遊び感覚 41~45話
41話 いたずらが好き
最近は、私とて、立場というものはある程度は考えざるをえないため、めっきりいたずらをしなくなった。この年では、下手をすれば犯罪になりかねないし、見事成功したところで、喝采どころか憐憫と蔑みの入り混じった冷たい視線を浴びることになるからだ。私の愛読書、A・スミスが書いた「いたずらの天才」(文春文庫)は斯学の古典的名著とも言うべきもので、ここに盛られたいたずらの大部分は、学生時代に実地に試してみた覚えがある。
子供のころのいたずらは、今から思えばかわいいもので、例えばこんなことをした。まだ、東京と言っても畑がたくさんあるころで、通学路に三つも肥だめを設けて、付近の小学生を多大な危険に曝している地主がいた。イモや柿をちょっとくすねた程度でも、捕まると正座させられ、人生とか社会秩序などというややこしい文句を並べてはくどくどと説教された。
ある日、「番場のおやじはくそおやじ」と数人ではやしたて、怒り狂って飛び出したおやじに背中を向けて逃げ出した。追ってくる。後は予定どおりにイモ畑に一目散。わざと隅に集まり「ごめんなさい」と健気にも言う。もとより、うん、そうかで済むおやじではない。学童たるものは、で始まる長い演説をぶちながら、じわじわ近寄ってくる。やったと思った瞬間、道を説くことの好きな初老の男は、ぶざまにも落とし穴の中に身を沈めていた。返す返すも惜しいのは、穴の底に問題となっていた肥えをたっぷり入れておかなかったことである。
成長するにしたがって、いたずらの質も知的なものになっていったように思う。高校時代だったと思うが、仲間に向かって真面目な顔をして鼻頭に指を当て「人には鼻の軟骨が割れている者とそうでない者がいる。どうやら遺伝するらしく、割れている人間は、性情淫乱の気がある」とまことしやかに教える。実際大抵は割れているわけだから、ぎくりとする奴もいる。そんなの嘘だろ。だれも信じないかに見えたが、一週間もしないうちに、休み時間の廊下で、こっそり自分の鼻を指で押さえている友人を見るのは痛快この上なかった。
大学時代は、いたずらのおかげでえらい目にあった。心理学のリポートを完全に捏造したデータを元にして書いた時だ。「幼児期における旋律把握に関する実験」などと、一丁前のタイトルをつけて、三十人ほどの幼児を集めて実験したことにして提出した。呼び出しを受けた。まずいと思ったが仕方ない。死刑台の階段を登るようにして、おずおずと教官の研究室を訪ねて行くと、これ面白いから学会誌に載せるよ、などと言い出す。今更、あれは、なんて言えないし、結局そのままうっちゃっておいたのだが、考えてみると相手の方が一枚上手だったのかもしれない。
現在は、私も教壇に立ち、学生と向かい合っているわけだが、何しろ、逆の立場の時はしたい放題のいたずらをしてきた関係で、教室に入る時は、もしや、とつい警戒してしまう。黒板ふきは落ちてこないか、椅子に両面テープが貼ってないか、机の中にゲジゲジはいないか、女装した学生はいないか、今にして罰を受けているようだ。
[33年後の注釈]
1)立場を考えないといけない年齢になってからした悪戯をここに告白する。院生時代から編集の仕事をしていた『科学史技術事典』(弘文堂)。編集助手のバイトと聞いて安請け合いしたが、実に大変な仕事だった。何しろ60項目も依頼した先生方が遅筆や行方不明で穴を開けてしまい、編集者の一人村上陽一郎先生が「だったら井山君が書けばいいんじゃない」と変なアドバイスをして、急遽、佐木陽介という架空の研究者になって(このペンネームはこの事典でしか使っていない)、蘭学者や博物学者などの人名項目、石油、石炭などの誰もが書きたくない項目をあれこれ調べまくって書いた。だがこれで終わらない。全項目のチェックをしないとならないゲラ刷りも出てからの差し迫った時期に、渋谷のまるで三文文士が宿賃を滞納して逼塞していそうな商人宿に、私を含む院生四人招かれ、三日で科学史年表を作れと言う。文句たらたらで精根尽き果てて終えたら、私の最後の仕事がまだあると言う。索引の作成?それって編集者の作業じゃないんですか?ええ、まあ確かに私は編集助手なので。凸版の控室に缶詰になって索引の項目を拾っていく。そこで閃いた。「科学者の異常死」という項目を立て、自殺、行方不明、他殺など死因別に記事を拾っていった。打ち上げの時に、坂本賢三先生から「科学者の死に方」って本を書いたらどうだ、と勧められ満更でもなかった。この索引はまだ訂正されていないので、ぜひご照覧あれ。
2)文中の地主の番場さん。家から世田谷通りを渡ってすぐに大きな敷地がある。樹齢百年以上の杉が鬱蒼と立ち並ぶ、いかにも治安の悪そうな暗い小道をつくっていて、ここを通らないと千歳船橋までいけないので、いつも怖い思いをした。落とし穴に中には糞尿はもちろんのこと蛇や蛙の死骸を落としておく。ずいぶんと酷いことをしたとは思うが、落ちた連中の顔ぶれを思い出すと、今でも、ざまー見ろという気持である。
3)軟骨が割れていると淫乱、というデマを考えたのは私ではない。言い出した本人がその気配があったから説得力を感じた。その時以来彼とは話していないから、詳しい経緯は不明である。私は「あっ、豚が空を飛んでいる」の方が好きだったし、これは教師になってからもときどき試した。大抵、数人が空を見上げてくれる。
4)心理学の教官は鹿取廣人先生。当時46歳。実はこの記事を書いてからさらに十年後に集中講義で新潟大学にやってきた。これを機会にもう十分に時効になった悪事を謝罪したらなんと覚えていた。「絶対音感の実験はまだ注目されていなかったから、斬新な発想だと思った。文学部心理学科にスカウトしようかと考えていたのに、君、来なかったでしょ、あの時」と怒っているのか笑っているのか分からない顔をしていた。でも心理学科に行かなくて良かったと思っている。だって理学部の人間からすると心理学の実験ってままごとみたいですから、ともう少しで言いそうだったけど、そこは大人になっていたので堪えることができた。
42話 野球解説者になったら
運動会の徒競走では、小学校から九年間続けざまにビリになったという、情けない記録を私は持っている。何でも体育教師の観察によると、私は斜め上方に向かって走ろうとする不思議な癖があり、そのため横方向の勢いが他人よりも弱いのだそうだ。しかし、だからと言って、スポーツが嫌いということは全くない。観るのも、そして自分でやってみるのも、いずれもかなり好きな部類に属していると思う。
高校時代には野球部にいたことがある。すでにお分かりいただけた思うが、なにせ足が遅いため、きわどい打球でも大抵アウトになってしまう。そこで考え、ホームランとか長打はまず望めないから、ひたすらファウルチップで粘る作戦に出たものだ。大学では人材不足のため、ピッチャーマウンドに登ることもあった。短期間だったが、私の落ちる魔球は研究室仲間から恐れられていた。しかし、その落ちる原因が、単に球が遅く万有引力に屈服しやすいことにあることを見抜かれてからは、ピンポン球のように打たれてしまった。
昭和38年以来、一貫して私の家は阪神ファンである。江夏が中日相手に延長11回をノーヒット・ノーランで抑え、揚げ句自分のバットでホームランを叩き出し、一対ゼロで勝った試合など、十年以上昔の話ながら今でも思い出しては興奮してしまう。ところで、昨今の野球解説には腑に落ちない点が多く、ときには男性ヒステリーを起こしてしまうことすらある。一見データ重視の立場をとっているように見えるが、その解釈には哲学的欠陥があるためだ。
一点差の九回裏阪神の攻撃。投げるは巨人の斎藤。ランナーは満塁で期待はバッター岡田に集中する。こういう場合、解説者は実にいい加減なことを言う。「岡田はこういう場面では力んでしまうことが多いですね。それに斎藤には苦手意識があるようで…」。ところが、見事打球が三遊間を抜きサヨナラゲームになったりすると、「満塁の緊張がいい意味で作用しましたね、苦手意識が発奮材料になったんですね」。
同じ原因が成否いずれにもつながってしまう見事な両刀論法と言えなくもないが、私が解説者だったらもっと違ったことを言うだろう。「岡田は昨日夫婦喧嘩をしたという情報が入っています。こういう日の最終打席は、確率十割でヒットしてますね」。すると、阪神の勝ちですか?「ところが、昼にカレーライスを食べた後は、八割は三振しているんですよ」。と言うと、やっぱりいつもの駄目トラということですか?「そうでもないんです。今日は出がけに、黒猫が横切ったというデータも入手しました。昨年もこんな日が延べ十試合ありまして、90%の確率で打のヒーローになってるんですね」。あなたは何が言いたいんですか?「一寸先は闇だということです。うるさい解説はやめて、試合に集中しませんか?」。
相撲を観るのも好きで、特に、あのあっけない「はたきこみ」という技で勝負が決まるのを至上の楽しみにしていて「はたきこみ集」というビデオを編集しようかなどと考えている。ふんどし姿でなく、せめてレオタードでなら、土俵に上がってもいいかなと思うことさえある。
[33年後の注釈]
1)笑い話ではない。運動会が近づくと憂鬱になり、雨よ降れと照る照る坊主を逆さに仕掛けたり、雨乞いの祈祷の仕方を父に聞いたりした。もちろん父は知らず「硝酸銀をセスナに乗って撒いたらいいんじゃないか」と人工雨のことを真剣に考えてくれたものだ。父は旧制中学時代にインターハイの選手だったほど足が速く、どうしてお前は足が遅いか分からないと言っていた。
2)大学時代の野球の話は部活ではなく(六大学野球と間違えられ、新潟の早起き野球に誘いの電話があった)、本郷の化学館前の運動場での草野球のこと。実験で火をつけてフラスコを加熱している途中でゲームに出たりしていた。
3)わが家は阪神タイガースファンの家系である。テレビに映るのは大抵は巨人のゲームなので東京で育った者は自然と巨人ファンになる。巨人・大鵬・卵焼きと言われた。大鵬は好きだったけど。子供の時は主にラジオ観戦。後楽園球場(東京ドームの前身)に来たときは宿敵巨人との試合を外野席から観戦した。掛布と私は同い年。父は浪人時代の江川卓の家庭教師をしたことがあり、巨人に入団したときに色紙をもってきてくれた。もちろん父と息子二人は阪神ファンなので、上の妹が貰ってとってある。江夏豊がオールスターで9連続三振の快挙をなし遂げたときは、上町のエーワン食堂で出前して貰ったハンバーグを食べていた。江夏の投げるフォームは観るだけで涙が出てくる悲壮感があった。悲壮感と言えば村山のザトペック投法もだけど。
4)阪神の岡田が新人の時、二塁手はヤクルトから移籍したヒルトンだったが、ファンは苛立ちヒルトンを引っ込めろとかなりきわどい野次を飛ばしていた。このあたりから阪神は大好きだが、阪神ファンとは距離を置くようにしている。
5)相撲は同居していた時の祖父母が毎場所見ていた関係で、テレビ観戦は習慣になり今でも続いている。歴代の力士のなかで一番好きだったのが藤ノ川(後の伊勢ノ海親方)。野球もだけど悲壮感のある人が好きみたいだ。相撲と言えばまだテレビのなかった時期は、電気屋のテレビを皆して見に行ったものだ。
43話 専門家ではない
専門とは、はて、一体どんな意味をもつのだろう。時々、こうぼやきたくなるのは、自分の専門が問われることが多いからである。なるほど、私の大学の部屋には「科学思想史研究室」という札がぶら下がっているし、授業科目もおおよそそれに準じたものになっている。しかし、和歌山市の寿司屋でうどんを食べることができ、新潟市内の中華店「広東飯店」で名物カレーに舌鼓を打つことができることを思い浮かべると、看板と内容との間に多少のずれがあることもまた、否定しがたい事実である。
こと私に話を限れば、あるじのいなくなった寺のにわか和尚におさまって、蒟蒻屋六兵衛のごとき者で、まともに冶金学の歴史について知りたい、なんて人がやってくると、ええ、まあ、私は徹夜で明日の話の準備をしたりするものですから、そうですね、はい、確かに夜勤のことは多少語れますが、などと訳の分からないことを言いたくなってしまう。
茶の席で婦人から唐突に戦争のことを聞かれた軍人が、そんな話よりもマドレーヌの作り方の話をしましょうと答える、チェーホフの戯曲の一場面も、やはり似たようなことを伝えているのだろう。
要は、挨拶がわりに専門を聞かれるのが、苦手というか虚しいというか、とにかく好きではないのである。もっとも、本当に心底相手のことを知りたい、という場合もあるだろう。しかし、そういうときは、専門などは尋ねてこないものだ。それなのに、人は専門は何かと問い続ける。この問いかけがステロタイプ化したのは、おそらく、大学の人間に対して専門を聞くことが、権威に対する礼儀だとする暗黙の(そして大抵は余計な)了解が成立しているからではないか、と思う。
初めまして、先生のご専門は何でいらっしゃいましたっけ?…(胸を張り虚空を見つめて)ムカデの九十八本目の足に関する生理学研究であります…いやー難しいことを!私さっぱり分かりません、論文とかお書きになるんですよね…はい、最近はムカデを偏平足にしてしまう危険なウィルスを、九十八本目の足のかかとに見いだしたので、近々ムカデ学会の九十八分科研究会で発表するつもりでおります…それはまた凄い発想ですねえ、百本すべてが偏平足になっちゃうのですか…私は九十八本目の専門家ですから、他の足については知りません。
この世に真の意味で権威ある専門家は確かに存在するだろう。私はその種の方々に尊敬の念さえ抱いている。けれども、少なくとも私は違う。知識の大海を眼前に見ながらも、ザルで海水をすくう作業を続ける一介の学徒であるにすぎない。学生に教える知識は、いずれも何ぴとであれ書物から得ることができる。だから、若く可能性の開かれた学生たちに伝えられることと言ったら、決して知識自体ではなく、そうした知識に至る過程の感動とか感銘といった類いのことだと思う。看板は科学思想史でも、切り売りしているのは、我が身に起こった感激の一部なのだとも言える。
もっとも、毎年一度はゼミ室でカレーを作って食べることがあるから、冒頭で紹介した中華店と同じような仕事をしているのかもしれない。
[33年後の注釈]
1)私を新潟大学助手に呼んでくれたのが渡辺正雄先生であることは既に書いた。助手時代の部屋は「助手室」という札の部屋にいた。犬小屋に「犬」と書くようなものだ。後に渡辺先生の後任の山本信先生が東京女子大学に転任された後を襲ったため、担当科目は「科学思想史」となった。学会誌に載せた数少ない論文が化学者ジョン・ドルトンのものであったことに拘れば、狭い意味での専門は19世紀化学思想史となるかもしれない。
2)広東飯店のカレーの話をこの記事で書いたら、飯店主人から葉書を頂いた。何でも中華なのにカレーをメニューに加えたのは理由があるのだそうだ。若い頃東京オリンピックの選手村の料理人に選ばれ、そこでインド人コックと仲良くなり、互いに料理を教えあった。その時の思い出でカレーを出すようになった。カシミールカレーのように見た目はブラックで粘性のあるソース。書いていたら食べたくなってきた。明日あたり行ってみようか。いや、そもそもまだあるのか?いや調べたら…どうも閉店らしく、このカレーを継承した華園のインドカレーの写真を冒頭に掲げる。これは今でも食べることができる。
3)このチェーホフの戯曲名が思い出せない。レーザー研究者の遠藤彰さんと東京で何度かチェーホフの芝居を見たので、そのなかのどれかなのだが。「かもめ」「桜の園」「三人姉妹」(田中裕子が好演)、もしかしたら「プラトーノフ」かもしれない。
4)ムカデの足ごとに分科研究会がある、という話は、シャルガフ「ヘラクレイトスの火」に出てくるパロディー。訳者が村上陽一郎先生なので、授業中によくこの話を聞いた。専門はあまり細かくなると理解できる人間がわずかになり、そもそもそんな専門は必要かという話になってしまう。もうすぐ出版の運びとなるピーター・バークの『博学者論』でバークは、専門分野(field)という表現は適切でなく、正しくも「縄張り」とすべきだと書いていた。その「縄張り意識」がたぶん嫌いなんだと思う。若い哲学の先生によると最近は専門といわず「業界」と言うそうだ。
5)ゼミのカレーは毎学期末の恒例行事。この日しか来ない学生もいた。玉葱みじん切り、生姜、ニンニクを炒めて、スパイス(クミン、コリアンダー、カルダモン、レッドペッパー、カイエンペッパー、クローヴ、フェンネルシード)を加熱してから加え、トマトの乱切りを入れてさらに炒めるのだが、水は入れない。この後ココナツミルトかヨーグルトを入れたりする。楽天のサイト「みんなの大学」では「カレーが食べられる授業」と紹介されていた。
44話 斎藤先生を偲ぶ
小学校に入ったばかりのころ、登校拒否をしたことがある。図画の時間に必要なクレヨンを忘れ、男まさりの女の子にとがめられたことが直接の理由らしいが、正確なところは覚えていない。庭から入ると、その日は両親とも居間にいて、学校に行きたくないと言ったら、あっさり認めてくれた。ところが、数時間後、担任の先生が四キロの道のりを自転車に乗り、汗だくになってやってきた。信州の山奥からやってきたその先生は、とにかく怖いことは無いから、しばらくたったらまたおいで、と優しく言ってくれた。父と母以外に自分のことを考えてくれる人間と初めて出会ったような気がした。
当時二十代の青年教師であった斎藤幹夫先生は、三十八人の生徒をわが子のようにかわいがってくれた。もちろん、叱られるときはあったけれど、相手をつきはなす冷酷さや、自分の立場ばかり気にする俗人根性が微塵も感じられない人だった。たとえば、こんなことがあった。私のいたずらは、大抵笑って大目に見てくれたのだが、ある日、血相を変えて怒り出したのである。級友の弁当を隠しただけなのに、いつもと違う。後年追想して分かったことだが、その子はターゲットにされやすい内向的な生徒だったようだ。弱い人間をいじめるな、と教訓を垂れるのではなく、ただ、お前は悪いやつだ、と言うだけで、後は心が透けて見えるほど澄んだ眼でひたすらにらむだけなのだ。信じてやまない人の世の価値を、自ら生き続けている者にだけ許されるのであろう、その生きざまに決して違背することのない、厳しいが温かい言葉であった。
卒業後は、私たちが訪ねてゆくと、いつも顔をほころばせて迎えてくれた。嫁いだ女子生徒に子供が生まれると、また孫ができた、と同僚に自慢していた。誰もが慈父を思うように慕ってきた斎藤幹夫先生が先ごろ亡くなられた。心臓を患っていたことは知っていたが、あまりにも唐突で悲しいできごとだった。その日以来私は、知らず識らずのうちに、回想にふけりながら先生の会話を繰り返している。
《先生、死んじゃったんですね…男の子が泣いてどうする。もう終わったことだよ…散歩の時間に皆で先生をおぶったことがあったでしょ…ああ、弘幸が弁当を忘れた時だな…ぼく、力がなくておぶえなかった…あの頃、お前や古谷は小さかったからなあ…先生が生きているうちに、おぶってあげたかった…ほれ、お前はいつもできないことばかり望む癖がある。さあ落ち着いて、べそをかくのはやめだ…うん、でも先生に何も返すことができなくて、悔しいだけ…それよりだね、早く嫁さんもらえって、お前だけなんだぞ…うん、見ててくれますか…ああ、いつだって見ているさ》。
もう四半世紀の歳月が流れてしまったが、卒業記念の英和辞典に、斎藤先生は「数は無限、研究も無限」と書いてくれた。私の幼少からの探究癖がやがては研究の名に値する果実を結ぶと信じてくださったのだろうか。いやいや、人間の限りある生涯の中でできることと言ったら、所詮、無限を無限として改めて実感しうるほどのことにすぎないと、戒めてくださったのだろう。先生、ありがとう。
[33年後の注釈]
1)クレヨンを忘れたことを責めた女の子は門屋さん。忘れません、絶対に。ただ伏線があったことを思い出した。子供ならではの残酷さで見たまんまのあだ名をつけいて、門屋さんのことを「カバ屋」と呼んでいた。悪いことをした。他にも椅子を引いて転ばせたりしたから、当然の報いですね。斎藤先生が応接間で親と話している間、子供部屋の二段ベッドの上段で耳を澄ませながらふて寝していた。この時に限らず、うちの親は勉強しろとか、学校に行けとか一度も言わなかったなあ。本当はどうしようか心配でならなかっただろうに。
2)斎藤先生は長野県飯山の出身。雪が深いところに居たと言っていた。島崎藤村「破戒」の舞台、確か。この記事を読み直し、今こうやって注釈している最中に涙がとまらない。本当にいい先生だった。どう表現して良いか分からないけど、先生のことを想うと、胸をしめつけられるような気持になり、世界中の人に優しくしたくなる。38人みんなそう思っていただろう。初めて本を書いたときに小学校に持っていったら、顔をほころばせて、同僚の先生方に「井山が本を出したんだ!」って言って見せて回ってくれた。
3)散歩の時間って分からないと思うが、成城学園初等科には正規の授業科目として「さんぽ」があった。他に「あそび」もあった。仙川近くの公園で誰が斎藤先生をおぶえるか競い合った。勉強ができてもほとんど誉めてくれなかったけど、こういう子供じみたことでは手放しで誉めてくれたから。枡形山への遠足で水筒の蓋を失くして泣いたことを思い出しては「お前、よく泣いたなあ」と(他にも覚えていて欲しいことはあったのに)語ってくれたものだ。
45話 怖い夢を見た
夢とは聞いて心地よい言葉だ。映画「オズの魔法使い」の主題歌に「虹の彼方のどこかしらで、空は青く澄みわたり、あなたの抱く夢は正夢になる」という有名な一節があるけれど、夢という言葉には、大抵、希望とか輝かしい未来といったイメージが伴い、虹とか金米糖とか、あるいは白馬やラベンダーなどの心象がいつもまとわりついているようだ。
ボルヘスの「夢の本」をはじめとする夢の逸話を収集した書物の中には、芸術家に貴重な霊感を与えた夢の数々が惜しげもなく並んでいて、夢は人生を幸福の色に染めあげるまばゆい光であるばかりでなく、詩神ミューズに幻惑された者どもの表現意欲をことさらかきたてる、汲めども尽くせぬ想像力の源泉としてとらえられていることが分かる。
夢で見た大洪水をそのまま絵にしたデューラー然り、夢うつつの中で作った詩を書きとめたコールリッジ然り、そして夢の中で悪魔から教わった旋律をバイオリン曲に仕立てあげたタルティーニも然り。
残念なことに、夢を見ることが多い割りには、私は、こうした夢のもつ好ましい効能とめぐりあったことがない。たとえて言うなら、私の夢は、心配の糸と悔恨の糸とで織りなされた不安と困惑の色をしたタペストリーだ。だれが好んで人に話そうか。でもまあ、ついでだから一つだけ書いちゃおう。
《おや、と異変に気づく。大学に行くと誰もが古代中国人の服を着ている。玄関の表札を見ると、うん?私のところに車騎将軍付け人とある。えっ?漢の時代なのかなあ、と思うも、別段不思議に感じない。向こうから糟谷先生がやってきて私を見とがめ「文武百官が全員揃う大事な会議なのに、井山さんまたサボったでしょ」とニヤニヤ笑いながら言う。大変だ。脱兎の勢いで会堂へ行くと、案の定、皆苛立った面もちで私の方に視線を集める。「今、刑罰について話していたところです」。宮崎学部長が重々しい口調で切り出した。こうなったら平謝りに謝るしかない。そうか、欄干にしがみついて減刑を嘆願すればいいんだ。都合よいことに朱塗りの欄干がある。折れそうもないなあ、と思いつつも、お願いですから塩辛の刑だけにはしないで下さい、と言うと、あれ、児島先生が青銅製の刀と塩辛用の壺を持って立っているではないか。「それでは車騎将軍、時間がないので手短に」。いつのまにか両腕を押さえられ、今にも刑が執行されようとしている。辞世の句を詠むひまもくれないのか。そうだ。塩辛にすると言っても、一滴でも血を流して良いとは言ってませんよね。シャイロックを責めるように、必死の抗弁をしたが無駄であった。ここはやはり中国であったか。南無三と頭をうなだれると、あらら、壺にはもう塩辛が入っているのだ。「寺泊の魚市場で買って来たんだよ」。車騎将軍がおっしゃる。「コンパで皆食べるだろ」。いつのまにか舞台は移り、周囲には学生がいて談笑している。これカナッペにしていいですか、とパーマをかけた東州君がやってきて壺をもっていってしまった》。
目が覚めると昼過ぎで、尾長鶏の鳴き声が聞こえてきた。当分塩辛は食べまいと固く固く決意した。
[33年後の注釈]
1)オズの魔法使いの主題歌 Somewhere over the rainbow を歌っていたのはジュディー・ガーランド。母は映画主題歌集のレコードを毎日かけていて、意味が分からない頃から聞いていた。ボルヘス「夢の本」は国書刊行会から出版されていて、今探したけれど見つからない。印象的なのは千一夜物語のなかのシェヘラザードの話が入れ子構造になっているくだりで、妙に忘れられない。コールリッジの夢で詠んだ詩は「クブラ・カーン」で当時、神田神保町の大屋書店の包み紙(ブックカバーに利用)になっていた(たぶん著者の筆跡)。タルタィーニは後年CDで聴いたが、どこが悪魔なのかよく分からないバロックの普通の曲でがっかりした。
2)今でも夢日記をつけているので分かることだが、薔薇色の夢とか夢見心地なんて言葉が信じられないような、はらはらする夢が多い。一番多いのは肝心な時に自分が服を着ていないことに気がつくという夢だ。とにかくパンツくらいは買おうと店を探したり、それどころでないのに、他人は自分の裸に気がつかない。もう一つの定番は、舞台で出番が近づいているのに台詞を覚えていない、という夢。碌に台詞のある役についたことがないのに変な気持だ。
3)車騎将軍って誰を考えていたのか。中国史は好きでほぼ毎日のように、いずれかの時代の歴史小説や評論を読んでいる。調べたら、三国志の蜀漢の張飛が車騎将軍に就任しているけど、三国志を読んだのはもっと後の時期だから違うだろう。糟谷先生!見た目はパッとしない中国史の先生で教え子と結婚して周囲を唖然とさせた。一生独身だと思っていたので、多くの同僚に希望を与えた。後に一橋大学に移られた。会議をサボるのは毎度のことで、最大で二年間月一の教授会に全く出なかった。この夢に故児島洋先生(専門は現象学、航空工学から哲学に転進した異色の人で、魁偉な出で立ちでヤクザな相貌。何度も胸元つかまれて叱られた。でも阪神タイガースファンで猫好きであることが後で分かり、それからは親しくなった)が出てくるのは必然で、私がサボることをかなり嫌がっていた。「大学教師の給料は授業に対してではなく、嫌な会議に出席することへの対価である」が持論であった。
4)塩辛の刑罰と言えば、「項羽と劉邦」に出てくる天才将軍韓信の末路。呂太后に疎まれて奸計に遭いあえなく殺された。
5)東州君!君を探しているんだ、ずっと。私の最初のゼミ生の佐藤東州君。米沢興譲館高校出身で家が国学の家系か何かでなかなかの文章を書く学生。平賀源内で卒論を書くというので、彼のために平賀源内全集を買った。学生との温泉旅行には大抵同伴してくれた。確か結婚式にも出てくれたんじゃなかったかな。十年くらい前から音信不通の行方不明。
6)新潟大学から車で一時間ほどのところに寺泊魚市場があって、ここで魚介類を買ってきてコンパをすることが結構あった。一度、生牡蠣やムール貝買ってきてパエリヤを作った時、集団食中毒を起こしたこともあった。サルモネラ菌か?私は腐ったものを食べても中毒にならない特異な体質なので助かった。
7)塩辛は佐渡の丸中商店のものが絶品で毎年佐渡の看護学校に論理学を教えに行くと、この塩辛とイカの一夜乾しを買うのが習慣になっている。