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宮崎市定氏, アジア史論考, 中巻, 部曲から佃戸へ―唐宋時代社会変革の一面―を読む…。その四…。
宮崎市定博士 宮崎市定 - Wikipedia 氏の、まとまった論述集、アジア史論考 CiNii 図書 - 宮崎市定アジア史論考 の、中巻における、部曲から佃戸へ, を考える記事、その四、です…。すでに該当書籍を精読なさっている方にはあまり意味のない記事にはなります。
当稿では、その三に続いて、部曲( 部曲 - Wikipedia )から佃戸( 佃戸 - Wikipedia )への荘園労働者の社会的移行についての省察をしていきたいと思います。要約・引用は、中巻, 部曲から佃戸へ―唐宋間社会変革の一面― p 264 ~ 338 , における、七 身分制社会の消滅へ p 323 ~ 335 乃至 338 , であります…。
では、考えていきましょう…。
身分制社会の消滅へ。
宋代の政治はその前代に比べて、いくつかの優れた特徴をもっていた。従来の身分制を打破して独裁君主の下に、万民は互いに平等であるべきだという原則を樹立したのは、そのひとつに数えてよいであろう。
中国歴代の政治が、人道的な観点から考えて優れた原則を立て、なるべくこの原則に外れない範囲においてその政策を実施しようとした努力は適切に評価されなければならない。もちろん現実は理想が直ちに実現されるほど容易ではなく、従って政治には妥協もあり、変質もあり、修正もあり、堕落もあるが、しかもそのそこには大きな進歩の潮流があることを見逃してはならない…。
中国では売買という言葉を、所有権移転というほどの深い意味を含まず、単に傭うという意味に最近まで用いていた。近世では奴婢を買う、妾を買うとあっても、それは年期奉公の契約のことを指すのである…。
佃戸が法律上、地主に対して劣位に立ったと言っても、それは単に対地主関係にとどまり、他の第三者に対しては対等の地位を失わない。この点は、唐代の部曲が主人以外の一般良民に対しても劣位に立たされたのとはことなる。しかも宋代紹興の制における地主と佃戸との二等の差とは、実は唐代における一般良民と、赤の他人の部曲との間の差にほかならぬのである。宋代の佃戸は一種の身分には違いないが、その身分はこれを唐代の身分制社会における身分に比べるときはほとんど言うに足らぬものであり、しかもその身分など差も臨時的なもの、すなわち地主から田地を借りている間だけのものである。もし田地を返し、佃戸でなくなってしまえば、良民すなわち自由民本来の姿に戻るのである…。
宋政府がこのように、万民平等の原則に立ちながらこれと矛盾する如き、佃戸の地位低下の立法をあえてしたのは、理論を離れた現実的な必要に駆られた点もあった。政府の財政の大本である両税は地主によって納められる。その地主の財政は佃戸の納める地代によって支持される。そこで地主の後盾となり、地主をして完全に佃戸を把握せしめなければ、地主の許に地代が集まらず、地主の手に地代が集まらなければ、政府がそこから両税を徴収することができなくなるのである…。そこでもし佃戸が地主に対し地代を滞納すると、政府が直接に介入し、県尉が佃戸を拘引するようなことがあった。元来、地主と佃戸との契約は私法の範囲であり、その私法的な経済関係に県尉が実力行使にでるのは明らかに行きすぎであるが、併しそれも政府の存立にまで関係してくるとすればやむを得ぬと考えられたのである…。
もちろん地主が政府の権力にたよって地代を取り立てるなどは、策の得たるものでなく、つねに佃戸を優遇し、折半の感から進んで作料を納めるよう教育すべきであるが、ただし利得をもってかわろうとしないような頑固な佃戸に対しては、地主の地位優越性を認めて、地主の力によって作料を徴収し、政府の力をわずらわせないようにしておくことが望ましかったのである…。だからひとたび地主の許を去って佃戸でなくなれば、政府はこれをもとの自由民にかえすのである…。唐政府が部曲にたいし、旧主人にも恭順なることをもとめて、身分制社会を維持しようとしたのに対し、宋政府はそのような原理には何等興味を持たなかったと見える…。
唐代では奴婢はもちろん、部曲もみずからその身分を脱却することはできなかった。それは主人の好意による開封手続きを待たねばならなかったのである。これに反し宋代の佃戸は自己の自由意志によって、借地を地主にかえし、佃戸の地位から脱離することができた。これを辞離、退佃、起移などと称した…。~~
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