遊び感覚 61-65話
61話 北海道貧乏旅行
今私は日本海を小樽より新潟に向かって航行するフェリーの食堂でこの原稿を書いている。室戸以来の大型台風にせき立てられて、慌てて旅立ったのは七日前。あこがれの異土の港に降り立った時の感動は、今なお新鮮だ。
北海道の魅力は、月並みに言うなら、文明の歯牙にかからぬ空白の大地にある。まぶたを閉じても、湿原に孤独に佇む「はるにれの木」や、人をあざ笑うように路上を闊歩するキタキツネ、緩やかな丘陵地帯に広がる尽きることを知らぬトウモロコシ畑を、造作なく思い浮かべることができる。
眠気の醒めやらぬ早暁の小樽を後にし、まず札幌に向かった。ここは通過地点。北大のクラーク博士の像を拝み、私はとても大志など抱けぬうつけ者だと詫び、そそくさと富良野へ直行して一泊。農業改善センターで最初の温泉につかる。
この湯は植物性の浮遊物を含む珍しいアルカリ泉で、塩別つるつる温泉もそうなのだが、長引くと体が溶けてしまいそうなほど濃厚な湯である。他方、川湯温泉のように硫黄臭があり、キリマンジャロ珈琲や三杯酢よりも酸っぱい湯もあって、各地にある温泉のPH値の開きがそのまま北海道の懐ろの広さを物語っているようだ。
帯広駅前の名物豚丼で腹を満たし、十勝温泉経由で、釧路へ車道を急ぐ。予定していた鰯料理の店は休みで、駅前通りのつるや食堂に入る。焼き魚定食四百五十円。手放しで喜べる最も充実した食事となる。釧路駅脇の一泊四百円のツーリング・トレインで寝袋に身を包む。翌朝、釧路湿原を快調に飛ばし、霧が立ち込めているはずなのに、雨風に吹きさらされた摩周湖を眺め、クッシーが泳いでいるはずなのに、魚影一つ見られぬ屈斜路湖畔を歩く。
粘った甲斐あってアイヌ人形を半額に負けさせたのが唯一の収穫。網走で初めて布団のある宿に泊まる。払暁のオホーツク海を左手に見ながら、知床半島へ出発したが、ガソリンのないことが発覚。えいままよと勢いをつけて時速百キロでウトロのGSに滑り込みセーフで胸をなでおろす。立入禁止の柵を乗りこえて眺めた乙女の滝は、絶景としか言いようがなく、しばし立ちすくんだ。網走に戻り、何も見えない闇夜の層雲峡をあっさり過ぎて旭川の宿へ。火災報知機を警戒しながら部屋で煮炊きして夕食。
久しぶりに寝坊して、美唄温泉で顔を洗い、小樽まで高速道路を滑走する。小雨のなか運河沿いに侘しく歩き、北一硝子で念願の六角ボトルを手に入れ、いくら丼と唐揚げとは違うザンギで夕飯。夜の街をあてどなく彷徨い時間をつぶし、同行の五人とワゴン車の中で一泊して、十時半発のフェリーに乗り込んだわけである。
振りかえれば安上がりな旅で、一人当たり交通費が一万四千円ほど、宿泊費が三千三百円、
温泉代千七百五十円。それもそのはずで、網走監獄でかつての囚人の人形の寝姿を見たとき、一人の女子学生が言っていた。私たちよりいいところに寝ている!
団体で旅行しても一人旅と同じような行動をとる私に、学生たちは辟易していたであろう。街につけばパチンコ屋のドアを押し、カレー店を見つければ、じゃあ自由時間ねと言って冷たく別れてしまう最低の案内人であった。
こうして現在帰路についているものの、再び北海道を味わいたいという思いは異様に強い。しかしながら、誰かと来るにしても、ウニ丼は駄目だけど、カレーならいつでもつきあうという手合いでないと、気まぐれな私と一緒に旅することはなかなか困難だと思う。
34年後の注釈
1) 新日本海フェリーは格安で当時の運賃が学生割引で新潟~小樽五千円。車の搬送料金も一万七千円で陸路を大間港までいくガソリン代を考えれば破格の値段。新潟を朝の十時頃に出て小樽に翌日の朝四時頃につく。往路では高校生のグループが同行の女子三人をナンパしようとしてやきもきしたが、彼女らもしたたかで適当にあしらってくれてほっとした。
2) 北大のポプラ並木は倒壊防止工事で通ることができなかったので、札幌は時計台すら行かずに通過しただけ。と言っても朝六時なので仕方ない。富良野では民宿に泊まった。「北の国から」の撮影現場の近くでニンジンの収穫を手伝うと宿泊費がただになるというオプションもあり、佐藤東州君などは真剣になってここに住みつこうと考えていた。(後に彼は九州旅行の折熊本で求人情報を漁っていた)。富良野ではラヴェンダーの季節が終わっていて観光客は少なかった。
3)キタキツネとは何度も遭遇。山之内君は目敏くもその歯茎を遠望して歯槽膿漏じゃないかと疑っていた。お菓子なんかやるのは罪だと怒っていた。帯広の豚丼は「ぶた丼のとんだ」をご当地出身の岩隈さんが教えてくれたもの。ご本人は地元だし面白くないと言って参加していない。そうだ!うろ覚えながら参加メンバーを書いておく。わが車はマツダのボンゴで9人乗り。助手席は山内志朗先生で後学生が7人いたはず。心理学科の恩田さん、わが人間学コースの石田さん(3年前に逝去)に斎藤さん、そして私の旅に必ずついてくる山之内君と佐藤東州。あと二人が思い出せない。購入したアイヌ人形に似ていた…文化人類学科の草薙だ。残る一人が誰か、これを読んで思い出した人がいたらご一報を。
4) 釧路湿原に丹頂鶴はいなかったけど、名物鰯料理にはありつけなかったけど、パチンコ屋はすばらしかった。昭和レトロの手打ち時代の台が堂々と居並ぶ。夜の宿は廃棄車両を畳敷きにしただけの一泊四百円の宿だが快適だった。東京から来て隣で寝ていた学生が寝袋をもたず寒がっていたので、新聞紙をあげたらいたく喜んで旭川の格安旅館情報を教えてくれた。なんと畳の部屋で一泊二千円。
5)川湯温泉で露天風呂だと思い注意書きもろくに見ずに東州君は服を脱ぎザブン。残念ながらそこは池であった。山内先生と東州君はここから電車で札幌のサウナで一泊して一日早いフェリーで帰った。用事があるとかで。
6) 北一硝子で学生たちが土産を買いあさっている間。私は街中の駄菓子屋めぐりをしていた。本当に駄菓子屋が多い街だ。しかもどの店も判で押したようにお婆さんが鎮座していた。
7) 北海道で悩ましかったのは「唐揚げ」と「ザンギ」。どこが違うのか山内さんととことん追求したけれど分からなかった。曰く、小麦粉と片栗粉の違い。曰く、下味をつけるかつけないか。あるいは地域差なのか。味わっても分からない謎なのだ。
62話 遅れてきた詩人
時おり黄金の雨や動物に姿を変えて人間世界と直接交渉をもつものの、大抵は、天界の御座から下界を見下ろし、雷を片手に峻厳なる統治を行なう神、宇宙の王ゼウスが、地球の分配をおこなった。農民、商人、職人から村の長や領主にいたるまで、われ先に分け前にあずかろうと殺到し、瞬く間に分配は終わったのだが、後からのこのこ詩人がやってきた。
ゼウスは困ってしまった。もう分け与える土地が残っていないからだ。なぜお前はもっと早くやって来なかったのか、とゼウスは尋ねた。詩人は、天上の音楽とゼウスの放つまばゆい光に陶然と酔って、つい世事を忘れてしまったのだ、と答えた。この返事に感じ入ったのか、ゼウスは、お前に与える土地はないが、ときおりこの神の主座に立ち、広く世界を眺めるが良い、と破格の待遇を詩人に許す。
この話は、ギリシャ神話に題材を借りた、ドイツの詩人シラーの「地球の分配」のおおまかな筋なのだが、今から半世紀ほど前、旧制新潟高校を訪れた作家太宰治が、軍靴の音が次第に高まりつつある暗鬱な時勢にあらがって、高邁な理想を掲げて夢を抱く学生を、詩人にたとえながら激励した際の、講演の基調となった物語でもある。歴史地図を時代順に追ってみれば容易に分かるように、人間の歴史は、実際、版図の塗り替えの繰り返しであった。そこには大国の興亡、民族の独立など、合併分離さまざまな形態があるにせよ、地球の分割という世事に関わる点では、ゼウスのもとに集まった民衆と同じ心理に揺すぶられていた、と言うこともできよう。
農民が耕作地を、職人が工房を、商人が店舗を望むのは、至極自然な感情であり、シラーは、その種の俗念を糾弾するためにこの物語を創造したのではなく、むしろ、遅れてきた詩人を、精神の風土を新たに分かつ時代の使者として描いたのではなかろうかと思う。ゼウスの玉座に腰を下ろした現代の詩人は、世界を眺めわたし、新たな世界地図を作製するだろう。あの場末の喫茶店は、母に連れられ初めてココアを啜った思い出のテーブルのある所であり、海に臨んだ小奇麗な水族館は、シカのような目をした恋人を思い焦がれて待ちぼうけした甘い香りのする電話ボックスがあり、あの坂道は真新しいブラウスを泥だらけにした忌まわしい場所であったり、詩人は、所有という観念をいっさい廃して、精神の白地図を自分の流儀にしたがって塗り分けてゆくだろう。
シラーの語った詩人には、ロマン主義芸術家の面影が濃厚に認められ、その意味では、少数の限られた高等遊民の自意識が見え隠れするのだが、遅れてきた詩人を、ごく普通の市井の人間として読み換えることも、あながち不可能ではなかろう。
その詩人は、朗々と麗句を読みあげることもなければ、余人にはかなわぬ見事な筆致で世界を描写することもない。ただ、この世の出来事を自分の心の鏡に慎ましやかに映さずにはいられない頑固者だ。彼の地図には、たった一本の境界線が引かれているにすぎない。好きなものと嫌なものと。愛するものと愛せないものと。テレビやラジオやあるいは仲間内で、鮮やかに引かれた優劣の境界は、全くもって意味をなさないのである。
最後に述べたこの控えめな意味において、遅れてきた詩人でありたい、と私はいつも願っている。
34年後の注釈
1)自分で言うのもなんだけれど、この「遅れてきた詩人」と「風を描いた画家」(第49話)は大変気に入っている。いま同じ文章を書けるかと言うと自信がない。若気の過ちかもしれないが、一気呵成の瞬発力が感じられる。元をただせば、太宰治が目敏くシラーの詩文を講演に使ったことに発端があるわけだが。
2) 太宰治の旧制新潟高校講演の話は山下肇「東大駒場三十年―教養学部と私と」 (1979年)で読んだので、てっきり佐渡旅行からの帰路で立ち寄った時のものが初出かと思って紹介したけれど、「三田新聞」昭和十五年一月二十五日号に、太宰治が『心の王者』という短文を寄せていて、学生本来の姿とはなにか、という慶応大学生からの問いに対し、「答案」として提出したのがこの物語詩だった。「心の王者」は全集に収録されている。太宰は仏文科なのにフランス語が読めず、旧制弘前高校ではドイツ語を習得した。だからシラーは原文で読んでいたと分かる。
3) シカのような目をした恋人。どうしてこの譬えを選んだのか。出所が思い出せない。おそらく谷川俊太郎の詩のどこかで覚えたのだろう。
63話 誰かと間違えられる
人は間違える動物である。コンピューターにはない人間の優れた特性は何か、と問われれば、即座にこう答えるだろう。日曜日なのにうっかり出勤してしまったり、左右柄違いの靴下を履いて気づかなかったり、考え事をしすぎて、お昼を二度食べてしまったり。結婚式の祝辞の際に「この度はご愁傷さまで」と切り出したり、工事現場の誘導員を警察官と見間違えて「すいません。つい出来心で」と告白したり…。こんな間違いをするのは私しかいないだろうが、まあ、とにかく、多かれ少なかれ、人はものを間違える才能をもっているようだ。私はこれまでの短い半生を通じて、何度も被害者になったことがある。
大学入学直後の春日和の午後、町への街道を弾む気持ちで歩いていると、前からジャガイモ太りのロシア系婦人が近づいてきて、「アレ、キール・ポランニサン!」と私のことを呼んだときほど背筋に凄まじい悪寒が走ったことはない。抗弁虚しく手を握られ、果ては彼女のアパートに連れ込まれ、「インドデオ世話ニナッタ日ノコト、一度モ忘スレテナイ」と涙ながらに、その日暮らしの窮状を訴えられた。余りに真に迫っていたため、適当に話を合わせたのが悪かったようで、十分後にどうやら気がついた時はさすがに腹が立ったらしく、「顔ハ黒イケド、アンタ、ベトナム人ナノネ、人マネシテズウズウシイ」と、部屋から転がるように追い出されたのだ。怒り心頭に発したものの、確かに、浅黒い肌に加えて、いかにも東洋人という私の風貌にも少々の責任があるのかもしれず、結局そのまま帰っていった。
目黒駅のプラットホームでは、もう少しで見知らぬ女性の跡取り息子になるところであった。ちょうど芝居の楽日にあたり、出たくない打ち上げの宴を体よくずらかり逃げ帰る途次、品川から電車が入線する寸前に、隣に並ぶ和服姿のおばさんが卒倒したのである。人道的見地から、私は近くのベンチまで推定体重60kgの彼女を運んだわけだが、意識は一向に不明のまま、家族の電話番号を聞いても黙ったまま。周囲が騒いだためか駅員がやってきて、二人して駅長室まで担いで行ったのだが、じゃあ私はここらで、と去りかけると「息子さんも居てください」と言う。冗談ではない。ウチの母はデブでもこんなじゃないよ、と喉まで出かかった声が、救急車の隊員に阻まれ、とうとう病院まで行ってしまったのだ。後から分かったのだが、独り暮らしらしく遠縁の人に連絡をしているらしい。気の毒とは思ったが、何もできないわけで、気がついてからまたベトナム人と間違えられるのもしんどかったので、トイレに行くふりをして逃げてしまった。
最近も事件があった。新宿での待ち時間、怪しい麻雀ゲームの店に入った。よれよれのシャツに黒っぽい背広という出で立ちだった。兄さんこれ両替して、と千円札を渡すと、急に慌て出し奥へ駆け込んで店長らしき男と交代した。彼は身をかがめて、失礼ですがお名前は、と小声で聞き、名を告げると、いつもご贔屓にして頂いてとか言って、一万円分の百円玉を渡すのだ。きょとんとしながら、冷静に四囲の状況を推し量り、なるほどと気づいて一目散、入れ墨者と間違えられた栄誉を誇らしげに、とある人に報告した。
34年後の注釈
1)「ご愁傷さまで」の言い間違えは一度きりだけれど、最近はよくラーメン屋に行くものだから、どこの店でも「有難うございました」と言うところ「ごちそうさまでした」と間違える。これは頻繁に起こるので恥ずかしいので気をつけたい。院生時代に紀伊国屋書店でフロアごしに十数冊本を選び、重たいからどこかで休もうと思って、会計を忘れて地下のカレーショップに行くともう支払ったものと勘違いして、そのまま千歳船橋の駅まできて、袋にも入っていない本を抱えている不思議にようやく気がついたこともあった。「すいません、会計しないで持ち帰りました。故意ではありません」と電話(当時はテレホンカードで)してからまた新宿に戻ったりした。
2)キール・ポランニに間違えられた事件は、町田の実家の金森バス停の前で起きた。ロシア婦人は近くの都営アパートに住んでいて、後で母から聞いたら、踊り子として日劇に雇われたものの容色の衰えとともに仕事の機会を失い生活困窮者となっていたらしい。今で言う認知症にかかっていて、見境いもなく路上の人に声かけていたのだそうだ。
3)目黒駅の件は民藝の久保まづるかさんの誘いで芝居にださせて貰ったときの稽古場からの帰り道だったに相違ない。いまでも多分同じように介抱するだろうし、行き過ぎたこともしていないから、逃げ去ることはなかったかなと思う。
4)麻雀ゲームの店は新宿三越の裏の路地でビアホール「ライオン」の近く。ここはゲームで買ったベットを現金に換金できる店だと後で教えて貰った。思い返すと服装で間違えられたのではなく、当時使っていた「歴史手帳」が黒地に金文字で「警察手帳」と誤解された可能性もある。麻雀もパチンコも今では携帯ゲームでできるので、店のゲーム機で遊んだ時代が懐かしい。新潟大学正門の近く、今はガソリンスタンドのある場所にゲームセンターがあって、そこでも独身時代麻雀ゲームをよくやった。勿論現金に換金はできない。でも連勝するとマスコット娘が服を一枚ずつ脱いでいく。最後までやり通すために毎日通ったりしたのはこの連載が始まる二、三年前だ。
64話 病は気から
病は気からと言われる。モリエールの芝居を持ち出すまでもなく、気に病むことから始まって、知らず識らずのうちに本当の病気になることも、ままある真実ではある。私は生まれた時こそ心臓が止まっていて、医者も看護婦も真っ青になって、熱湯をかけたり、マッサージしたり、果ては逆さ吊りなどして辛うじてこの世に連れ戻されたという経歴はあるものの、健康優良児であったことが何よりも語っているように、概して健康であり続けた果報者である。病気で苦しんでいる人には申し訳ない限りだが、子供の頃、病気になることは憧れですらあった。学校は休める、ふだん買ってもらえない漫画も枕元に置いてくれる、食事からして違っていて、絵の時間しか拝むことのできない果物など、妹たちの羨望の眼差しを涼しい顔で眺めながら頬張ることができた。
中学校にあがったころ、丸谷才一の訳したジェローム・K・ジェロームの「ボートの三人男」を読んで、私の病気願望は一層甚だしいものとなった。というのも、この小説の冒頭では、気に病む男が痛いところがあると医学事典をあさって、如何にもそれらしい病気を必死に探しているからだ。私も先哲に倣い不調を感じる部位があるごとに、重たい医学書をパラパラめくり、これはきっとマラリアに違いないとか、いや、男性ヒステリーの初期発作である、といった風に、ありもしない病気を想定しては悦に入っていたのである。
新潟に仕事の口があって応募しようと履歴書の空欄を埋めていた時ほど、虚しい気持ちに襲われたことはない。既往症という欄があるのだが、書くべきものに詰まり困ってしまった。そのままにするのは癪だし、かと言って誇るべきものは何もなく、また人から分けて貰える筋合いのものでもない。先天性夢遊病、早発性貧乏性、伝染性能弁症。いろいろ浮かんだが、どれも決め手に欠いている、とペンで顎をなでようとすると、あらら、鳩尾のあたりがきりりと痛んでいる。やったと思って、肋間神経痛としたためた。
さて、この地に赴任してから六年の間に、私はことあるごとに、今度こそ正真正銘の病いに違いないと確信しては、近所の長野神経内科の扉を押すのだが、良くても風邪と診断されるくらいで、悪いときには生活のだらしなさの端的な現れに過ぎないと喝破されていた。ところが最近状況は一変した。踵が夏ごろから痛みだし、もしやこれは痛風なのではないか、と疑うようになったからだ。生まれて初めての血液検査をしてもらい、尿酸値を調べてみると、とうとう動かぬ証拠を得たのである。ここに至って初めて、幼少の折からの念願であった品質保証つきの病気になれたわけだ。
痛風友達もできたし、やっと一人前になれた安堵感に浸れると思いきや、さにあらず。健康を害された者の苦しみが急に身近に感じられ、これまでのやんちゃな病気願望を遺体までに反省した次第。当分美味しいものは食べられないし、体重も減らさなければならない。ふと吉行淳之介の珠玉の短編「童謡」に出てくる太っちょの少年を思い出したりした。慎ましい食事にも活路を見いだし、改めて、蒟蒻や海藻の隠れた価値を理解した。そうだ、下仁田へ行って究極の蒟蒻でも探すことにしよう。
34年後の注釈
1) モリエールの「病は気から」は高三の時の文化祭でクラスの出し物で上演した。演出だけの予定が役者不足で急遽にせ医者の役を。写真が残っていて見ると随分とスリムだ。別役実の戯曲「病気」にはやたらと注射を打って貰いたがる患者が出てくる。
2) 病気で熱を出すと確かにふだんは買って貰えない「少年サンデー」が枕元にあって、「伊賀の影丸」や「サブマリン707」を楽しんだ。バナナも当時は高価な果物で病気のときだけ食べた。すりリンゴも。両親とも教員でふだんは帰っても不在の時が多かったが風邪を引くと母は家に居て看病してくれた。
3) ジェローム・K・ジェロームのこの本は家の書棚にあった。母の友人が丸谷才一の奥方で大抵の著訳書は読むことができた。平井啓之(仏文)、篠田一士(英文)それに小尾信爾(天文学)の女房も母の大学時代の友人で、学生時代にそれぞれの先生方にはお世話なった。小尾先生は入試の時の数学の採点者でこっそり六問正解と教えてくれたし、平井先生の家は駒場にあって、入試の二次試験の時発熱して終了後お宅で休ませて貰った。吹き抜けの書棚に囲まれた書斎のアリストテレス全集、プラトン全集が並んでいるのを目撃し、学者の習いと思いすぐに両全集を揃えた。
4) 新潟大学助手の公募を知らせてくれたのは東大を退官されてから新潟大学に移られた渡邉正雄先生。ちょうど芝居の活動をしていた時期で正直余り乗り気にではなかったので履歴書の既往症の欄に「肋間神経痛」(夢遊病も)と書いた。当時審査に当たった故児島洋教授は「病気もちだから不採用」と言い張ったが、言語学の故山崎幸雄先生が「この人は冗談の分かる人だからいいんじゃないか」と擁護してくれたらしく、晴れて採用となった。哲学の佐藤徹郎先生だけがちゃんと論文の内容を読んで合格にしてくれた。乗り気でないから三年くらいの気持ちでいたのが、とうとう定年まで37年間務めることとなるとは!
5) 痛風になったというこの記事を見たのか「痛風の友の会」から歓迎の意を表わす手紙を貰った。友の会の新聞も同封されていた。自意識の強い集団らしくどこかしら痛風であることを誇っているような感じだった。前項で述べた児島先生も痛風で「血液型がBで攻撃的な性格の男が痛風になるんだ」と嘯いていた。それは先生ご本人のことでしょうに。
6) 吉行淳之介の「童謡」の男の子は一度痩せてからまた元に戻るのだったか、まるで芥川の「鼻」みたいなプロットだったか。手元になくて確かめられない。
7) 下仁田にはすぐに行ってみたら「こんにゃく会館」のような物産館があって手作り体験ができた。後に「孤独のグルメ」で五郎さんが下仁田に行った時は「一番」のタンメンと隣の「コロムビア」の豚すき焼きに下仁田ネギが登場したけれど、蒟蒻は出てこなかった。
65話 空想音楽会
さあ、よくいらっしゃいました。靴はそこらに適当に脱いでくださいよ。そうだ、スリッパはどこかな、あったあった、どっちが右か忘れましたが、どうぞ履いてください。いや、そっちは勉強部屋ですよ、ふーん本がいっぱいあるって、まあ数だけはあるけどね、実際読んだのは序文と後書きくらいです。とにかく、こちらへどうぞ。台所を通って居間へと。
うん?どうして居間の入口を塞いだかって?すきま風のためなんです。こうして障子を閉めても、五十嵐浜の砂を運んでやってくる。仕方なしに本箱でバリケードを築いたわけ。それでも一月に五グラムは出るかな。まさに「砂の女」の世界。そこのソファに座って、今ロウソクをつけますから、ええ、電気だと味気ないでしょ。音楽を聴くには、第一光を考えないといけません。東京のエトセトラという店で買ったスペイン製のだと思うけど、いやいやそんな、人間燭台なんて物騒な、あくまでもムードづくり。さてと、小樽で買ったシェリー酒用グラスにアモンティラードを注ぎましょう。違いますよ、とんでもない。確かに私はE・A・ポーが好きですが、復讐なんて恐ろしい。
では、第一曲目です。これはシャルランという技師の録音で、ピアニストは忘れましたが、とにかく変わったレコードでしょ、ベートーヴェンの30番ソナタ。全部クラシックかって?そんな野暮じゃありませんよ。おっと、お湯が沸きました。雲南七子餅茶を飲みながら、昔懐かしきD51の轟音が第二曲、郷愁を誘いますねえ。さてと、今ヘングステンベルク社のカリフラワーのピクルスを持ってきます。これを食べながら、ジャンゴ・ラインハルトを聴きましょう。そう、三曲目ですね。泣けてくるでしょう、ピクルスの酸っぱ味とギターの侘しい擦過音、憎い組み合わせですよね。
優しく泣いているようだって?あなたも通ですね、ジョージ・ハリソンを知ってますね。そこで次はビートルズだと思うのは考えすぎでして、第四曲は、エディット・ピアフの歌う「バラ色の人生」。冷凍品の赤色のピラフを食べながら、まあ、俗にチキンライスと言いますが。少しはお腹膨れましたか?デザートに丁度いいものがあります。グアム島土産なのになぜかハワイ産のマンゴのアイスクリーム、いえ、貰い物です、私は飛行機駄目ですからね、これにぴったしなのが、第五曲、江差追分です。ハワイと関係があるかって?ウェーゲナーという人の学説によると、昔は陸続きだったそうですよ。
そろそろさっぱりしたものが飲みたいでしょ、レモングラスとペパーミントをブレンドしたハーブティーにしましょう。白磁のカップがいいですね、そうしてエンヤのイヴニング・フォールにしみじみと耳を傾ける。はい、第六曲のことです。
さあ、最後に生演奏で締めくくりましょう。そう、このピアノでね、やっぱりクラシックかって?いえいえ、加茂市のおばさん達に案外受けたんで、気をよくしている即興曲です。題して「中年になった鉄腕アトム」。何度弾いても同じにならないんです。ええ、まあ何せ鉄腕アトムですから。
さてと、今日はわが家の空想音楽会に足を運んでいただいて、大変感謝しております。えっ、誰がこんなの聴くかって?ごもっともなことで...。
34年後の注釈
1)大学から歩いて十分のこの貸家は3DKで3万8千円という破格の条件。ここにくる前は学生用の6畳一間ユニットバスのアパートで3万5千円だった。初任給16万円の独身公務員の生活で家賃は重要な条件。余程海辺にテントでも張ろうかと思ったが、講座主任から「それはやめてください。連絡先の住所があるところにして」と言われてしまった。もっとも歩いて十分なのにそれも面倒と研究室にベッドを置いて暮らしている時期もあった。人間学資料室という図書室兼宴会会場が隣の部屋でそこで食事をつくることもできた。
2)これはあくまでも空想音楽会だが、学生を招いて似たようなレコード鑑賞会をよく開いた。北海道旅行に同行した当時2年生の石田純子さんが最も多く参加した。惜しくも三年前に50歳の若さで逝去。教え子に先に逝かれるのは辛い。
3)安部公房「砂の女」は学生時代に読んだけれど、まさか海沿いの家に住み毎日砂を掻きだす生活になるとは思いもよらなかった。
4)東京のエトセトラが思い出せない。下北沢だったか吉祥寺だったか。いや千歳船橋かもしれない。よく買い物をした雑貨屋。音楽を聴くときの照明を気にするのは今もそうだ。照明が明る過ぎると大抵は光が音に勝ってしまい落ち着いて聞けない。(例外はメンデルスゾーンの交響曲4番イタリア)。
5)シェリー酒のアモンティラードと言えば、エドガー・アラン・ポーの「アモンティラードの樽」。仇敵をシェリー酒の蔵に閉じ込めて復讐する話。この話を下敷きにして映画「バベットの晩餐会」にもアモンティラードが登場する。これはあくまでも空想。実際に学生に飲ませるのは勿体ない。酎ハイで十分だしその方が好まれるから。
6)シャルランの録音のレコードは千歳船橋のレコード屋で入手した貴重なもの。ピアニストはエドシーク(ドイツ語読みだとハイドシェック)。バレン・ボイムと敵対関係で干されてしまった演奏家。
7)雲南七子餅茶は新潟市東堀通りのキレイ茶館で手に入れたもの。蒸気機関車D51の走行音と警笛はレコードで昔出ていた。ジャンゴ・ラインハルトはユーロジャズの名手でこれはCDになってから神田古書店ビルのメロディアレコード店で手に入れた。ステファン・グラッペリとどちらにするか迷うところだ。ジャズ・ヴァイオリンもなかなか良い。ラリー・コリウェルとの共演のレコードをもっている。
8)エディット・ピアフは母の影響が大きい。子供の頃から、ジュリエット・グレコ、ナナ・ムスクーニ、イヴ・モンタン、ジルベール・ベコー。フランス語の意味が分からないまま歌詞だけは覚えているものが多い。歌声だけだとマリー・ラフォーレが好き。でもCDが見つからなくて困っている。
9)エンヤも当時はよく聞いた。これはジャンルが難しい。オリノコ・フローの反復が耳朶から消えない。本当に写真通りの女性なのか。天は二物を与えたのか。
10)即興演奏と言うと聞こえはよいが、採譜をきちんとできないため再現性が低いだけのことである。