手会へ加入していなかった選手が代替選手の大半を占めていました。しかし使用者側が有利になるような「スト破り」を選手会側が看過するはずもなく,ピケットラインを越えてキャンプへの参加を思案するマイナーリーガーらに「代替選手として出場した場合には制裁を課す」との通達を行います。その制裁が,”MLB昇格後であっても選手会へ加入することを認めない”という手段でありました。例えばその後日本でもプレーするAlex Ramirez(ヤクルト)やShane Spencer(阪神)といった代替選手らは選手会への参加ができず,MLBPAがライセンス権を持たなかったこともあってチームの記念グッズや野球ゲームなどに名前が一切登場しないといった出来事がありました。
同じく代替選手としてキャンプに参加したドジャースのプロスペクト・Mike Buschは,1995年8月30日に念願のMLB昇格を果たします。しかしドジャースのチームメイトは誰一人としてBuschの昇格を祝福することはありませんでした。もちろんこれはBuschがスト破りを行ったことが原因。特に,それまで何年も選手会委員を務めていたベテランのBrett Butlerが激怒し,「3A・アルバカーキ行きの片道切符を渡せ」とチーム首脳を痛烈に非難したのです。当然のことながら試合前のキャッチボールはおろか,ベンチでBuschの隣に座るチームメイトすら居ませんでした。
迎えたBuschの初打席は三振に終わりましたが,ダグアウトへ帰る彼は,その日集まった4万人もの観客から大喝采を浴びることになります。対称に,この日打席に立ったベテランのButlerに対しては痛烈なブーイングが鳴り響きました。組合を優先し,若手チームメイトにいじめ行為を働くことを,ドジャースファンは決して許さなかったのです。
その後,ドジャース選手間による話し合いによってButlerとBuschは和解しますが,やはりBuschの選手会入りが認められることはありませんでした。
選手会に加入していなかった当時のマイナーリーガーらは,仮にキャンプへ参加していなければ無給・無保証で家族を養う必要があったわけで,斟酌すべき事情がありました。そもそも,球団からまともに説明を受けないまま,強制的にキャンプへ招集された選手もいたほど。
そして,多くのマイナーリーガーが代替選手としてキャンプに参加した中,話題をかっ攫った人物がいます。父の死を受けて1993年にNBAを引退,そこから野球へ転向を果たしていたMichael Jordanです。
Jordanはホワイトソックスと同じく,Reinsdorfがオーナーを務めていたシカゴ・ブルズの大スターであり,1991-1993年に3年連続となるNBAファイナル優勝を果たしたばかりでありました。
Reinsdorfら首脳陣は,代替選手の要請に応じないマイナーリーガーには練習施設を使用させない措置をとっておりましたが,特別待遇のJordanのみは例外とされていました。しかしホワイトソックスが何故かJordanに対しても練習施設の使用を禁じたことで関係は悪化。これにより3月2日,Jordanはキャンプ地を去ってブルズに電撃復帰することとなったのです。これに際しては,相棒Scottie Pippenが中継カメラに向かって,自身の履いていたAir Jordanのアウトソールを見せつけ,そこに描かれていたJumpmanを指さして復帰を呼びかけるシーンが有名ですよね。
その後,Jordanは1996-1998年に2度目となるスリーピート(3連覇)を果たしてGOAT(史上最高選手)の筆頭となるわけですが,もし1994-95年にストライキが勃発しなければどうなっていたのでしょうか。Jordanが野球を辞めることなく,そのまま引退。KobeやLeBron,Durantがその後のGOAT論争をリードしていたのかもしれません。そもそもBulls後期・Wizards時代のJordanに影響を受けたプレイヤーがNBAを志していなかったことも有り得るわけで,このストライキによってバスケットボールの隆盛までも変えた可能性があるということです。Jordanに影響を受けたプレイヤーによってNBAが発展を続け,今日においてはMLBを凌ぐリーグにまで成長を果たしたことを考慮すれば,皮肉にも”MLB”の1994-95年ストライキが,”NBA”における歴史上最大の転機と言えるかもしれません。さすがにそれは誇大すぎ?
d.ステロイド時代の始まり
1988年ALCS,Wade BoggsやRoger Clemensを擁するレッドソックスを4勝0敗で破り,ワールドシリーズに駒を進めたオークランド・アスレチックス。チームの原動力となったのは,この年MLB史上初となる「40本塁打40盗塁」を記録していたJose Cansecoに他なりません。このALCSにおいても3HRの大活躍を見せていましたが,ファンやマスコミが彼に向けていたのは賞賛や喝采ではありませんでした。実はこの時,Cansecoには筋肉増強剤であるアナボリック・ステロイドの使用疑惑が生じており,敵地ボストンなどでは大ブーイングを受けていたのです。(下記Tweetのジョークは傑作)
背景に触れておきますが,1988年当時のアメリカ人にとって,”ステロイドの使用”は特に忌むべき存在でした。前回noteにて取り上げた「ユベロス・マジック」の1984年夏季オリンピックで,大躍進を果たしたのが陸上競技選手のCarl Lewisでありました。Lewisはアメリカ代表として男子100m・200m・4×100m・走幅跳といった部門で金メダルを総なめにするセンセーショナルな活躍を見せ,全米を熱狂で包みます。
しかし1987年の世界陸上選手権ローマ大会の男子100m走,Lewisは当時の世界新記録を上回る9.93秒のタイムを叩き出しますが,そんな王者Lewisを破って金メダルに輝いたのが,カナダ代表のBen Johnsonであり,9.83秒のワールドレコードを樹立してみせたのです。
そして,アメリカ代表のLewis vs. カナダ代表のJohnsonの様相を見せたのが1988年ソウル夏季オリンピック。注目の男子100m決勝は巨額の独占放映権を得ていたNBCへの忖度として,アメリカのプライムタイムに合せるためにソウルの現地時間13時30分に行われることに。(普通であれば18-19時頃に行われるのが通例。)
結果はJohnsonが自身の世界記録を塗り替える9.79秒で金メダルを獲得し,Lewisは数メートル引き離されての敗北。全米が沈黙する結果に終わりました。
しかし,ここで急展開が起こります。レースから3日後の9月27日,Johnsonの尿から筋肉増強剤の一種であるスタノゾロールが検出されたとして,Johnsonの金メダルおよび世界記録が取り消されることとなったのです。これによってLewisは繰り上げによる金メダル獲得を果たした一方で,米国内において筋肉増強剤への風当たりを強くする大事件ともなったわけです。そんな騒動の直後に噂されたのがCansecoのステロイド使用疑惑であったことから,彼が大きな批判に晒されたのもうなずけますよね。(カナダ人のJohnson,キューバ人のCansecoという地政学的な要素もあったかもしれませんが・・。)
Richard Nixon政権下の1970年,米国内での薬物乱用を防ぐため,規制薬物法(CSA)が制定されていましたが,このオリンピックでの一件で国内での関心が高まったことも契機となったのか,1988年と1990年の2度に渡ってCSAを改訂。これによって【アナボリック・ステロイドの配布は,(1)医師の命令に従って行われ,(2)病気の治療の目的である場合を除き,違法とする】といった規程が追加されました。
MLBではこの規制強化だけでなく,「ピッツバーグ薬物裁判」によってMLBのコカイン汚染が明るみとなっていた過去も踏まえて,1991年6月7日に当時のVincentコミッショナーが「ドラッグおよび筋肉増強剤の使用を禁ずる」旨の文書を全選手へ通達するに至りました。
この通達に基づいた処分として,コカイン中毒に陥っていたヤンキースのSteve Howeへ永久追放が成されましたが,のちに苦情仲裁による調停によって処分が取り消されています。
また,あまり知られていませんがストライキ前となる1994年の労使交渉においてもSeligとオーナー陣から具体的な共同薬物プログラムが選手会へ提案されていました。
この処分対象にはドラッグだけでなく,アナボリック・ステロイドなどの筋肉増強剤も含まれており,かなり妥当な内容であったように感じます。
しかし選手会はこの提案を拒否。当時はサラリーキャップ制度や収益分配制度に揺れていた最中でもあり,Seligらもこれ以降は共同薬物プログラム導入に言及することはありませんでした。ただ,これだけ具体的な規制案を「選手会が拒否」したことはその後の球史において非常に重要なポイントです。
そして一番の問題はストライキが明けた1995年以降にあります。本章b.項でも触れたように,労使紛争によってファン離れが深刻となったMLBの最優先事項は「経済問題」であり,筋肉増強剤の規制が先送りとなっていたのです。これに関しては,のちにSeligや当時のMLB法務顧問であった現コミッショナーのRob Manfredも認めています。(Manfredはこの頃からずっとMLBにおける薬物規制に関わっています。)
そんな苦境のMLBに手を差し伸べたのがMark McGwireとSammy Sosaによるホームランダービーでしたよね。これについては昨年9月のnoteでまとめているのでここでは詳細を省きますが,McGwireが62HRを記録した1998年9月8日のカブス対カージナルス戦はFOXによる全米中継によって視聴率12.9%を記録。4,310万人もの視聴者が偉業達成を見守りました。
実はこの直前となる1998年8月22日,AP通信のSteve Wilstein記者がMcGwireのロッカーに”Androstenedione(アンドロステンジオン)”と記載された瓶が置いてあったことを報じています。これはテストステロンに変換される性ホルモンの一種であり,筋肉増強作用をもつ物質。明らかに1991年にVincentが通達した内容に違反するものでした。(ちなみにこの一件では当時のカージナルス・Tony La Russa監督がWilstein記者の報道を「プライバシーの侵害だ!」として激怒。彼をクラブハウス出禁にしています。)
しかしここでMLBと選手会が取った行動は最悪でした。なんとSeligとFehrが,アンドロステンジオンの筋肉増強作用に関する科学的研究の共同スポンサーになることを同意し,この物質を薬局などの店頭でMLB選手が購入できるようにしたのです。
McGwireが好んで使用していたことが明るみになると,アンドロステンジオンの売上は1000%増加。その後の国立薬物乱用研究所の2001年の調査によれば「男子高校生3年生のうち8%が前年中にアンドロステンジオンを使用したことがある」との結果を得たそうです。MLBにおける規制・処分の甘さが,一般社会にも影響を与えてしまったのです。
やはりこれも,McGwireとSosaのホームラン王争いによって生じる利益に目がくらんだ野球界によって引き起こされたものであり,その根源にあったのは1994-95年ストライキによってもたらされた観客数&収益の減少であったことは言うまでもありません。
その後のMLBといえば,McGwireやSosa,そしてBarry Bondsらの筋肉増強剤使用によるスキャンダルが相次ぎ,2004年から本格的な薬物規制が開始されることとなりました。現在ではこれらの期間を「ステロイド時代(Steroids Era)」と呼んでいますよね。しかしこれについても。労働争議が起こっていなければ一体どんな展開を迎えていたのでしょうか。Barry Bondsが本来の実力だけで500本塁打500盗塁を達成し,満票による殿堂入りを果たした世界線も有り得たのかもしれません。
第6章 贅沢税と収益分配の実現
1995年4月2日,連邦地裁からの差止請求を受けてストライキが解消されたわけですが,1995-96年シーズンにおいては旧労使協定を用いることになっていましたよね。当然のことながら,1996年オフには重い腰を上げ,労使交渉を進める必要がありました。これについては野球関係者のみならず,政府や国民の関心事になっていたことは間違いありません。
ただ,前回のストライキが良薬となったのか,オーナー陣は贅沢税(luxury tax)および収益分配(revenue sharing)を軸とした素案を1996年3月という早い段階にて作成。「①年俸総額4,600万ドルを超える球団に,超過額へ40%の課税」「②徴収額を経営難球団へ分配」といったプランを引っさげ,新たにオーナー側の主席交渉官となっていたRandy Levineが,Don Fehrらと膝をつき合わせて交渉を重ねます。(Levineは現在のNYY球団社長)
選手会側も,しきい値となる4,600万ドルを,6,400万ドルまで上昇させるといったカウンターオファーを出していましたが,基本軸には合意。8月9日~11日にはLevineとFehrが3日続けて会談を行い,早期解決に期待がかかります。
そして10月24日,以下の贅沢税プランが両者の間で暫定合意に漕ぎ着けました。
しかし,10月26日のワールドシリーズに出席したSeligが,このプランを巡ってFehrと激しく口論。結局SeligはReinsdorfとともに小・中規模オーナーの反対票を陽動し,11月6日に行われたオーナー会議にて賛成12,反対18の否決に持ち込みました。
「またもやストライキか・・・」と思われましたが,ここでSeligに思わぬ誤算が生じました。誰よりも年俸高騰に文句を言い,これまでの労使紛争を誘発させてきたJerry Reinsdorf本人が11月19日,FAとなっていたAlbert Belleと5年5,250万ドルの超大型契約を締結したのです。これは当時の史上最高年俸であり,歴史上初めてAAVが1,000万ドルを上回る契約でもありました。
もちろん,大規模球団のオーナーらはこれに怒り心頭であったほか,それまでSeligとReinsdorfに追従を強いられていた小・中規模球団の上層部にも大きな衝撃をあたえました。
結局,旗頭の裏切り行為が引き金となり,11月26日に行われたオーナー側の再投票で賛成26,反対4の大差に終始。12月5日には贅沢税および収益分配の仕組みを盛り込んだ”CBA-8”が正式合意されることとなり,ここ10年の労使交渉を振り返れば,あまりにも早い解決となりました。(もちろん厚顔無恥なReinsdorfは上記投票においても反対票を投じています。)
CBA-8の中でも,それまでワールドシリーズのみであったア・リーグとナ・リーグによる対戦をレギュラーシーズンにも組み込む「インターリーグの導入」はファンの関心を集めることに成功。さらに翌1998年からタンパベイ・デビルレイズ及びアリゾナ・ダイヤモンドバックスがエクスパンションによって追加されると新規市場が開拓。1995年には5,000万人に留まっていた観客動員数でしたが,これらの取り組みも相まって,スト前の1993年に記録した7,000万人という水準に押し戻すことにも成功しました。
このような好転機を迎えたMLBと選手会でありましたが,それを見守るかのように1997年1月20日にはあのCurt Floodが死去。彼が保留条項との闘いを決めてから約30年,選手会の奮闘によって多くの権利がもたらされてきました。彼がその権益を享受することはできませんでしたが,Floodの大いなる敗北なくしてここまでの成果を挙げることはできなかったでしょう。
そしてMLBはこの後,1994-95年ストライキを起因とした「ステロイド時代」に突入していくわけです。Bud Seligは果たして自身がもたらした負の遺産とどのように対峙していくのでしょうか。
最後に
最初から最後まで暗躍,というか名前が出まくっていたSeligでしたが,こういった歩みを見れば見るほど,よくこんな男が最近までコミッショナーに就いていたなと思います。一方で,相当な野球好きなエピソードもあって,Vincent退任後の1992年9月9日に暫定コミッショナーとなったわけですが,祝賀会を抜け出してチャーターでミルウォーキーにとんぼがえりしているんですよね。理由はフランチャイズプレイヤーであったRobin Yountの3,000本安打達成を絶対に現地で見届けたかったからというもの。
もともとブレーブスがミルウォーキーにあった時代にHank Aaronに魅せられたSelig。発足わずか1年で財政難に陥ったシアトル・パイロッツを買収しブリュワーズを建設。そして晩年のHank Aaronと契約を結んでミルウォーキーに呼び戻したほどの酔狂な男でもあります。
次回はいつになるか分かりませんが,ステロイド時代にフォーカスした内容で2000年代初頭を振り返えることができればと思っています。2018年11月にもステロイド時代関連noteを投稿させていただき,ありがたいことに未だに多くの方に読んでいただいているのですが,かなり稚拙な内容になっていて誤解を与えかねない箇所が多いです。なんせnote初投稿だったもので・・。ついてはこの機会に,【改訂版】としてちゃんと時代考証したものを出したいな~と思ってます。
⑤-dでまとめたMcGwireのアンドロステンジオン関係はすべてミッチェルレポートに記載されており,めちゃくちゃおもろいです。興味のあるかたは是非読んでみてください。
長い内容となってしまいましたが,面白ければ「スキ!」ボタンをお願いします!Twitter等で感想等もいただけると嬉しいです😎1960-80年代の労働争議については下記noteを是非!
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